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2020年4月13日 (月)

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

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