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2020年5月

2020年5月31日 (日)

教会の母聖マリア

61日、教会の母聖マリア

 

イエスが昇天した後、弟子たちと女性たち、イエスの母マリアは「高間」に集まり、聖霊が降るよう熱心に祈っていた。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
聖霊降臨が行われたのはこの「高間」であったという解釈がみられる。(フランシスコ会訳聖書の該当箇所、使徒言行録113の注を参照。)

ともかくこの一節から教会の誕生にイエスの母マリアが深くかかわっていたことが窺われる。

 

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」

 

愛するわが子が十字架刑という残酷な最期を遂げる様子を目の当たりにした母マリアはどんな気持ちで十字架のもとに立っていたことだろう。マリアはイエスの苦しみに最も深く関わり苦しみを共にした人であったといえよう。この意味でマリアはイエスの救いの御業の最も近い協力者であり、その結果生まれた教会の母であるといえる。

 

第一朗読  使徒たちの宣教 1:12-14
(イエスが天に昇られた後、)使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
(
または、創世記3:9-15, 20)
福音朗読  ヨハネによる福音書 1925-34
(そのとき、)イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。

 

 

 

2020年5月30日 (土)

赦しの体験が教会の誕生となる

531日 聖霊降臨の主日―赦しの体験が教会の誕生となる―

 

5月最後の日の今日31日、わたしたちは、聖霊降臨の日を迎えました。

福音朗読はヨハネの福音の20章で(20:19-23)、この中でヨハネによる聖霊降臨の次第が告げられています。

聖霊降臨の様子は、すでに第一朗読、使徒言行録で伝えられていますが、ヨハネの福音は、復活と聖霊降臨の出来事を、あたかも、一つの出来事であるように語っています。

今日の福音朗読で特に注意したいことは、弟子たちの変り様です。弟子たちは、恐れ、おののき、不安な状態にありました。それはユダヤ人を恐れていたからですが、それだけではなく、恐らく、先生・イエスを見捨ててしまった、裏切ってしまったという、後ろめたさ、あるいは、負い目を持っていたからではないかと思います。そのイエスが、彼らの隠れ家に現れて、
「あなたがたに平和があるように」と言ってくれた。
「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。
この喜びの体験が、わたしたちの教会の出発にあります。

わたしたちは、謂わば、この弟子たちの喜びの体験を、いまここで追体験して、また派遣されていくのであります。
復活したイエスは、弟子たちに、息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」
聖霊、聖なる霊です。霊とは息です。そこで今日のヨハネが言う「聖霊」とは、イエス・キリストの息によって表されています。
わたしたちも聖霊を受け、聖霊によって、罪を赦し、そして、使徒としての働きを行うための力を受けます。
ヨハネの福音は、使徒たちが受けた経験を伝えておりますが、使徒たちの体験を、教会は多くの人に延長させました。
その結果、特定の人だけの体験ではなくて、数え切れない多くの人々が、場所と時間を越えて、まったく同じ恵みが与えられるようにと、典礼が執行され、秘跡が与えられるのです。
わたしたちは堅信の秘跡を受けるとき洗礼の約束の更新をします。その際、司式者がお尋ねする言葉、それは、まず、「悪霊と、そのわざと誘惑を退けますか」ということです。
わたしたちは、洗礼を受けたときに、自分で、あるいは、代父、代母を通して、「退けます」と答えました。「誘惑を退ける」という約束をしたわけです。この世の中には、さまざまな誘惑があります。誘惑というのは、外にある問題だけではなく、わたしたちの心の中にもある問題です。
本当に、誘惑を退けて来たのだろうか。そのようなわたしを、神は赦し、受け入れてくれるだろうか。そのような思いが、わたしたちの胸をかすめるかもしれません。

使徒たちが受けた使命、それは、「罪の赦し、神の愛を伝える」という使命です。同じ使命を、わたしたちも受けています。わたしたちの教会は、「罪の赦し」ということを、非常に大切なこととして教えています。
洗礼によって、すべての罪の赦しを受けました。しかし、それで、罪の問題が終わったわけではなく、わたしたちは何度も、また「罪の赦し」を受けなければならない。
このようなわたしを、本当に神様は愛してくれているのだろうか。
「罪」という言葉も、場合によっては分かりにくい。主の祈りで、「罪をおゆるしください」と祈りますが、「負い目」をおゆるしください、とも翻訳されています。「負い目」と言った方が、わたしたちの文化の中では分かりやすいかと思います。もっと分かりやすいのは、「恥」という言葉です。「恥」と「罪」は同じであるとは言えませんが、「恥」という言葉を、わたしたちは、非常に敏感に感じることができるからです。この罪深い、恥ずかしい、このわたしを、神は、それでも愛し、受け入れ、赦してくださる。
この信仰を持って、日々歩みます。罪を侵す人間であるわたし、そして、弱い、脆い、わたしたちです。そのわたしたちが、イエス・キリストの弟子として、歩むことができるように、聖霊の助けが与えられます。それが堅信の恵みにほかなりません。

罪の赦しを受けた者は神の掟を守り生きるはずです。新しい神の掟は「イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合う」という掟です。

