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2020年5月17日 (日)

洗礼から堅信へ

2020年5月17日、復活後第6主日C年

                                カトリック本郷教会信徒館会議室

第一朗読:使徒言行録8・5-8、14-17
第二朗読:一ペトロ3・15-18
福音朗読:ヨハネ14・15-21

 4月11日、復活徹夜祭で洗礼、5月31日聖霊降臨の主日にカテドらルで堅信、という予定が、コロナウイルス蔓延のため、その予定が大きく変更になりました。

5月31日に洗礼式を挙行できるか、今日相談します。

 

復活徹夜祭は洗礼を受けるのに、最もふさわしい時です。その時に、使徒パウロの手紙、ローマ書が読まれます。その手紙の中で、洗礼の意味が説明されています。洗礼を受けるということは、水の中に沈められ、そして水から引き上げられるということを意味しています。実際、昔は、浸水礼と言いますが、本当に全身を水に浸して、それから引き上げられるという式であったそうです。この式の意味しているところは、一旦わたしたちは水の中に沈められて古い人が死ぬ。そして、新しい人となって生まれ変わる、ということを表しています。神様のお恵みに、神の命に与り、そして古い人にさよならして今日から新しい人になります。そういうことを意味しています。新しくなって、清々しい気持ちになって、恵みに溢れて、毎日お過ごしになってきたと思います。

 しかし実際のところなかなかそうもいかないということがあります。

わたしも洗礼を受けた。あんまり変わったような気はしませんでした。罪ということが無くなったわけではないです。洗礼を受けたからといって、罪は犯しませんというわけではない。ですから、赦しの秘跡という秘跡があって、たびたび告解をしなさいと勧められています。さらにわたしたちは毎日祈ります。「わたしたちの罪をおゆるしください」と。
 ヨハネの手紙の中にありますが、わたしは罪を知らない、犯さない、ということは偽り者であると明示しています。洗礼を受けても、わたしたちは神の前に清廉潔白な身で立つことができない。そういう自分を見出す。同じヨハネの手紙の中に、肉の欲、目の欲、生活のおごりという言葉があります。わたしたちは様々な欲望に振り回されることがあります。少なくとも欲望というものは、消えるものではない。いかにこの欲望を制御し、罪と闘い、悪に打ち勝つように祈るという日々がわたしたちキリスト者の生活であります。
 今日は紹介したい話があります。『平和のための宗教者の使命』という冊子、良いものでありますので、今日、その内容の一部を紹介します。これはキリスト教の話というよりも他の宗教の話が多く出ています。わたしの心に強く残っている仏教の教えを簡単に紹介します。
人間には三つの毒が入っている、と言います。三毒、それは貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)という難しい漢字です。
 この貪(とん)というのは貪欲の貪。欲深い。貪(むさぼ)る。欲深いと自分では思わないのだけれども、気が付くと、あれもこれも整理がつかない。人に言われて初めて、そうだなと。これは人が自分の思い通りにしないと気持ちが良くない。
 瞋(じん)というのは、いきどおりという難しい字です。目をへんに、昔の真実の真の旧字体がつくりの字。これは妬み、嫉み、怨み。われわれは小さなことかもしれないけれども、毎日、怒りというほどではないにせよ不快になっている。今の社会、文句を言う人が非常に多い。病院でも、学校でもそうです。そのようなお仕事のかたは大変だろうと思います。
 それから癡(ち)という言葉ですけれども、これは病だれの中が疑問の疑という字です。ものごとがわからないという意味だそうです。わかっているつもりですけど、わかっていない、ということ。まず人のことがわからない。人の立場がわからない。人がどんな思いをしているか、わからない。歳をとると、自分が、他の人のことが分からない人間であると気が付く。だんだんそういう気持ちになる。この歳に至ると色々なことが思い出され、家族のこと、親のこと。もう遅いのですけれども。十代くらいの時は、親に対してどういう気持ちを持っていたか、どんな態度をとったか、こういうことはわかっていなかったです。自分の気持ち、自分のことでいっぱいで、親が子どものためにどんな苦労をしていたかということを知ろうとはしなかった。ずっと何十年も経ってから、あの時こうだったのかなと思うのですけれども。これはわたしのことで、皆さんのことじゃないですよ。人間は生涯こういう問題を抱えていく。

 さて、洗礼を受けてからこれからいつか堅信を受けられる皆さん、今日の福音にそれが出てきますが、聖霊、ギリシャ語でパラクレートスといいますが、側にいて助けてくれる聖霊が降りてきて、日々わたしたちを教え、導いてくださいます。聖霊によってわたしたちは、日々の生活の中で、自分の問題、何だかわからない自分、自分の欲望をきちんとコントロールできていない自分を見つめ、そして助けていただくように祈り、堅信の時に授けられる聖霊の七つの賜物、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」は、わたしたちが聖霊の導きに従って生きるために必要な賜物であります。皆さんはまず自分自身の毎日の生活を整え、心清く祈り、そして犠牲をささげるようにしください。
 それだけではないのです。堅信の儀では、自分の信仰を力強くはっきりと人々に宣言し、そして自分の信じていることを実行するという恵みを授けられるわけであります。洗礼を受け、堅信を受けるものは全員イエス・キリストの使命に与るものとなります。それはイエス・キリストの福音をのべ伝える、証しするという使命です。全員がそうです。神の民全員がそれぞれ自分の場所で、自分の生活の中で、イエス・キリストをのべ伝え、証しする。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい、というキリストの教えを実行するように呼びかけられています。そして、そうできるようにと聖霊が降り、わたしたちと共にいてくださいます。毎日の祈りの時に、聖霊に助けをさらに求めるようにいたしましょう。
 全員が福音・宣教することができるように、毎日祈り、聖書を学び、そしてお互いに助け合うようにしていただきたいと思います。

 

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コメント

今日のお説教の中では「貪」「瞋」「癡」ということが心に残りました。
特に「癡」。ものごとがわからない。わかっているつもりでも、わからないこと。

この「わかっているつもり」というところが、一番よくないところだと思います。
人のことがわかっていない、人の立場がわかっていない、人がどんな思いをしているかわかっていない。それでいてわかっているようなことを言ったり、したりしています。
許して頂いているのは自分のほうだなと感じます。

洗礼と堅信という大切な儀式についての意味をお教えいただき、キリスト者として生きるのは現実にはどういうことか、自分のこととしてあらためて考えました。
三毒のうち 自分に一番問題なのは、貪 という毒。 あれもこれもと考え、整理のつかない自分です。

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