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2020年1月28日 (火)

わたしの兄弟・姉妹とはだれか

聖トマス・アクィナス司祭教会博士記念日
ミサ説教

2020128()、本郷教会

今日のマルコによる福音の場面を思い浮かべてみましょう。

イエスは神の国の福音を宣べ伝えていました。

多くの人がイエスの周りに集まって、話に聴き入っていた。

「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。」とあります。

そこにイエスの母と兄弟が、何か用があったのでしょうか、イエスに会うために訪ねて来た。

そういう場面であります。

「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、

イエスの言葉は意外なものでありました。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して、

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

ここに教会のありかたが示されていると思われます。

聖書全体を通して見ると、イスラエルという民族集団は、血縁によって成立していたと思われます。

マタイの福音書の冒頭は、カタカナの名前の羅列である系図が続くので、多くの人はここで躓いてしまう。

しかし、聖書にはそのような血縁を越えて、すべての人を一つに集めるという動きが流れている。

イスラエルの人びとは、十二の部族の連合体であったようですが、イエスによって天の父を信ずる人びとの範囲がユダヤ人以外の人に広がっていく様子が、使徒言行録などによって示されています。

さらに、「すべての人に福音を宣べ伝えるように」と復活したイエスが命じられ、その命令を受けた教会は、民族の境界を越え、国家の違いを越え、文化、言語の違いを越え、すべての人にイエス・キリストを宣べ伝えるという使命に励んできました。

しかし、同じイエス・キリストを信じる人の間に対立や相克があったことも事実であります。

ほかの宗教に対する態度が、必ずしもイエスが望んでいたようなものではなかった。

カトリック教会は二千年の歴史の中で絶えず反省と刷新を繰り返してきました。

第二バチカン公会議において、教会一致運動と諸宗教対話という路線をはっきりと打ち出したわけであります。

日本のカトリック教会も、1993年の第二回福音宣教推進全国会議を端緒に、家庭という現実を踏まえて、家族という繋がりを教会という繋がりと重ねて、より確かなものにしようとする努力が行われてきました。

第一朗読  サムエル記 下 6:12b-1517-19
(その日、)王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。

福音朗読  マルコによる福音書 3:31-35
(そのとき、)イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

兄弟姉妹とは血縁ではなく、神の御心を行う人。 サムエル記とマルコの福音についてのお説教からキリスト教の信仰について考え、なぜか気持ちが静まりました。

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