これを実行するということは実に大変なことです。しかし人間にはできなくとも、神にはできないことはない。この至らないわたしが、神様から愛されている者であり、周りの人から大切にされ、赦してもらっている存在であるということを、想い起しましょう。そのようにしていただいているのだから、わたしたちもそのようにできるはずだし、そのようにしなければならないと思います。

更に、日本の社会で、何か具合的に社会的な行動として、このような愛を表し、伝えていかなければならないと思います。の何かを実行するようにしていただきたいと思います。

コロナウイルス感染という大きな試練に襲われているわたしたち教会が、信仰を新たにし、聖霊の慰め、励ましを受けて、困難に打ち勝つことができるよう祈りましょう。
―――

第一朗読  使徒言行録 2:1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 12:3b-712-13
(皆さん、)聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人にの働きが現れるのは、全体の益となるためです。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

 

 

 

 

 

聖霊降臨から福音宣教する教会へ

530日 復活節第7土曜日

 

本日は聖霊降臨の前日であり復活節最後の日となっています。

第一朗読、使徒言行録、28:16-2030-31は使徒言行録の結びの部分であり、次の記述が印象的であり意外でもあります。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

ここでは処刑されるべき囚人であるはずのパウロが自由に福音宣教している様子が告げられています。「自費で借りた家に丸二年間住んで」とは意外な記述です。この後どんな展開があってパウロは殉教に至ったのでしょか。

福音朗読も「ヨハネによる福音書 21:20-25」でありヨハネ福音書のエピローグの結びの部分であります。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

この結びの部分には「あらずもがな」の感じがしないでもない。既に20章でイエスの復活と聖霊降臨が述べられている。その後の弟子たちの宣教活動についての言及があって然るべきではないか。何か拍子抜けの結びとなっている。

 

第一朗読  使徒言行録 28:16-2030-31
わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 21:20-25
(そのとき、)ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

 

 

 

 

 

2020年5月29日 (金)

「愛する」と「ほれこむ」

529日、復活節第七金曜日

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と、ペトロとほかの弟子たちは勇敢に宣言しました。何が、彼らをこのような確信に満ちた勇敢な福音宣教者にかえたのでありましょうか。それは復活したイエスと彼らの出会いによるのであります。復活したイエスはたびたび使徒たちにお現れになりました。今日の福音朗読は、復活したイエスとペトロとの出会いの場面であります。ここには非常に印象的な場面が展開しています。イエスはシモン・ペトロに三度もお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

三度も同じことを問われてペトロは悲しくなりました。三度も念をおされたのは、ペトロが三度も主イエスを「知らない」と言って、イエスを拒んでしまったことにつながっていると思われます。ペトロはそのことで深い心の傷を持っていました。今の言葉でいえば、トラウマというのでしょうか。

そのペトロが心からの思いを込めて答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

以前のペトロのように、傲然とした態度ではありません。

この「愛しているか」と尋ねたときの「愛する」ですが 福音書でよく出てくる「愛する」という言葉のギリシャ語原文は、アガパオーと言います。相手が二人称ですから、「あなたが愛する」はアガパスとなります。もうひとつ、フィローという言葉があって、これも「愛する」という意味です。「わたしは愛する」はフィロー、二人称ですとフィレイスとなりますが、このアガパスと「あなたは愛するか」、フィレイス、これも「あなたは愛するか。」この「愛する」という言葉が日本語では曖昧であります。どう訳すか難しい問題でありますが、イエスが尋ねたのは、アガパスですから、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」に対して、本来ならば「わたしは愛します」ですから、アガパオーと答えるべきですが、ペトロは、フィローと答えているのです。で、二度目の時も、フィローと答えている。同じ「愛する」ですけれども、意味合いが違う。そこでイエスのほうが、たまりかねたのでしょうか、質問の仕方を変えて、同じように「愛しているか」と訳されますが、フィレイスという言葉で「あなたはわたしを愛しているか」と尋ねました。

この二人のやりとりから、わたくしは、このイエスとペトロという人の間の、温かい、人間の血の通った愛の交わりを感じます。アガペーというのは神の愛を表しておりますけれども、人間同士の友情というか、心の交わりには、フィローという言葉が、名詞だとフィリアですね、が使われているのであります。(岩波書店の新約聖書では「惚れ込んでいる」と訳している。)

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

事実、ペトロはイエスの言葉に従って、良い牧者の務めを果たし、後にバチカンの丘で、逆さ十字架に掛けられて殉教した、と伝えられています。

牧者は病める者を癒し慰め、迷う者を導き、弱っている者を励まし、落胆している者に希望を示すべき者です。イエス・キリストの教会の牧者のなすべきことは、まず何よりも、力を落としている人、迷っている人々を、復活の主イエス・キリストとの出会いへと導き、キリストから力と光を得るよう導き教え励ます人でなければならないと思います。

――

第一朗読  使徒言行録 25:13-21
(その日、)アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命令しました。」

福音朗読  ヨハネによる福音書 21:15-19
(イエスは、弟子たちにご自身を現わされ、食事を共にされた。)食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

 

 

 

 

 

2020年5月28日 (木)

