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2020年3月 9日 (月)

人を裁くな

四旬節第2月曜日ミサ朗読より

 

「七度探して人を疑え」という諺があるが疑う心は人間につきもの。シェイクスピアの悲劇「オセロ」は人間の疑心を主題にした傑作である。

疑われるとは自分の人格の否定につながるからその打撃は大きい。しかし、自分の弱さ,脆さを思うとき疑われることもやむを得ないとも思う。他方人を疑いたくはないか、これだけ詐欺やペテンが横行する社会、「振り込め詐欺」が一般化している世の中、「人を見たら泥棒と思う」方が無難であろう。

しかし信頼しあう人間の交わりは本当に美しい。「管鮑の交わり」という模範がある。

思いは揺れ動く。

とはいえ、信仰の目で見れば、人は神の似姿、復活したイエスの兄弟、そこの神の美しさと栄光の輝きが宿っている。

今日の福音は「人を疑ってはならない」と言っているわけではなく「人を罪人だと決め受けるな」と言っている。人はみな罪人である.罪人には罪人を裁く権利はない。罪人同士が互いに裁き合うべきではない。裁きは神のものである。人は弱さと無明の中にある。互いに受け入れ赦し合わなければならない。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」が日々の心からの祈りでなければならない。

 

第一朗読  ダニエル書 9:4-10
主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。

福音朗読  ルカによる福音書 6:36-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

疑心、は多くの芸術のテーマになっているのに、自分は深く考えることもなく、ただ楽しんできただけ。このお説教の、「信仰の目で見ると 神の美しさと栄光の輝きが宿っている、人はみな罪人、裁きは神のものである」、というお言葉をきちんと受け止めたいと思いました。
ダニエル書では冒頭から、畏るべき偉大な神よ、と呼びかけ、強い調子でこれまで重ねられてきた悪業や罪をとりあげて、最後まで調子を緩めることなく赦しを乞う。
一方、ルカによる福音書でのイエスの言葉は優しい諭しの言葉のように感じられました。「赦しなさい、そうすればあなた方も赦される。」

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