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2020年5月14日 (木)

使徒会議の決議文

515日 復活節第5金曜日

教会の歴史上最初の使徒会議、のちの公会議の決議文が、エルサレムからアンティオキアの教会へと、パウロとバルナバを介して伝えられた。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

「聖霊とわたしたちは」という表現に注目したい。使徒たちは、この決定は聖霊と一致して行われたと確信していた。ここに、ユダヤ教からキリスト教の分離・独立の姿を見ることが出来る。ここに、キリスト教信者はユダヤ教の複雑・煩瑣な掟から解放され、真に脱民族の普遍宗教への道を歩み始めた。この際、異邦人の使徒パウロの果たした役割は大きい。

今日の福音朗読。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」

昨日とほぼ同じ内容である。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

新しい掟は明瞭である。簡単で容易になったのか。いやそうではない。命を懸けて友を愛することはかえって旧約の数多い掟よりもより困難になった。ひたすら聖霊の導きを願うしかいない。それでも聖霊に従っていない自分を自覚し赦しを乞うしかないのが多くの人の現実である。しかし、他方多くの殉教者はこのイエスの言葉を守って命をささげたのである。この証の上にわたしたちの教会が成立し発展してきた。

 第一朗読  使徒言行録 15:22-31
(その日、)使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:12-17
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 

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コメント

キリスト教がユダヤ教から解放されて世界に羽ばたくことになったわくわくするようないきさつを学ぶことができて嬉しく思います。使徒会議の決議文には異民族に受け入れられるための気遣いのようなものも感じられ、興味をひかれました。聖霊とわたしたは・・・という表現が、新しいキリスト教の大切な言葉になるということかなと思ったりしました。使徒たちの努力、特にパウロの大きな力を忘れることができません。福音書のイエスのことばをもう一度味わいました。

「一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」という決定を知り、人々は喜んだ、という場面が想像されます。解き放たれたような明るさを感じたことでしょう。

でも司教様のおっしゃるように、「友のために自分の命をすてる」ということは、より困難と感じます。
という以前に、この世に生き、家族や仲間とのごく普通の平和なささやかな幸せな生活を願う私にとって「友のため自分の命をすてる」とはどういうことなのでしょう。
「殉教」ということが、もし私の身近な、大切な人だったらどう感じるでしょう。
ごめんなさい、よくわかりません、という気持ちです。

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