自殺の悲劇

5月28日 復活節第7木曜日ミサより

 イエスは父である神に祈った。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」

  人と人、国と国との対立や争いはなぜ起こるのだろうか。

 現在、新型コロナウイルス感染防止という共通の課題のために人類の中での争いは影を潜めているようだ。「新型コロナウイルス」はその発生原因・理由が不明であるが意外な結果として、人類が共通に取り組むべき課題という副産物をすべての人々にもたらした。

 ところで話は変わるが、必要があって若いころ読んだ夏目漱石の「こころ」を再読し、さらに「こころ」について諸子の解釈・意見を読んでいる最中である。この小説の複雑な内容に、非常に考えさせられている。非常に深い問題を提起している小説である。なぜKと「先生」とが自殺しなければならないのか。自殺の理由をどう解釈できるだろうか。残された「お嬢さん」(先生の妻)は二人の死をどう受け止めることができるだろうか。

わたしは、彼/彼女らを赦し受け入れる共通の存在がこの小説には出てこないことが悲劇であると思う。人の弱さと過ちを赦し受け入れる存在を彼/彼女らが知っていたら、異なった展開が在り得たであろうに。イエス・キリストという存在を彼/彼女らが知っていたら死ななくても済んだであろうに、と考える。

 人を赦し受け入れる神の存在がイエス・キリストによって明らかにされている。この信仰をわたしたちは、このような現実に直面している人々に、どのように提示できるだろうか。

 ―――

第一朗読  使徒言行録 22:30、23:6-11
(その日、)千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

 福音朗読  ヨハネによる福音書 17:20-26
(そのとき、イエスは天を仰ぎ、祈って言われた)「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

 

 

2020年5月27日 (水)

別離と同伴

5月24日 主の昇天

今日の使徒言行録は伝える。

イエスは言われた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた。

 本日の聖書朗読は次のとおり。

福音朗読  マタイによる福音書 28:16-20
(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスは弟子たちの見ている前で天に挙がられたがその際、弟子たちの使命は「地の果てまでイエス・キリストの証人となること」であると告げ、さらに、

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と命じられた。これはイエスの宣教命令である。ここの教会の使命の根拠がある。キリストの弟子たちの使命は、キリストの証人となること、さらに、キリストの弟子をつくることである。それが可能なのは聖霊の派遣による。聖霊が弟子たちに降って彼らがその使命を遂行できるようにしてくださるのである。

イエスは弟子たちから去られるに際して不思議な事を言われた。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

別離する人が永遠の同伴を宣言している。別れる人が同時に世の終わりまで何時も一緒にいる、と、一見矛盾することを言っているのである。教会の神秘はまさにこの点にある。別離と同伴の成立、ここに教会の神秘がある。この神秘は聖霊の派遣によって可能となる。

「しかし、疑う者もいた。」ともある。生身のイエスはもはや地上には居ない。だからこのイエスの言葉は信じがたかったのも無理はない。

いま世界中がなおコロナウイルスの蔓延に悩んである。キリストは何処に居るのだろう、と思う人もいるだろう。キリストは目には見えない。筆者もおもがけない入院という体験をしがら、緊急事態にある教会を思い、キリストは今何を何処でどうしているのか、と思わないわけではない。

教会の使命は福音宣教。今の緊急事態でわたしたちはキリストをどういうように告げ知らせ証しできるだろうか。(退院の直後に想い記す。)

 

第一朗読  使徒言行録 1:1-11
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:17-23
(皆さん、)どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

 

2020年5月22日 (金)

誰にも奪われない喜び

5月22日 復活節第6金曜日

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

イエスは御自分の死を目前として弟子たちに遺言を残す。イエスは無残な死と遂げなければならなかった。弟子たちはどんなにか驚き悲しみ躓いたことだろう。しかし、十実刑の三日にイエスは復活して弟子たちの前に現れる。このイエスの復活という出来事の上にキリスト教の成立がある。結局キリスト教徒とはナザレのイエスの復活への信仰である。復活してイエスが生きていて世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるという信仰の上にキリスト教の教会は成立し存続し宣教をしている。この喜び、それは地上のいかなる幸せが与える喜びではない。復活してキリストから来る喜びである。復活の証人となることこそすべての信者の使命である。

 第一朗読  使徒言行録 18:9-18
(パウロがコリントに滞在していた)ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:20-23a
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

 

 

2020年5月21日 (木)

あなたがたはもうわたしを見なくなる

521日 復活節第6木曜日

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

このイエスの言葉は何を意味していたのか。弟子たちにはわからなかった。

受難、磔刑、昇天、聖霊降臨の出来事全体を指しているのだろうか。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは受難のことではないだろう。それは目に見える出来事だった。昇天のことを指しているように思われる。「またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とは何を意味しているのか。再臨のことではないだろう。「しばらくすると」とは何をいっているのだろうか。聖霊降臨のことだろうか。聖霊を受けることを「わたしを見るようになる」と言っているのだろうか。それてもイエスの復活の出現を言っているのだろうか。しかし復活は昇天の前の出来事である。

この辺を説明している注釈書があればいいのだが。・・・

イエスの言葉は生前理解されなかった。今のわたしたちにとっても依然謎のようである部分が残っている。

わたしたち人間の日常のcommunicationも不完全である。互いに理解できない部分がる。思い込んでしまうことがある。人は自分の認識の枠組みから出ることが困難である。理解できなくとも深く広く受け入れることができるようでありたい。

