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2020年4月29日 (水)

信仰告白する

復活節第3水曜日、430

 

使徒言行録のエチオピアの宦官カンダケの受洗の物語。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」

カンダケはすでに神を礼拝するものであった。これはイザヤ書の主の僕の歌である。フィリポはこの僕はイエス・キリストを意味していると説明したことだろう。イエス旧約聖書で預言されていた救い主であると信じてカンダケは即座に洗礼を受けた。ここに受洗準備の教話の原型がある。現在の教話はどのようなものだろうか。できるだけ簡潔でありたい。

こうしてはじめてエジプトに福音が伝えられたのであろう。

イエスによる教話、ヨハネ6章。(そのとき、イエスは人々に言われた。)「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「わたしは永遠の命のパンである。」ピリオドを打つかのようにイエスは繰り返しこの主張をしている。この宣言の前に人は自分の態度を決めなければならない。ペトロたちがイエスへの信仰を宣言できたのは幸いなことであった。

さて、わたしたちは今もペトロに倣い、同じ信仰告白をしている。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたを置いて何処にいきましょう。」(聖体拝領前の祈り)

 

 

 

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コメント

「宣言の前には自分の態度を決めなければならない。」
ミサのたびに信仰を宣言することの重みを感じました。

神さまは私たちに「承諾」を求められました。私たちには「自由」が与えられている。
創り主である神さまがそうお決めになりました。
そのことも、非常に感慨深く、また重みのあることだと思いました。

「主の僕の歌」で歌われている僕はイエスキリストだ、とフィリッポに説明されて、それは旧約聖書で預言されていた救い主のことである、と信じたエジプト人のカンダケは、即座に洗礼を受けた。これが受洗準備の教話の原形。 ヨハネ福音書のイエスは息をつく間もないような熱い口調で 「……信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである……私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」と話されている。 わたしたちは聖体をいただく前に心の準備をして信仰の告白の祈りを捧げる。多くのことをお教えいただきました。

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