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2020年2月14日 (金)

認識の枠組み

聖チリロ隠棲修道者 聖メトジオ司教 記念日ミサ説教


2020年2月14日(金)、本郷教会

 

今日の福音もイエスが「いやし」をなさったという話です。耳の聞こえない人の耳を開いてあげたという話であります。
今日のいやしの話は、これまでのいやしの話と比べると、丁寧というか具体的である。
イエスは直接その人に接触して、「エッファタ」という言葉を使って、いやされました。
「エッファタ」(開けの意)というのはアラム語(アラマイ語)で、その時実際にイエスの口から出た言葉であります。

 

人間の言語能力というのは、生まれた時から周りの言葉を聞いて、次第に発達していくのでありましょう。親から、特に母親からの影響が大きいと思われます。母国語のことを英語ではマザータンmother tongue と言います。
その一番大切な言語習得の最初の部分が不十分だと、人間の言語能力は十分には発達しないのであります。人は聞いて、話すことを学ぶ。
それゆえに、「ろうあ者」と申し上げて良いでしょうか、聞こえない人は話すこともできなくなるのであります。
耳の機能が不十分ですと、言語の能力が成長しないということである。

 

神の言葉を聞く用意がないと、神の言葉を行うことも出来なくなるのではないでしょうか。。
預言者は神の言葉を人びとに告げるという使命を授かった人です。
「エゼキエル書」という預言書を読んでみますと、いかにイスラエルの民ユダの人が神の言葉に対して耳を塞ぎ、反抗し、頑なであったかということが述べられている。その次第が詳しく述べられているのであります。
エゼキエル預言者の告げた民に限らず、人びとは神の言葉を聞き入れようとはしない。
人間は大人になる段階で物事を理解するための枠組みというものが形成されています。
「認識論」という哲学の分野がありますが、人間はどのようにして認識するのかということについて、いろいろな考え方があるそうです。そこでは、人間はもうすでに埋め込まれている認識の枠組みがあるので、その枠組みに嵌らないものは受け入れられないということが論議されています。
神の言葉がその人の認識の枠の外にあると、人は聞こうとせず、理解しようとしないのであります。人間の認識の枠組みというものは、もうこうだと思っておりますと、その思いの外にあることは受け入れられないのです。
誰しもそういう問題を持っている。いくら言っても、言っても、分かろうとしない。
人のことではなくて、わたくし自身もそういう根源的な問題を持っているのではないだろうか。無心になるということは、そのような先入観から解放されることであります。
神の霊のはたらきに心を開くということではないでしょうか。

 

 

第一朗読  列王記 上 11:29-32、12:19
そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、シロの預言者アヒヤが道で彼に出会った。預言者は真新しい外套を着ていた。野には二人のほかだれもいなかった。アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。
「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。ただ一部族だけは、わが僕ダビデのゆえに、またわたしが全部族の中から選んだ都エルサレムのゆえにソロモンのものとする。
このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。
福音朗読  マルコによる福音書 7:31-37
(そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

列王記の預言者の話もマルコの福音書のイエスの癒しの話も、初めて学ぶことができました。神の言葉を聞く、神の霊のはたらきに心を開く、というのは、認識の枠組みの外でしかできない。つい私が勝手に考えてしまうのは、霊的なものを感じるのは持って生まれた能力によるが、自分にはほとんどない、それでも性能のよくない受信器のように微かに感じるときもあるのだけれど、、、、というようなものです。Ⅰ月のお説教、「わたしについてきなさい」、でのお話と重ねて考えたいと思います。

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