第一朗読 使徒言行録 18:1-8
(その日、)パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:16-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 

 

 

 

 

 

2020年5月20日 (水)

からだの復活

5月20日復活節第6水曜日

 

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

主の復活から昇天までの日々を過ごしている。真理の霊はわたしたちに何を教えるのか。「教会の祈り」の読書課の本日に該当する箇所は聖レオ一世教皇の説教である。レオ教皇は言う。

「これらの日々にこそ、恐ろしい死の恐怖が取り除かれ、霊魂の不死性だけではなく肉体の不死性も公にされたのです。」

この弱く脆い肉体、種々の病気と障がいを免れない肉体も、キリストの復活の栄光に与り、不死のからだをいただくことが出来るのです。

使徒パウロの第一朗読で言っています。

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」

「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

「からだの復活」の神秘を味わいましょう。

 

第一朗読  使徒言行録 17:15、22-18:1
(その日、)パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:12-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 

2020年5月19日 (火)

世の誤り

519日 復活節第6火曜日

 

「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」

 

弁護者である聖霊が世の誤りを明らかにする。「世の誤り」とは何を意味するのか。子のわたしの誤りはなんであるのか。人として誤りのない人はいない。

先日述べたように貪・瞋・癡という仏教の教えがある。人は癡という拭い難い限界を持っている。人のことがわからない。誤解する。自分のことが分かってもらえないならば、自分も人のことがわからない。せめて「分からない」という限界を認める者でありたい。人はさまざまにその認識を条件付けられている、頭からそうだと思い込んでしまうことある。

聖霊来てください。わたしの心を照らしてください。心の闇を照らしてください。真実を悟らせてください。…。アーメン。

 

 

第一朗読  使徒言行録 16:22-34
(その日、フィリピの町の群衆も一緒になってパウロとシラス)を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:5-11
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」

 

 

2020年5月18日 (月)

神の名による殺人

518日復活節第6月曜日

「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

 恐ろしい言葉です。キリストの弟子たちを殺すことが神の仕えることだと考える人たちがいる、というのです。実際イエスを十字架に追いつめた人たちは、そうすることが正しく相応しいと考えた律法の専門家と祭司たちでした。彼らはイエスが冒涜の罪を犯したと考えたのです。

キリスト教は反体制の宗教でした。しかし4世紀末に国教になった時に、迫害される側からは迫害する側に転じるという恐ろしい危険に陥りました。

聖ヨハネ・パウロ二世が紀元2000年を迎えるに際して『紀元二千年の到来』を発表し、「教会の子らが信教の自由の基本的人権を妨げた」という事実を認めた遺憾の意を表したのでした。

 第一朗読 使徒言行録16:11-15
わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。

 福音朗読  ヨハネによる福音書 15:26-16:4a
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

 

 

2020年5月17日 (日)

洗礼から堅信へ

2020年5月17日、復活後第6主日C年

                                カトリック本郷教会信徒館会議室

第一朗読:使徒言行録8・5-8、14-17
第二朗読:一ペトロ3・15-18
福音朗読:ヨハネ14・15-21

 4月11日、復活徹夜祭で洗礼、5月31日聖霊降臨の主日にカテドらルで堅信、という予定が、コロナウイルス蔓延のため、その予定が大きく変更になりました。

5月31日に洗礼式を挙行できるか、今日相談します。

 

復活徹夜祭は洗礼を受けるのに、最もふさわしい時です。その時に、使徒パウロの手紙、ローマ書が読まれます。その手紙の中で、洗礼の意味が説明されています。洗礼を受けるということは、水の中に沈められ、そして水から引き上げられるということを意味しています。実際、昔は、浸水礼と言いますが、本当に全身を水に浸して、それから引き上げられるという式であったそうです。この式の意味しているところは、一旦わたしたちは水の中に沈められて古い人が死ぬ。そして、新しい人となって生まれ変わる、ということを表しています。神様のお恵みに、神の命に与り、そして古い人にさよならして今日から新しい人になります。そういうことを意味しています。新しくなって、清々しい気持ちになって、恵みに溢れて、毎日お過ごしになってきたと思います。

