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2020年1月22日 (水)

安息日論争

間第二水曜日 ミサ説教

2020122()、本郷教会

 

昨日の福音と今日の福音は、共に安息日を巡る論争を伝えています。

昨日、イエスは言われました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マコ2:27

この言葉は人びとには許し難いと受け取られたと思います。

安息日は主の十戒の中の三番目の掟で、彼らは非常に重要な掟と考えていました。

昨日も申しましたが、安息日には何をしてはならないということが、律法学者の重要な研究課題でありました。

こんにちでもユダヤ教では、安息日にしてはならないこと許されることについての詳しい分類がされていると聞いております。

この議論は、わたくしたちにはあまり意味がないですね。

わたくしたちの場合は、主の日である日曜日があり、その日曜日をどう過ごすかということが大切であります。

昨日も言ったことですが、今はさほど日曜日の意味を考えることがないように思う。

これは問題であると思います。

さて、今日の福音では、イエスは最初から安息日に彼らが許されないと思っている行為を行うつもりであったことが窺えます。

いわば挑発的とも思える行為でありました。

そこで率直に感じるのは、なぜわざわざ彼らを怒らせるようなことを安息日にしたのかということであります。

安息日ではないほかの日時に手の萎えた人を癒すこともできたわけです。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

論理が飛躍していないでしょうか。

命を大切にするということは重要でありますが、手の萎えた人をいやす行為は、命を救うというほどのことではないのではないか。

「善を行うことか、悪を行うことか。」

答は明白であります。

しかし善いことであっても安息日にしなくともよいという論理があります。

今日のわたくしたちの場合、日曜日に《いやし》をおこなってよいかどうかについては、ほとんど議論の余地がないでしょう。

日曜日に家族の具合が悪くなったら救急車を呼ぶのは当たり前で、日曜日だからは止めておこうと思う人はいないわけです。

それでは、この安息日論争というのは、なにを意味しているのでしょうか。

そこでわたくしたちが考えるべきことは、イエスはなぜ律法学者やファリサイ派、ひいてはヘロデ派の人と対立し、処刑されるようになったのかということであります。

キリスト教の成立というのは、律法についての解釈の違い、律法とはなんであるかについての理解の違いから来ているとわたくしは思います。

 

第一朗読  サムエル記 上 17:32-3337:40-51
(その日、)ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。

 

 

福音朗読  マルコによる福音書 3:1-6
(そのとき、)イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

 

 

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