無料ブログはココログ

« 勘違い、思い違いはないか? | トップページ | 使徒座 »

2020年2月21日 (金)

死から命へ

年間第6金曜日のミサの朗読より

2020221日、本郷教会

「死から命へ」

月曜からの第一朗読はヤコブの手紙。行いの伴わない信仰は死んだ信仰であると言っている。

今日の福音。

《自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。》

救いたいと思う自分の命は地上の命、福音のために失って救う命は永遠の命、神の命である。失う命は偽りの命、救う命は真の命である。キリスト者の生涯は偽りの命を捨てて真の命へ至る旅,死から命への歩みである。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 2:14-2426
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

福音朗読  マルコによる福音書 8:34-9:1
(そのとき、イエスは)群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

 

« 勘違い、思い違いはないか? | トップページ | 使徒座 »

ミサ説教」カテゴリの記事

コメント

キリスト教の教えの核心にせまるお話、だと思いました。
行いの伴わない信仰は死んだ信仰である。(アブラハムは息子を祭壇の上に献げた行為によってその信仰が完成された)。 福音のために失って救う命は永遠の命、神の命であり、死から命への歩みである。 

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 勘違い、思い違いはないか? | トップページ | 使徒座 »