 しかし実際のところなかなかそうもいかないということがあります。

わたしも洗礼を受けた。あんまり変わったような気はしませんでした。罪ということが無くなったわけではないです。洗礼を受けたからといって、罪は犯しませんというわけではない。ですから、赦しの秘跡という秘跡があって、たびたび告解をしなさいと勧められています。さらにわたしたちは毎日祈ります。「わたしたちの罪をおゆるしください」と。
 ヨハネの手紙の中にありますが、わたしは罪を知らない、犯さない、ということは偽り者であると明示しています。洗礼を受けても、わたしたちは神の前に清廉潔白な身で立つことができない。そういう自分を見出す。同じヨハネの手紙の中に、肉の欲、目の欲、生活のおごりという言葉があります。わたしたちは様々な欲望に振り回されることがあります。少なくとも欲望というものは、消えるものではない。いかにこの欲望を制御し、罪と闘い、悪に打ち勝つように祈るという日々がわたしたちキリスト者の生活であります。
 今日は紹介したい話があります。『平和のための宗教者の使命』という冊子、良いものでありますので、今日、その内容の一部を紹介します。これはキリスト教の話というよりも他の宗教の話が多く出ています。わたしの心に強く残っている仏教の教えを簡単に紹介します。
人間には三つの毒が入っている、と言います。三毒、それは貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という難しい漢字です。
 この貪(とん)というのは貪欲の貪。欲深い。貪(むさぼ)る。欲深いと自分では思わないのだけれども、気が付くと、あれもこれも整理がつかない。人に言われて初めて、そうだなと。これは人が自分の思い通りにしないと気持ちが良くない。
 瞋(じん)というのは、いきどおりという難しい字です。目をへんに、昔の真実の真の旧字体がつくりの字。これは妬み、嫉み、怨み。われわれは小さなことかもしれないけれども、毎日、怒りというほどではないにせよ不快になっている。今の社会、文句を言う人が非常に多い。病院でも、学校でもそうです。そのようなお仕事のかたは大変だろうと思います。
 それから癡(ち)という言葉ですけれども、これは病だれの中が疑問の疑という字です。ものごとがわからないという意味だそうです。わかっているつもりですけど、わかっていない、ということ。まず人のことがわからない。人の立場がわからない。人がどんな思いをしているか、わからない。歳をとると、自分が、他の人のことが分からない人間であると気が付く。だんだんそういう気持ちになる。この歳に至ると色々なことが思い出され、家族のこと、親のこと。もう遅いのですけれども。十代くらいの時は、親に対してどういう気持ちを持っていたか、どんな態度をとったか、こういうことはわかっていなかったです。自分の気持ち、自分のことでいっぱいで、親が子どものためにどんな苦労をしていたかということを知ろうとはしなかった。ずっと何十年も経ってから、あの時こうだったのかなと思うのですけれども。これはわたしのことで、皆さんのことじゃないですよ。人間は生涯こういう問題を抱えていく。

 さて、洗礼を受けてからこれからいつか堅信を受けられる皆さん、今日の福音にそれが出てきますが、聖霊、ギリシャ語でパラクレートスといいますが、側にいて助けてくれる聖霊が降りてきて、日々わたしたちを教え、導いてくださいます。聖霊によってわたしたちは、日々の生活の中で、自分の問題、何だかわからない自分、自分の欲望をきちんとコントロールできていない自分を見つめ、そして助けていただくように祈り、堅信の時に授けられる聖霊の七つの賜物、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」は、わたしたちが聖霊の導きに従って生きるために必要な賜物であります。皆さんはまず自分自身の毎日の生活を整え、心清く祈り、そして犠牲をささげるようにしください。
 それだけではないのです。堅信の儀では、自分の信仰を力強くはっきりと人々に宣言し、そして自分の信じていることを実行するという恵みを授けられるわけであります。洗礼を受け、堅信を受けるものは全員イエス・キリストの使命に与るものとなります。それはイエス・キリストの福音をのべ伝える、証しするという使命です。全員がそうです。神の民全員がそれぞれ自分の場所で、自分の生活の中で、イエス・キリストをのべ伝え、証しする。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、というキリストの教えを実行するように呼びかけられています。そして、そうできるようにと聖霊が降り、わたしたちと共にいてくださいます。毎日の祈りの時に、聖霊に助けをさらに求めるようにいたしましょう。
 全員が福音・宣教することができるように、毎日祈り、聖書を学び、そしてお互いに助け合うようにしていただきたいと思います。

 

2020年5月15日 (金)

キリストの弟子は世に憎まれる

516日 復活節第5土曜日

 

「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。」

キリストの弟子は世に属していない。キリストの弟子たちはその主人のように世から憎まれる。

事実、初代教会、弟子たちは迫害された。日本での多くの殉教者を輩出した。

ヨハネの手紙1は言う。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(215-16)

「肉の欲、目の欲、生活のおごり」とは何だろうか。単に性的な欲望を指すのではない。神の霊に反する諸々の在り方、乱れた欲望の動きを指しているのだろう。ガラテヤ書は「肉の業」と呼んでいる。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」519-23)

313という年が重要である。この年、キリスト教はローマ帝国で公認された。後任から国教化への道はそれほどの年月を要しない。キリスト教は支配者の宗教とされて「世と世にあるもの」に密着する団体となる危険を帯びるようになった。その問題は現在も存続している。「世に会って世に属さないキリスト者」という課題を我々は生涯背負うことになっている。

 

 

第一朗読  使徒言行録 16:1-10

(そのころ、)パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。

さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:18-21

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

2020年5月14日 (木)

使徒会議の決議文

515日 復活節第5金曜日

教会の歴史上最初の使徒会議、のちの公会議の決議文が、エルサレムからアンティオキアの教会へと、パウロとバルナバを介して伝えられた。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

「聖霊とわたしたちは」という表現に注目したい。使徒たちは、この決定は聖霊と一致して行われたと確信していた。ここに、ユダヤ教からキリスト教の分離・独立の姿を見ることが出来る。ここに、キリスト教信者はユダヤ教の複雑・煩瑣な掟から解放され、真に脱民族の普遍宗教への道を歩み始めた。この際、異邦人の使徒パウロの果たした役割は大きい。

