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2020年1月19日 (日)

タリタ・クム

病者のためのミサ説教

                                                                                                                              2020年1月18日(土)、本郷教会

病者のためのミサを献げながら、福音書からイエスが病気の人や障がいのある人にどのようになさったのかということを学んでいきたいと思います。
非常に目立つことは、イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊に憑かれた人から悪霊を追放したという記述であります。
今読んだルカによる福音では、二つのいやしの話が告げられている。
一つはヤイロという会堂長の娘のよみがえり、もう一つは出血症の女性のいやしの話です。
この二つの話が同時進行のように述べられています。
ヤイロの娘の話の中に、出血症の女性の話が挿入されているという形になります。
出血症の女性の方の話をまず見ますと、どんなに辛いどんなに苦しい体験を重ねてきたことでしょうか。
十二年間にもわたって出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしが、一向に効き目がなく、治らなかった。
出血している女性には触れてはいけないという考えがイスラエルの人びとの中にあったので、この女性がイエスに触れるということはその禁を犯すということになるわけです。
こっそり分からないようにすれば何とかなると思ったのでしょうか。
みんなの見ている前でイエスの体に触れる、イエスに触れていただくというわけにはいかない、そういう状況だったと思います。
群衆に紛れてイエスの服の房に触れると、たちどころに出血が止まったと述べられている。
「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」(ルカ8:47)とありますが、触れてはいけないという禁を犯し、たちどころにいやされたという状況で、イエスがどういう態度をとるのか注目されるところですけれども、イエスは言われました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)
「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、かなり頻繁にイエスの口から発せられた言葉であります。
「信仰」と「いやし」との間には何か関係があるのでしょうか。
この出血症のいやしの話はほかの福音書にも出ていますが、この娘はイエスの体にさえ触れればいやされるであろうという強い信仰を持っていたのであります。
「安心して行きなさい。」とイエスは言われましたので、この女性はどんなにか喜んだでしょうか。
 
そして、この女性のいやしが間に挟まっている形でヤイロという会堂長の娘、十二歳の少女の話が進行していきます。
これから人生が花開いていく時に死ななければならない、本人もさることながら、家族の嘆きはどんなに深かったかと思います。
会堂長はイエスに娘のいやしを願ったが、家に着く前に娘は息を引き取ったので、遣いを送ってもう来ていただくには及びませんと伝えました。
ここで言われたイエスの言葉は、
「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(ルカ8:50)
この「恐れることはない。」という言葉も、イエスがたびたび口にしている言葉ですね。
わたくしたちはどういう場合に恐れを持つのでしょうか。
いろいろな場合がある
もちろん第一次的には健康に関することでしょうが、それ以外にも生身の人間はいろいろなことを恐れている。
何かを失うこと、財産を失うこと、名誉を失うこと、失敗することなどさまざまなことを恐れている。
信仰というのは、人間としての恐れを持つとしても、でも恐れない、ということではないだろうか。
恐れるなと言われても、生身の人間は恐れるわけです。
ヨハネの手紙にこういう言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハ4:18)
愛があれば恐れることはない、恐れがあるのは愛がないからだと言われてしまうと、愛のテストみたいですけれども。
人間はいろいろなことに恐れます。
恐れても恐れに負けない、恐れを越える力、それが信仰だと思います。
「恐れることはない、ただ信じなさい。」
信じるという場合に、いやしを受ける人の信仰がまず考えられます。
出血症の女性は、その思いつめたとさえ言える信仰、イエスへの深い信仰、信頼の心にたいしてイエスは応えられたと思われる。
ヤイロの娘の場合は、娘自身の信仰については何も言っていない。
父母を始めとする娘のことを心配している人びとの信仰に対して、「ただ信じなさい。」と言われたのであります。
さて、イエスは会堂長の家に着いて娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると娘はすぐに起きあがったとあります
「その霊が戻って」という言葉が入っているので、死ぬというのは霊が去ることであり、
生き返るというのは、その霊が戻るというふうに考えたのでしょうか。
イエスが娘の手を取り、言葉をかけると、彼の言葉は力があって、その言葉の内に込められている真実が現実になったのであります。

 

共観福音書の並行箇所を見ると、マルコの福音では、
「そして子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。』という意味である。」(マコ5:41)
イエスの言われた「タリタ、クム」はアラム語でありまして、ギリシア語で編纂された新約聖書には、イエスが語った言葉の音声として、いくつかのアラム語が直接使われている例があります。
それは非常に印象が強かったために、音声がそのまま耳に残ってほかの人にも伝えられていった「言葉は力」という考えです。
現代のわれわれの力は薄く、いい加減なものという感じがありますが、本来人間は言葉というものが持つ力を信じていた。
良い言葉を使い、悪い言葉は使わないように努めていた。
良いことを言えば良いことが起こり、悪いことを言えば悪いことが起こると素朴に信じていたのであります。
イエスの「タリタ、クム」(娘よ、起きなさい)
この「タリタ、クム」という言葉が発せられると、娘の霊が戻ってきてすぐに起きあがったのでありました。

イエスとはどんなかたであったのかということを、日々より深く知るように努めることが、わたくしたちの務めであります。
すべての人が心と体の健康を願っています。
なかなか実現は難しいわけですが、今日の第一朗読にもあるように、人の痛みや苦しみを担うことによって、わたくしたちは互いに支え合い、助け合うことができるのであります。
今日のミサ、そして今日授けられる病者の油が、わたくしたちの力、わたくしたちの希望となりますように祈ります。
――

 

第一朗読 イザヤの預言 53・1-5
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

福音朗読  ルカによる福音書 8・40-56
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。
イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」エスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 

 

 

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