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2020年2月19日 (水)

心の目を開くには?

年間第6水曜日説教

2020219日、本郷教会

 

今日のマルコによる福音はイエスが一人の盲人をいやされたという話であります。

今日の話を読んで気の付いたことを少し申し上げます。

イエスは非常に丁寧に優しく盲人の目を開けてあげています。

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」とあります。どうして村の外に連れ出したのでしょうか。人の目に触れないところに連れて行ってお癒しになったのであります。

「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

イエスは段階的に盲人のいやしを行いました。

「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』

そして次の段階で

「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」

のであると記されています。

そしてイエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。

「メシアの秘密」という言葉があります。イエスはたびたび、いやしを行った時に、この事を人に話してはならない、と告げています。何故であるのか、が論じられています。おそらくご自分の使命が誤解されるのを恐れたからであろうと言われています。

盲人の目を開けてあげたという話は他にも出ています。

ところで今思いますに、わたしたちは心の目をもっと開けるようにしなければならないのではないでしょうか。心が開いていないと見ても見えない、ということがあります。聞いていても聞いていない、ということがあります。

本当に事が見えるように、神の栄光、神の美しさが見えるように、わたしたちの心を清めていただけるよう祈りましょう。見える人にはこの世には神の美しさが現れているのです。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:19-27
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現ないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26
(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された

 

 

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コメント

ヤコブの手紙とマルコによる福音書の教えの優しい諭しと導きをわかりやすくお話いただきました。もっと心の眼を開いて神の栄光、神の美しさが見えるように心を清めていただけますようにと神に祈ることの大切さ。

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