今日の福音朗読。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

昨日とほぼ同じ内容である。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

新しい掟は明瞭である。簡単で容易になったのか。いやそうではない。命を懸けて友を愛することはかえって旧約の数多い掟よりもより困難になった。ひたすら聖霊の導きを願うしかいない。それでも聖霊に従っていない自分を自覚し赦しを乞うしかないのが多くの人の現実である。しかし、他方多くの殉教者はこのイエスの言葉を守って命をささげたのである。この証の上にわたしたちの教会が成立し発展してきた。

 第一朗読  使徒言行録 15:22-31
(その日、)使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:12-17
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 

2020年5月13日 (水)

実を結ぶ

514日 聖マティア使徒

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 「わたしがあなたがたを選んだ。」

何度も聞いたイエスの言葉。わたしにそれだけに価値があったからだろうか。

人間的に言ってとてもそうは思えない。わたしより優れた人――人柄も、能力も、健康も、環境的にも、・・・たくさんいるのに。

このわたしに何が出来るのだろうか。「出かけて行って無を結び、その実が残るように。」どんな実りがありますか。

その人固有の役割、使命がある。余人をもって代えがたし、という仕事、位置、存在がある。それが見えないとしたら寂しい。

 使徒マティアは使徒ユダの後継者として選ばれた。ユダは何故自殺したのか。自分固有の役割が見えなくなったのだろうか。

 画一的な仕事と役割を振り向けられ、個性の働く余地が極小の今の社会。何事もマニュアルのよって動かされている今の社員・職員、構成員たち。自分らしさをどこで発揮できるだろうか。

「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

イエスの名によって願うということが大切である。何を願いましょうか。

 日々願う祈りの中に自分の召命を全うできますようにと祈ることが肝要である。

 

第一朗読  使徒言行録 1:15-1720-26

(その日、)ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。詩編にはこう書いてあります。

 『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』

また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:9-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

2020年5月12日 (火)

わたしにつながっていなさい

復活節第5水曜日 513

 

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

イエスは繰り返し「わたしにつながっていなさい」と言っている。イエスにつながっているとはどういうことだろうか。

第一朗読で初代教会の論争を伝えている。割礼論争である。割礼を受けることが救われるために不可欠と考える人たちがいた。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」という主張である。エルサレムでの使徒会議の結果、もはや割礼は不要という結論になった。この場合、割礼がイエスにつながるためには不要ということである。

さて、筆者は最近約一か月入院を余儀なくされた。生まれて初めての体験。様々に考えさせられた。この環境で「イエスにつながっている」とはどういうことを意味するのだろうか。ミサも挙げられない。ひとりで「教会の祈り」を唱える。だんだん必死になってくる。一人ぽっちである。自分の弱さ、脆さを実感する。

このような環境にいる人はわたしだけではないだろう。日本の状況で孤立している信徒・信者は少なくはない。イエスというぶどうの木につながっている人は社会の隠れたところにいることだろう。

さて、日本の社会状況で「どうすればイエスにつながっている」といえるのだろうか。主日のミサに参加すればそれでよいのか。主日のミサ参加を厳守している信徒・信者はどのくらいいるだろうか。事実上それは困難である。

最もコロナウイルス感染の危険から主日のミサ参加が免除されているという教会始まって以来の異例の状態に今置かれている。一か月のミサを挙げられなかったという体験も司祭叙階以来初めてのことである。

 

自分はイエス・キリストにつながっていると言えるのはどのような場合か。今一度じっくり考え祈り求めましょう。

 

第一朗読  使徒言行録 15:1-6
(その日、)ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:1-8
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 

2020年5月 9日 (土)

キリストの平和

復活後第5火曜日、5月12日

 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」

 

「キリストの平和」は「ローマの平和」と比べられる。ローマ帝国は圧倒的な軍事力で広大な

領土に秩序をもたらした。キリストの平和は軍事力に依存しない。それは聖霊による神の恵み、愛の支配による平和である。第二ヴァチカン公会議は『現代世界憲章』を発布、平和について教えている。

「平和は力の支配の結果ではない。」

「平和は勢力の均衡の結果ではない。」

「平和はよりよい社会を築こうとする日々の努力の蓄積の中に存在している。」

社会の平和。心の平和。良心の平和。心に責められる所のないない状態。罪の赦し、神との和解の状態にあること。

平和は何より復活したキリストが与える聖霊の賜物である。

司祭はミサの「交わりの儀」の聖体拝領前の祈りで次のように唱える。

「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。わたしは平和を、あなたがたに残し、わたしの平和をあなたが谷与える。わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、おことばとおり、教会に平和と一致をお与えください。」

 

第一朗読  使徒言行録 14:19-28

(その日、)ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 14:27-31a

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

2020年5月 8日 (金)

三 P

復活後第5月曜日、511

 

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

主の復活、昇天、聖霊降臨の後の時代は、教会の時代である。教会の時代は聖霊の時代である。

教会は聖霊に聞く神の民。聖霊が何を言うべきかをわれわれに教えてくださる。聖霊に聞くためには心を空しくしなければならない。心に捉われがあっては聖霊がブロックされてしまう。

妨げになる思いとは何か?ある説によると

POWER(権力), PRESTIGE(権威)、POSSESSION(所有)

