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2020年5月21日 (木)

あなたがたはもうわたしを見なくなる

521日 復活節第6木曜日

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

このイエスの言葉は何を意味していたのか。弟子たちにはわからなかった。

受難、磔刑、昇天、聖霊降臨の出来事全体を指しているのだろうか。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは受難のことではないだろう。それは目に見える出来事だった。昇天のことを指しているように思われる。「またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とは何を意味しているのか。再臨のことではないだろう。「しばらくすると」とは何をいっているのだろうか。聖霊降臨のことだろうか。聖霊を受けることを「わたしを見るようになる」と言っているのだろうか。それてもイエスの復活の出現を言っているのだろうか。しかし復活は昇天の前の出来事である。

この辺を説明している注釈書があればいいのだが。・・・

イエスの言葉は生前理解されなかった。今のわたしたちにとっても依然謎のようである部分が残っている。

わたしたち人間の日常のcommunicationも不完全である。互いに理解できない部分がる。思い込んでしまうことがある。人は自分の認識の枠組みから出ることが困難である。理解できなくとも深く広く受け入れることができるようでありたい。

第一朗読 使徒言行録 18:1-8
(その日、)パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

福音朗読  ヨハネによる福音書 16:16-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、そのままの言葉で3回もくりかえし書かれています。
わからなくても、このままくりかえし唱えなさい、ということかなと感じました。

「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなる」の『見る』と「また、しばらくするとわたしを見るようになる」の『見る』は、よくわからないけれど、違うのかもしれない、と思いました。

アレルヤ唱の「わたしはあなたがたを孤児(みなしご)にはしない」という言葉が心に響きました。「みなしご」とはどういうことを言うのか。実際に親がいなくても心の中に、かつて自分をまるごと受け入れてくれた人のイメージが持てていれば、人は生きていける、と聞いたことがあります。そういうことを言っているのかなと思いました。

イエスは復活後に昇天し、聖霊としてまた弟子達のところに現れるということでしょうか。神のもとに行ったイエスは聖霊と一体になったとお教えいただいたのを思い出します。
使徒言行録には、アテネを去ってコリントへ行って、テント造りをしながらユダヤ人を説得したパウロは、「メシアはイエスである」、と力強く証しした、と記されていて、今日もパウロの信仰と努力が心に残りました。

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