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2020年4月27日 (月)

マナ

復活節第三火曜日

ヨハネの福音書6章を読み継いできています。

昨日、の福音では、「神の業をおこなうためには何をしたら良いでしょうか」という問いに対して、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。

イエスと人々との問答は上手く噛み合っていないように感じます。

今日の30節から35節でも同じように話がうまく噛み合っていないように思われます。

マンナという言葉が出てきます。マンナはイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、荒れ野を40年間放浪した時に神から与えられた食べ物でありました。

こちらはマナとなっていますけれども、出エジプト記1631節ではこうなっています。

「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」

そういうものを神が天からお与えになった。このマナ、あるいはマンナは、わたしたちが今日もいただくご聖体をあらかじめ指し示すものだと考えられます。

6章の49節から51節では次のようにいわれています。

「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

イスラエルの民が荒れ野で命を養っていただいたパンはマンナと呼ばれていましたが、

そのマンナを食べて40年間生きたイスラエルの民もやがては死んでしまった。しかしイエスが与える命のパンは、人を永遠の命へと導くものであるとイエスは言われました。

このイエスの言葉を人々は理解することは出来なかったのでした。

ヨハネの福音6章全体が、このイエスを信じるということと、イエスが天から降った命のパンであるということを信じるということに全体がさかれています。全体がイエスを信じること、それからイエス自身が永遠の命を人々に与える者であると述べるために構成されているというように考えられます。

毎日少しずつですけれども、ヨハネ6章を読みながら、イエスキリストを信じるということ、それからご聖体をいただくということの意味を深めていきたいと思います。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:30-35

(そのとき、群衆はイエスに)言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

 

 

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コメント

出エジプト記のなかで、イスラエルの民がモーセに率いられて荒れ野を放浪した時神から与えられた食べ物がマナで、今のご聖体を予め指し示している。イエスの父が天からのまことのパンをお与えになる。イスラエルの人々は死んだが、イエスが与える命のパンは人を永遠の命へ導く。イエス自身が命のパンである。 
旧約聖書の歴史が根底にあって新約聖書のイエスキリスト信仰につながっていく。
ご聖体の意味を教えていただいたように思います。

群衆は、「いつもパンを頂ける」ということが救いだと考えていたのでしょう。イエスに「パンをください」と求めて言いました。すると、イエスは「わたしが命のパンである」とおっしゃいました。
「わたしが命のパンである」とは、誰も言ったことのないような不思議な言葉です。

「パンをくださる」のではなく、ご自身そのものがパン。しかも私たちの中に入って下さって、溶けてなくなってしまわれる。そして、そのかわりに、決してなくなることのない永遠の「命」となる。
考えているうちに、これはすごいことだ、とあらためて思われてきました。

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