の三P であるという。よく黙想してみたい。

人を思うように動かしたい、という思いが権力欲。多少ともこの思いから人は免れない。無視されると悔しい思いをする

人から重んじられたいという権威・名誉への欲望からも人は自由ではない。言い換えれば馬鹿にされたくないという思い。

好きなものを自由に支配し使用したいという所有欲。これも侮れない欲望。手に入らないと悔しい、寂しい、面白くない、などのマイナスの思いに捉われる。

謙遜、従順、素直、平和、寛容、親切、忍耐、節制などの徳に恵まれたいものです。

 

 福音朗読  ヨハネによる福音書 14:21-26
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

 

 

2020年5月 6日 (水)

5/8,9,10日の福音

復活後第4金曜日、5月8日

復活後第4土曜日、5月9

復活後第5主日、5月10日

第一朗読 使徒言行6・1-7
第二朗読 一ペトロ2・4-9
福音朗読 ヨハネ14・1-12
5月8日、復活後第4金曜日、ヨハネ14・1-6

5月9日、復活後第4土曜日、ヨハネ14・7-14

三日間ほぼ共通)
 

説教

ヨハネの福音の14章が、今日の福音の箇所であります。イエスは地上を去る時が来たことを知り、弟子たちに遺言のように数々の教えを残されました。ヨハネによる福音は、そのようなイエスの言葉と生涯を編集した福音書であると思われます。

 さて、イエスは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と言われました。弟子たちが不安や危険を感じている時に、彼らを励まして、わたしたちは父の家に行くのですよ、父の家には住む所がある、あなたがたのためにすでに、住む所が用意されている、心を騒がせてはならない、と言われたのであります。「わたしは道であり、真理であり、命である。」その父のもとの住む所にどうやって行ったらいいだろうか。正しい道を歩まなければたどり着くことができない。どこに行くにも道を調べて、その道に従って行かないとたどり着くことができないわけですが、まして、地上の旅をしながら天の父のもとに行く旅、それは容易なことではない。わたしたちはなかなか神様の教えをよく理解することができなかった。そして、さらに、おっしゃっていることがある程度わかるけれども、なかなか実行できない。脇道に逸れてしまう。そのようなわたしたち、いわば罪人であり、そして破れたところがあると申しましょうか、そういう人間を赦し、励まし、そして助けながら天の父のもとへ連れてってくださる方がイエス・キリストであります。天の父のもとへ行く道。その道を示す人がイエス。そのイエスは人を欺いたり、あるいは失敗させたりする方ではなく、信頼するに値する方。イエスと共に歩めば、天の父のもとに行くことができますよ、信頼するに値する、そういう意味で真理であると言えます。そして、すでに天の父の命を生きている人なのだと。

 わたしを見る人は、天の父を見ることと同じである。父はわたしの内にすでにおられ、わたしも父の内にいる。わたしと父は一体であると宣言しておられます。ですから、天の父のもとに行くためには、イエスと共に歩まなければならない。地上の生活を終えたイエスは、天に昇られ、そして弟子たちに聖霊を注いで、教会を設立しました。今は教会の時代であります。イエスはわたしたち教会の中に留まり、人間として留まるというよりも霊的に留まり、色々な機会を通して、わたしたちに教え、励まし、導いてくださっています。

第二朗読の中で、次のような言葉がありました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」これはどういうことでしょうか。すでにわたしたちは、神の子となり、洗礼を受け、神様の恵みに与り、イエス・キリストの務めを果たす、務めに協力することができるものとなっているんですよと。神様に日々の生活をお献げする祭司、そしてイエス・キリストの教えをのべ伝える福音宣教者、さらに生活の中で神の愛を実行することによって、人々を神様のもとに導くことができる、そういう人になっています。そして、既に洗礼を受けさらに堅信の秘跡を受けた人は、さらに聖霊の賜物を受け、力強く信仰を証しし、実行することができるようにされているのであります。知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、聖霊の七つの賜物を受け、そして主イエス・キリストの教えを自分の場所で、自分の言葉で説明する人。イエス・キリストが生きられたように、神の愛を実行する人になります。

 福音宣教をするという教会の務めは全員の務めであって、司祭、修道者が持っているが、信徒の方はその神父様やシスターを助ければいいというわけではない。もちろん助けていただかないといけないのでありますが、自分でも自分の場所で出会う人に、信じている信仰、わたしは何をどう信じているか、なぜ信じたか、どのようにして信じるようになったのかということを、自分の言葉で話す人になっていただきたいし、そうできるはずであります。それは聖霊が働くからであります。

 神の民全員が宣教する人、そして、この世界をより福音の教えにかなったものするために働く者となるのです。さらによく聖書を学び、お祈りをし、そして自分の周りの人を見て、困っている人、助けを必要とする人、必ずいるんですよね、そのためにできる奉仕をするようにしていただきたいと思います。

 

第一朗読  使徒言行録 6:1-7

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:4-9

(愛する皆さん、)主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 14:1-12

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 

2020年5月 5日 (火)

イエスを受け入れる人

復活後第4木曜日、57

 

