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2020年5月12日 (火)

わたしにつながっていなさい

復活節第5水曜日 513

 

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

イエスは繰り返し「わたしにつながっていなさい」と言っている。イエスにつながっているとはどういうことだろうか。

第一朗読で初代教会の論争を伝えている。割礼論争である。割礼を受けることが救われるために不可欠と考える人たちがいた。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」という主張である。エルサレムでの使徒会議の結果、もはや割礼は不要という結論になった。この場合、割礼がイエスにつながるためには不要ということである。

さて、筆者は最近約一か月入院を余儀なくされた。生まれて初めての体験。様々に考えさせられた。この環境で「イエスにつながっている」とはどういうことを意味するのだろうか。ミサも挙げられない。ひとりで「教会の祈り」を唱える。だんだん必死になってくる。一人ぽっちである。自分の弱さ、脆さを実感する。

このような環境にいる人はわたしだけではないだろう。日本の状況で孤立している信徒・信者は少なくはない。イエスというぶどうの木につながっている人は社会の隠れたところにいることだろう。

さて、日本の社会状況で「どうすればイエスにつながっている」といえるのだろうか。主日のミサに参加すればそれでよいのか。主日のミサ参加を厳守している信徒・信者はどのくらいいるだろうか。事実上それは困難である。

最もコロナウイルス感染の危険から主日のミサ参加が免除されているという教会始まって以来の異例の状態に今置かれている。一か月のミサを挙げられなかったという体験も司祭叙階以来初めてのことである。

 

自分はイエス・キリストにつながっていると言えるのはどのような場合か。今一度じっくり考え祈り求めましょう。

 

第一朗読  使徒言行録 15:1-6
(その日、)ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:1-8
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 

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コメント

もう、神様の所に行く準備をした方が良いのではないですか。

入院中とは存じ上げないままでした。ずっとお説教を心待ちにして拝読しています。多くのことをお教えいただき、お導き頂き、最近、以前とは違う自分に気がついています。これまで偶然だと思っていた諸々のことがそうではないことを実感いたします。ぶどうの木のたとえ、イエスことば「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている」を心に刻みたいと思います。 
一日も早くご全快されますように心よりお祈り申し上げます。

神さまだけでなく、誰かと「つながっている」というのは私にとっては「切らないでいる」方のイメージが強いです。いつも、近く、強くつながっていられたらよいのかもしれないけれど、そうでない私もいる。
だけど「決して忘れない」。その方のことをいつも「心のどこかに住まわせていられたら」と思っています。

「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」
これも「いつもある」とは言えないけれど、私の内にとどまって、ふとした時にささやく、時には聞こえなければ楽かもしれないけれど、私を内から揺さぶる言葉があります。

道に迷いながら、ゆれながらも、一生懸命につながっていようとしている気がします。

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