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2020年1月 5日 (日)

主の栄光が極東の島国に・・・

《主の栄光が極東の島国に・・・》

 

主の公現

202015日、本郷教会

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ60:1-6
第二朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3:23b5-6
福音朗読 マタイによる福音(マタイ2:1-12

 

説教

主の公現の祭日です。
公現、公に現れるという言葉に表されていますが、お生まれになった主イエスが、異邦の民にも現れたという日を記念する日であります。

本日、登場する占星術の学者達とは、東方から、ベツレヘムまで、星の導きに従って遥々訪ねてきた人達であり、「三人の博士」と昔から言われています。
この「占星術の学者たち」と訳されています言葉はmagoi(単数はmagos)(マゴイ)というギリシャ語から出て来ていて、どういう意味でしょうか、ペルシャの宗教家を本来意味していたのだそうです。

後に、「占星術の学者」とか、あるいは、「魔術師」、あるいは、「手品師」magician (マジシャン)をあらわすようになりました。
三人の博士といいましたが、人数は書いていないのです。おそらく、三人だろう、というのは、「黄金」「乳香」「没薬」をささげたから、それぞれの三人がその一つを献げのだろうと推測されているからです。

先ほど、歌った詩編で、「タルシス」や島々の王が献げ物を、「シバやシェバの王が」貢ぎ物を納めた、という箇所が三人にあてはめられ、彼らは王であるとされているのです。
皆さん、ご存知と思いますが、東京教区とケルン教区は友好関係にあり、ケルンのカテドラルは、この三人の博士、三人の王に捧げられた教会です。
三博士は「三賢王」とも言われています。三賢王の遺物が納められている教会となっています。

そして、その三人の名前も聖書には書いていないが、歴史の流れの中で、それぞれ名前が付けられたということです。「黄金」をささげた王がMelchiorメルキオル、「乳香」をささげた王がBalthasarバルタザル、没薬をささげた王がCasparカスパルとされている。
これはそれぞれドイツではよく使われる有名な名前と
なっている様ですが、それはともかくとして、きょう記念する「ご公現」、「三賢王」の礼拝というのは、今の私たちにはどんな意味があるのでしょうか。何か、そういうおとぎ話を聴いて、「ああ、そうですか」ということで終わるのでは申し訳がない。
わたくしは、二つのことを思います。
一つはヘロデ王のことです。ヘロデ王は「不安」に思った。なぜ、不安に思ったのでしょうか。ヘロデは「大王」と呼ばれていて、業績を上げた人なのです。神殿を再建した人であり、税金の免除などもした、立派な王という評価もあるが、他方、非常に残忍な王であるという記録も残っている。非常に猜疑心が強い人であった。自分の地位を脅かすのではないかと疑うと、その人を情け容赦なく排除するということをした人であります。
ユダヤの王が生まれるとなると、その子が自分の地位を脅かすものであると彼は考えたのでしょう、本当に、理不尽な残酷なことをしたもので、「幼子殉教者」の日というのを先日、記念したのでありますが、

全く無辜の、何の罪の無い、生まれたばかりの子どもを惨殺したのでありました。

人間の心というのは、まことに不思議なもので、生まれた子供が自分を脅かすと、どうしてそう思ったのか。それでベツレヘム周辺の子どもを全部殺すように命じたわけであります。

ここに思うに、ヘロデは特にひどい人であったけれども、わたしたちの中にも、時に、ヘロデ的な心がどこかに棲んでいるのではないかという気もする。

それは、さておきまして、東の方から三人の博士が来ました。わたしたちはその東のまた東、極東といわれるこの島国に住んでいるものであります。

この日本という国で、イエス・キリストの栄光をどのように受け、どのように伝えたらよいでしょうか。

わたしたちの課題は、どのようにして、わたしたちが受けた福音を人々に伝え、そして、表し、証しするかということであります。何度も同じことを言っておりますが…。

まあ、わたくしは今年の年始、三日間ほど、故郷、千葉県市原市というところですけれども、行ってまいりまして、そこでしみじみと考えました。毎回のことですけれども、全くといっていいほどキリスト教、まして、カトリックと縁のないところであります。そこに住んでいる人に、どういうふうにイエス・キリストを伝えるのか、わたしもそこで生まれ育て一人なのですね。
今、こうしていますけれども…。
この、繋がりというものは、どこにあるのだろう…。当惑し、自信が持てない、そういう自分を見出す。
しかし、イエスが弟子たちに言われた言葉の中で、非常に多い言葉として、「恐れるな」という言葉言があります。いろいろな時にイエスは「恐れてはならない」と言われました。

まあ、ヘロデが恐れたのは、自分の地位が脅かされるということを恐れたのですが、まあ、わたしたちはそういう理由ではないが、なんとなく自信が無い。
本当に自分は福音を信じているのだろうか、信じていれば、堂々とその信仰を伝えればよいのではないか、そうすると、本当に自分は神の恵みに与り、そして、聖霊が注がれて、自分の中に父と子と聖霊の神さまの恵みが注がれているということを心から固く信じているだろうか。
自分ではない、わたしたちをとおして働いてくださるのは、父と子と聖霊の神さまであります。

神の愛がわたしたちの中に注がれている。そして、「完全な愛は恐れを取り除く」と言われています。

使徒パウロは、何かわかりませんが、とても辛いことがあって、「棘」と呼んでいますが、その棘を取り去ってくださいと祈り求めましたが、聞き入れられなかった、そして、主は言われた。「私の恵みはあなたに十分である」「私の恵みはあなたの弱さの中に働く」。
あの使徒パウロ、あの猛烈な人ですから、まあ、わたしたちはその何分の一でもパウロに倣い、自分の弱さあるいは、至らなさ、あるいは、罪深さにもかかわらず神がわたしたちをとおして働いてくださるという信仰を、きょう、改めて確認し、深めるようにしたいと思うのであります。

この本郷教会に、かの幼子イエスの栄光が輝き出ますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。

 

 

 

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コメント

お説教をこのように拝読できることに感謝いたします。 ヘロデ王のこともパウロの話も心に残ります。

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