第一朗読 使徒言行録 より

「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕

をもってそこから導き出してくださいました。・・・・」

パウロはアブラハム以来の救いの歴史を要約し、洗礼者ヨハネにつなげる。

ヨハネの後登場したイエスは、以下のように主張する。

ヨハネの福音から。

「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

かくてイエスとイスラエルの神のラインがつながることになる。

そしてイエスの弟子とイエスのつながり。

わたしたちは イエスから派遣されている。この自覚を深めたい。それは易しいことではないだろう。わたしは今、此処に、いる。神よ、助けてください。

第一朗読  使徒言行録 13:13-25
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」

福音朗読  ヨハネによる福音書 13:16-20
(イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、こう言われた。)「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

 

 

 

 

 

父である神と子である神の関係

復活節第4水曜日 5月6

福音朗読より

「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」

昨日の福音(ヨハネ10・30)と同じ内容である、言えよう。

イエスを見る者はイエスを使わされた父である神をみることになる。イエスと父である神は一体である。

また、イエスの言葉は父の言葉と同じである。イエスは父の命じるままに話すからである。

ヨハネの福音は総体としてイエスと父である神の一致を強調している。

(「わたしを見た者は父を見たのである。14・9。」「ことばは神であった。1・1.」など参照)

 

すると、人間イエスが苦しんだ時神も苦しんだのだろうか。イエスが十字架の上で

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられたのか。マタイ27・46)

と叫んだとき父はどのような気持ちで聞いていたのだろうか。ともに苦しんだに違いない。

 

な、いお、ニケア・コンスタナチノープル信条では、イエス・キリストは

「神からの神、光からの光、まことの神よりのまことの神」と表現している。

 

使徒言行録より。

「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

バルナバとパウロはアンティオキアで人々から按手を受けて任務に派遣された。按手とは聖霊のたまものを授ける祈りの儀式である。

 

 

第一朗読  使徒言行録 12:24-13:5a
(そのころ、)神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:44-50
(そのとき、)イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

2020年5月 4日 (月)

divinization

復活節第4火曜日、5月5日

 

第一朗読より

「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

クリスチャン(キリスト者)という呼称の起源を述べる。このときから、おそらく、ユダヤ教からキリスト教が分離し独立するに至ったのであろう。

 

福音朗読より

「わたしと父とは一つである。」

明白な宣言、イエスは、自分は父である神と等しい存在であると断言した。

「二ケア・コンスタンチノープル信条」ではイエスは「父と一体である」と表現されている。

もちろんわたしたちはそうは言えない。しかし、神のいのちがわたしたちの中に注がれていることを、聖霊が与えられていることを、心から信じなければならない。このことを、この神秘を、東方教会の伝統では、「神化」divinizationと言うそうである。わたしたちは神の子であり、互いにその尊厳を担う者であり、復活したキリストの栄光の写しである、という自覚を深めたい。

 

第一朗読  使徒言行録 11:19-26
(その日、)ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:22-30
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 

 

 

2020年5月 3日 (日)

いのちをかけるアガペー

復活節第4月曜日、5月4日

     

   わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが         父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。

 本日の福音朗読は、昨日、復活節第4主日とほぼ同じ趣旨の福音である。

良い牧者イエスとその羊の間には非常に親しい交わりがなければならない。羊はイエスをよく知っている筈である。

それではわたしたちはイエスをよく知っているだろうか。どのようにイエスを知っているだろうか。

この視点から、イエスをよりよく知る、という動機をもって福音書からイエスを学ぶことは極めて大切である。

よい牧者は『雇い人』ではない。『雇い人』とは「雇われ人」「雇われて報酬のために働いている人」の意味である。自分の身に危険が及ぶと仕事を放棄して羊を見捨て逃亡してしまう。羊は自分の羊ではないからである。良い牧者は自分の羊を守るために命すら捨てるのである。

良い牧者イエスにはまた、まだ囲いに入っていない羊がいる。それは「異邦人」のことである。

第一朗読、使徒言行録は、ペトロが如何にして異邦人に福音を伝えたかを宣べている。ユダヤ人にとってけがれた食物――地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などを食べるということは律法を破る事になり、とんでもないことだった。おなじように異邦人を仲間と認めることは考えられない「想定外」のことであった。

 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

 かくて、きょうの使徒言行録が伝える経緯により、福音はギリシャなど異邦人の世界に広がって行ったのでした。

 さて、いまの日本において、イエスの羊とは誰か?囲いの外にいる羊とは誰か?どのように囲いの中に招き入れたらよいのか?

これはわたしたちキリスト者の福音宣教という課題です。圧倒的にマジョリティの囲いの外の人々に(99パーセント)囲いの中の信者はどう福音宣教するのか?

 思うに、結局、「いのち」すら惜しまないイエスのアガペーを実行するしかないのではないだろうか。

 第一朗読  使徒言行録 11:1-18
(その日、)使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:11-18
(そのとき、イエスは言われた)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

2020年5月 2日 (土)

召命のために

 復活節第4主日、202053

 「召命のために祈る」

世界召命祈願の日です。召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。
みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト410)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ16)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。

イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

 「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

第一朗読  使徒言行録 2:14a36-41


(五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 

 

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:20b-25
(愛する皆さん、)善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:1-10
(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

 

 

 

 

 

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