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2020年2月 1日 (土)

人は死んだらどうなるのか?

亡くなったかたに献げるミサ説教

202021()、本郷教会

 

今日は人間の死ということについて、思いを深めたいと思います。

人は必ず死を迎えます。

わたくしたちは誰でも、家族や親しい人との永遠の別れである死を体験していると思います。

次のような述懐に出会いました。

「人はいつか亡くなる。このことは理解しているはずなのに喪失感は壮絶でした。四十六年間連れ添った夫がいなくなってしまい、眠れず、食欲がわかず、体重は五キロ減りました。泣きすぎて自分の顔ではないみたいに変わってしまって、こんな自分が嫌なのになかなか悲しみから抜け出せない日々です。」

親しい人との地上における別れは、どんなに大きな痛手を人に与えることでしょうか。

わたくしが最初に思い出す死の体験といえば、わたくしの祖母の死であります。

その埋葬の時の風景を今でもありありと思い起こすことができます。

わたくしは司祭として司教として、多くの方々の死を見送りました。

わたしの東京大司教としての前任者は白柳誠一枢機卿でありました。

20091230日が御命日であります。

暮れも押し詰まった1230日でしたので、その後のお正月どころではなく、身も心も葬儀のことで精一杯だったという記憶が鮮明であります。

人が亡くなるということは、大変なことであります。

聖書は、キリスト教は、死についてどう考えているのか、死んだらどうなるのか。

これは人間にとって非常に重要な問題であります。

死んだらそれで終わりなのか、死んだら次の世界があってどこかに行くのか、どうなってしまうのか。

そういう疑問を多くの人は持っています。

わたくしたちの場合は明確に次のように教えています。

何度も同じことを申し上げておりますが、今お献げしている死者のためのミサの中で、司祭の唱える叙唱では次のように言われているのであります。

「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」

肉体は滅びますが、その人自身は新しいいのちの状態に変えられて、天にある永遠のすみかへ受け入れられるということが、わたくしたちの信仰であります。

今日の福音朗読でもイエスは言われました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしはあなたがたのために住む所を準備してある。そしてあなたがたは私と一緒に父の家に行くことができる。」と言われました。

人の死に出会い、葬儀に出席して、その折々にわたくしたちは思い考えるのであります。

目の前に亡くなったかたのご遺体があっても、もうそこにその方はいない。

ではどこに行ったのだろう、どこでどうしているのだろう、そう思います。

聖書の考え方では、人間は心と体が一体であると教えています。

その体がなくなると何が残るのだろうか。

従来では、霊魂が残っていると考えられていましたが、霊魂だけの存在というのはどうなっているのだろうか。

そこに新たに加わった考えは、イエス・キリストの復活という信仰であります。

イエスは体が滅ぼされても霊魂だけで生き続けたというわけではないですね。

復活の体をもって人々に現れた。

「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:39)と言われました。

それは、霊魂だけが生き続けるという考えではない。

でもそれはキリストだけで、わたくしたちはどうなのかと考えるかもしれないが、わたくしたちもキリストの復活に与る参加するのだというように信じることができる。

復活するわけです、わたくしたちも。

ただ、ではどうなるのかということについては、地上にいるわたくしたちには直感できない。

特別な霊感のある人が、亡くなったかたと交信をしたという記録は多々残っています。

体を持った存在でも地上の体とは違う。

わたくしたちは、三次元の時空の中にいますが、その条件から解放されるので、時間のない世界に行くことになるのであります。

時間の中にいる者と、時間に束縛されない者との通信というのは、いわば霊的な通信である。

よく亡くなった人が夢枕に現れると言いますが、夢などの特別な状況で、亡くなった方と生きている人の間の通信が可能なのでしょうか。

そこはわたくしには分かりません。

人が死んで、霊だけが残るという考えは聖書の教えではないように思います。

「諸聖人の通功」(= Communio sanctorum聖徒の交わり)という言葉を思い出していただきたい。

毎年、111日は諸聖人の祭日、その翌日112日は死者の日です。

人は死ぬとみな聖人になる。

ただすぐには聖人になりきれないので、どこかでどうにかなっている。

亡くなった人のために祈るというのは、その人が神さまのもとに到着しているかどうか分からないので、そのことを助けるために、つまり清めを受けるためにお祈りを以って支援するというように教会は考えてきた。

そして、すでにわたくしたちの支援を受ける必要のなくなった方は、逆に神さまのもとからわたしたちを助ける祈りをしてくださる。

カトリック教会では取次ぎの祈りと言います。

最大の取り次ぎ手はイエス・キリストですが、聖母マリアを始め諸聖人は天の父のもとに居る方ですので、その方がたにお願いしてわたくしたちのことを神さまに取次いでもらおうと、そう考えたわけであります。

わたくしたちのもとから去っていった祖父母、両親、兄弟姉妹、友人知人、そして教会で出会った司教司祭やいろいろな方の永遠の安息を願って祈りましょう。

地上のわたくしたちを助けてくださるようお願いしましょう。

 

 

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コメント

友人、知人で、キリスト教の信者の方は、死に対して静かで安らかな感情を抱いている様子が窺がえ、私は漠然とキリスト教の教えを想像していただけでしたが、お説教の拝読によって、肉体は滅びても新しいいのちの状態に変えられて天にある永遠のすみかへ受け入れられる、という教えをあらためて知ることができました。人は心と体が一体であり、死後には私たちもキリストの復活に与るという教えも心に残りました。

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