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2020年1月21日 (火)

主の日の意味

聖アグネスおとめ殉教者ミサ説教

2020121()、本郷教会

 

「安息日を守りなさい」という掟は、イスラエルの人びとにとって非常に重要でした。

こんにちでもユダヤ教徒は厳格に安息日を守るようにしているそうです。

キリスト教徒の場合、安息日の規定は廃止され、その代わり主の日である日曜日を聖とすることが重要な義務となっています。

日曜日のミサの参加、日曜日を主に献げるという掟がこんにちどうなっているのか。

はっきり言うと、事実上ほとんど守られていないわけです。

これをどう考えたら良いのでしょうか。

もちろん、いろいろな事情がありましょう。

日曜日に仕事をしなければならない人もいる、家族の中で自分だけが信者であるので毎日曜日に教会に出かけることが難しい人もいる。

しかし、どんな理由があるにせよ、主の日を聖としなさいという掟が廃止されたわけではない。

そして、なぜ主の日を聖としなければならないのかという理由について、わたくしたちはさらに黙想する必要があるのではないだろうか。

 

今の社会は、労働して収入を得るということが基本になっている社会です。

労働しない、自分のために働かない、何の利益にもならない時間を神さまに献げるということがほとんど行われていない。

今のユダヤ教徒がキリスト教徒にとって廃止された安息日を、こちらから見れば極端にまで守っているということを否定的に見るよりも、肯定的に見る必要があるのではないだろうか。

聞くところによりますと、何をしたら良いのか何をしたらいけないのかということが厳格に厳しく定められているそうです。

そこまでしなくても良いと思うが、しかし、日曜日をどう過ごすのかということについて、わたくしたちはもっと真剣に反省する必要がある。

自分のためではなく、神のために献げる時間であります。

神のために献げるということが、結局自分のために献げることになるのではないだろうかと思う。

 

 

第一朗読  サムエル記 上 16:1-13
(その日、)主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

福音朗読  マルコによる福音書 2:23-28
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

 

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安息日について考えました。大切な日にしたいと思います。

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