嘆く神
四旬節第三土曜日ミサ朗読より
「エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。」
この嘆き節はホセアの別の箇所を思い出させる。
「ああ、エフライムよ、
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
わたしは激しく心動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者
怒りをもってのぞみはしない。
(ホセア11・8-9)
ここにあらわれる神は非常に人間的であり、心の揺れ動く神である。全能、全知の神というイメージからはかなり遠い。聖書の神をギリシャの哲学で説明すると観念的になってしまう。
第一朗読 ホセア書 6:1-6
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを預言者たちによって切り倒しわたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
福音朗読 ルカによる福音書 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
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ホセア書の一節、美しい詩のような言葉づかいに感動しました。
投稿: kusano kyoko | 2020年3月23日 (月) 18時58分