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2020年4月 8日 (水)

主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサ

202049日、

 

 聖木曜、主の晩餐の夕べのミサを献げています。(今年は公開ミサはできませんが。)わたしたちが最も大切にしている祭儀、ミサ聖祭の由来、起源をわたしたちに伝える、いわば、最初のミサの次第を、今日、わたしたちは記念しております。わたしは、今日のヨハネの福音を読んで、感じること、強く思うことを申し上げて、皆様にもご一緒に考えていただきたいと思います。 

 イエスは、ご自分の最後の時が来たことを知って、弟子たちと夕食をともにされました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。どんなにイエスが弟子たちを愛したかということを示すために、みずから、模範をお示しになり、弟子たちの足を洗われました。今日、この後、洗足式が行われます。足を洗うということは、下僕が行うべき、いわば、卑しい仕事とされていた。(今年は中止ですが。)

 人々は足を洗うということを大切にし、足を洗う役を持っている人がいたそうであります。イエスは、みずから弟子たちの足を洗って、模範を示し、あなたがたも互いに足を洗い合いなさいと言われた。他の箇所でイエスが言われたことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということでありました。その言葉を、身をもって実行し、一つの模範例を示したのだと思われます。 

 わたくしは、今日もまた、イスカリオテのシモンの子ユダという人のことを考えてみたい。非常に悪名高いイエスの弟子ですね。イエスを裏切った人。裏切ったという点では、弟子たち全員が同罪なのです。どう違うのでしょうか。ペトロの方は、裏切るというつもりは全然なかった。「わたしはあなたのためなら命を捨てます」と大見得をきったわけです。でも、実際はそうはいかなかった。そこは人間の弱さのためであると、我々には理解できる。このユダの方は、どうだったのでしょうか。なぜ、イエスを裏切ったのでしょうか。もう裏切ろうという気持ちを持っていた。最初からそうだったのでしょうか。途中からそうなったのでしょうね。

 イエス自らが言っているわけです。弟子を選んだのはわたしである。弟子の方がイエスを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。選ばれた人の中に、ユダもいた。ユダはイエスから選ばれた人なのですね。イエスから使命を受け、期待をかけられていた。どうして途中でイエスから離れようと思ったのか。離れるだけでなく、裏切る、敵の手に渡す、手引きをして売り渡すことをしようとし、そして実行したわけであります。そして、あとで後悔した。ペトロもあとで後悔した。後悔したという点では同じですが、ユダの方は自ら申し訳ないと思ったからか、自殺してしまった。ペトロの方は、痛悔の涙を流し、そして、以後、イエスに従い、殉教の最後を遂げた。

 皆さん、この2人の違いについて、今週の聖週間の典礼の朗読で弟子たちの心の動きを伝えていまして、ユダのことが非常に頻繁に出てくる。あなたがた12人はわたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。これはイスカリオテのシモンのユダのことを言われたのであると、ヨハネの福音書が言っている。そして、マタイの福音ですけれども、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかったほうがその者のために良かったと言われた、とあるわけなのですね。この言葉が難しいですね。生まれなかった方が良かった。でも、生まれなかった方が良かった者をイエスは選んでいるわけですね。選んだ時に、まさかこの人が自分を裏切ることになる、裏切るという役を彼にやらせようと思って選んだわけではないでしょう。このユダという人は、多くの人の関心を引いています。どうして裏切ったのだろうか?

 いろいろな見方があるようですが、ユダはイエスに期待をかけたが、その期待がかなえられなかったのでしょうね。どんなことを期待したのでしょうか。他の人たちもそうですけども、力強い王、イスラエルの人たちが待ち望んでいたメシア、外国の支配、ローマ帝国の支配から自分たちを解放し、ダビデ、ソロモンの栄華を回復してくれる政治的、軍事的指導者になるという期待をしていたが、一向そうなるような様子はないし、むしろ、そういうことを否定しているような成り行きでした。その様子に失望したからだろうか。あるいは、この弟子の間のこの争い、確執があって、ユダは孤立していたのかもしれない。イエスがどの弟子を重んじているかということは、十二人の間で大きな関心だったとあるわけです。そういう弟子たちの間の争い、確執というものが、ユダを裏切りへと導いたのでしょうか。 他の弟子に対する嫉妬、妬みが彼を裏切りに駆り立てたのでしょうか。あるいは、何であったのでしょうか。わかりません。色んな人が色々想像して、でも、ともかく裏切った。イエスはユダが自分を裏切るだろうということは、途中からか、途中からだと思いますが、わかっていた。それで今日の場面ですが、十二人の弟子の足を洗ったのですから、その中にユダもいたわけですよね。そして、ユダのことを、友よと呼んでいます。そして、わかりにくいのですが、「あなたのすべきことをしなさい」とも言われた。

 難しい問題です。ユダは特別悪い奴だったので、わたしたちに関係ないとは思えない。わたしたちの人生の中に、人と人との関わりの中で、裏切る、あるいは、信頼に応えない、応えられないという問題が起こるわけです。ペトロの方は、もう分かりやすいですね。ペトロの方は、単純にイエスについて行こうとし、どんな事があっても、あなたのことを知らないとは言わないし、見捨てることはしないと言ったけれども、ものの見事に三度も知らないと言ってしまった。これは分かりやすい。

 ユダいう人の方は複雑で、どういう人なのか分かりにくい。世俗的な能力があったのでしょう。会計係を仰せつかっていた。それで、財布の中身を誤魔化していたということであります。このようなイエスと弟子の集団の中で起こった出来事と、ユダヤの社会の指導者、祭司、律法学者、そして、ローマ帝国の支配。このような様々な要素の中で、ナザレのイエスという人が自分の生き方を貫いて、苦しみのうちにもぶれることなく、まっすぐに父のもとへ向かって、苦しみの道を歩んでいく。わたしたちの宗教は、そのイエスを父である神が復活させたという信仰に基づいているのであります。

 

 

 

 

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コメント

大切な儀式である洗足式について初めて教えていただきました。晩餐でイエスが弟子たちの足を洗われて、その弟子の中にはユダもいた。その弟子ユダのイエスに対する裏切りをどう考えるか。ユダの心の揺らぎ。何度か拝読するうち、その時代の人々が置かれていた状況や暮らしなども身近に想像できるような気になりました。ユダの最後とペトロの最後も考えさせられます。そして裏切りは他人事ではない自分の問題でもある。 キリスト教は、イエスを父である神が復活させたという信仰に基づく という最も大切なことを教えていただきました。

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