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2020年1月29日 (水)

キリストの言葉を受け入れる心

年間第三水曜日 ミサ説教

2020129()、本郷教会

第一朗読 サムエル下74-7

福音朗読 マルコ41-20

 

イエスはしばしば「たとえ」をもって、神の国の福音をお話しになりました。

今日の福音は「種蒔きのたとえ」と呼ばれています。

イエス御自身がこの「たとえ」の意味を説明されました。

「種」というのは神の御言葉、「種を撒く人」はイエス・キリスト御自身です。

パレスチナの農業では、種はいろいろなところに撒かれるようであります。

道端に落ちた種、石だらけの所に落ちた種、茨の中に落ちた種、そして良い土地に蒔かれた種、それぞれ撒かれた場所の状態によって実の結び方が異なってきます。

道端に撒かれると、すぐにサタンが来て御言葉を奪ってしまう。

石地に撒かれた場合は、一旦は御言葉を受け入れるが、根がないので困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう。

茨の中に撒かれた場合、わたくしたちはこの場合に当てはまることが多いと思いますが、この世の思い煩いや富の誘惑、自分の欲望に囚われて、身を結ぶことができなくなる。

良い土地に蒔かれた場合は御言葉を受け入れて、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。

カトリック教会の教えの中には、いろいろな定理・命題があります。

その中に次のような言い方がある

「何であっても受け入れられるものは、受け入れる人の受け入れ方に従って、受け入れられる。」(ラテン語で「Quid quid recipitur ad modum recipientis recipitur.」と言います。)

これは人間の認識の仕方についての法則であります。

人は物事を理解する時に、理解の仕方の枠組みというか、理解の仕方の仕組みというものが既に出来ていて、その人の受け入れる能力や方法によって受け入れるので、その結果が異なってくる。

わたくしたちの理解の仕方も、既に知っていることの中に受け入れようとする。

知らないことについても、すでに知っている事と結びつけて受け入れようとするわけであります。

今日のこの譬え話の説明のために、この定義が有効かどうか自信がありませんが、「心の貧しい人は幸いである」とイエスは言われた。

心から神の救い神の恵みを求めている人は、神の言葉が心の中に沁み込んでくるのであります。

 

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コメント

「心から神の救い神の恵みを求めている人は、神の言葉が心に沁みこんでくる」

忘れないようにしたいと思います。  

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