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2020年6月

2020年6月28日 (日)

ペトロの信仰

聖ペトロ・聖パウロ使徒 祭日(629)

2020628日、本郷教会

 

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録121-11

第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(テモテ46-8)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ1613-19)

 聖ペトロ、聖パウロの二人の人は、教会の二つの礎、或いは、二本の柱というべき非常に重要な人物であります。
ペトロは、使徒の頭として、信仰を宣言し、イスラエルの小さな村から初代教会をつくり、パウロは、キリストの神秘を解き明かし、異邦人の使徒となりました。
本日のミサの叙唱が告げる通りであります。

きょうの福音で、ペトロは弟子たちを代表して、信仰告白しています。

「あなたはメシア、生ける神の子です」このペトロの信仰告白に対し、

イエスは言われました。

「バルヨナ・シモンあなたは幸いだ、あなたにこのことを表したのは人間ではなく私の父なのだ。」

イエスはペトロのこの言葉を、最大限に称賛していると思われます。
この言葉に続き、ペトロに向かって言われました。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」

此処は、依然、わたしたちのローマカトリック教会がよく引用していた箇所であり、わたしたちの教会の成立の根拠、そして、最初のローマの司教であったペトロと、その後継者の役割、位置、特に、後日(第一バチカン公会議の時ですが)ペトロの首位権の根拠とされた箇所であります。
ペトロという名前ですが、彼のフルネームはバルヨナ・シモン

このシモンに、イエスはアラム語の「ケファ」という名前を与えられました。この「ケファ」というアラム語、彼らが話していたと思われる言葉ですが、「ケファ」をギリシャ語訳にすると「岩」という意味になります。そして、ギリシャ語では「ペトラ」となりますが、ペトラは女性名詞ですので、ペトロは男性であるから、「ペトロ」に替えたのではないかという説明があります。
「ペトラ」のままであるとすると、「ペトロの信仰」を意味していたのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、ペトロの信仰、或いは、ペトロ自身をさすにしても、ペトロを教会成立の重要な礎にしたということに変わりはありません。

この後、さらにイエスは言われた。
「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」この言葉によって、わたしたちはローマカトリック教会において、ペトロとその後継者は使徒の頭とされていると解釈してきました。

本日は、その問題はこれくらいにしておきまして、福音朗読の続きの部分を思い起こしたい。

この直後に、イエスは、いわゆる「受難の予告」を行っています。

イエスはご自分が「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、殺され、三日目には復活することになっている、と、弟子達に打ち明け始められた」と、出ているのであります。

ペトロは大変正直な人で、直ぐにその言葉に反応しまして、イエスを脇にお連れして、いさめ始めた。

「主よ、とんでもないことです、そんなことがあってはなりません。」このペトロの言葉に対して、イエスは、「お前がそう言ってくれることはありがたいが、それは違うのだよ」という説明をしたかというと、そうではなかった。いきなり、ペトロを叱責して言いました。
「サタン、ひきさがれ、あなたは私の邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている」
と、なると、ペトロの信仰告白は、どれだけイエスの使命を理解した上でのことであったのか、非常に疑問になってきます。

人の思いと、神の思いの間には、天と地ほどの遊離、相違が存在していたと思われます。ペトロの言ったことは、いたって常識的なことでありました。わたしたちにもこのペトロの言葉になるほどと思う部分があります。しかし、わたしたちは既に知っています。イエスは、この後、ご自分の受難への道を歩み始めたのです。

受難とはなぜ起こったのか。イエスは自分の教えた言葉を実行しなければなりませんでした。

山上の説教、神殿での教え、これらの言葉は、すでに多くの人々、多くの宗教の指導者、祭司、ファリサイ人、律法学者、或いは長老達の反感、憎悪を引き起こしていたのであります。

わたしたちは、一年掛かって、イエスの生涯と受難を学んでいることになりますが、特に、四旬節、聖週間の典礼において、イエスの受難ということを学ぶことになっています。

わたしは、コロナ・ウイルスの問題で、今年はこの季節の典礼を充分に執行することができませんでしたが、ぜひ、次回は、イエスの受難についてもっと深くしっかりと学びたいと考えております。

 

2020年6月27日 (土)

イエス、癒し人

2020年6月27日、年間第12土曜日のミサ福音朗読より

ナザレのイエスは何をした人であったか?

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

彼は実に「癒しの人」であった。今日の福音朗読では

百人隊長の僕

ペトロの姑

その他多数の癒しが報告されている。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

とはどういう意味だろうか。その苦しみを引き受けることによって人々を苦悩から解放した、という意味だろうか。どのようにしてそれが可能であるのか?

経験できない世界での出来事か?

 ーーー

マタイによる福音書 8:5-17
(そのとき、)イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

2020年6月26日 (金)

重い皮膚病

2020年6月26日のミサより、「重い皮膚病」(ツァラト)

イエスという人は何をした人でしょうか。福音書から目立つイエスの行いは「癒し」であります。イエスは病気の人、患っている人、体の不自由な人を癒しました。今日の癒しは「重い皮膚病」の人の癒しです。

「重い皮膚病」と言う言葉は、従来は「らい」、あるいは「らい病」と訳されていました。しかし、「らい」という言葉は、人々に不快感を与え、差別を助長させます。 聖書には、この「らい」の人がたびたび出てきますが、「らい」はギリシャ語の原文では、「lepra(レプラ)」であります。旧約聖書にある「皮膚病の人」、「ツァラアト」という言葉なのですけれども、これが、ギリシャ語に訳すときに、「lepra(レプラ)」となりました。 医学が進歩して、この病気を引き起こす病原菌が発見されました。発見者の名前を取って、「ハンセン病」、あるいは「ハンセン氏病」というようにもなりました。  
聖書に出てくる「重い皮膚病」が「ハンセン病」と同じであるかどうか、ということは、今の医学では、確認できていないこともあって、「重い皮膚病」となっております。

さらに最近2018年に発表された「聖書 聖書協会共同訳」では「ツァラト」は「既定の病」と訳されています。ただし新共同訳聖書では「重い皮膚病」の訳を維持しております。(わたしは「ツァラト」でよいと思いますが。) 

自分自身の身体の変形、人に見られたくないような体の状態、それだけではなくて、人から忌み嫌われ、退けられる、一緒に暮らすことはできない、共同体の中には住めなくて、端の方に隔離されて、特に、旧約聖書の世界において、誰かに近づくときは、「わたしは汚れた者です」と叫ばなければならない、とされていました。どんなに屈辱的な思いをしたでありましょうか。  

この重い皮膚病の人はイエスの一言によって、清くされ、癒されました。司祭のところに行って、自分が癒されたことを証明し、そして、社会復帰をしても良いという許可をもらうようになったのでありました。

――

福音朗読  マタイによる福音書 8:1-4
(そのとき、)イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

2020年6月25日 (木)

岩の上に家を建てる

2020625日、年間第十二木曜日 ミサ説教

 

山上の説教を学んできました。今日は「山上の説教」の結びにあたる部分で、

「『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ721)というイエスの言葉を聞きます。

「山上の説教」というのは、神の国の福音のあり方を述べておりますが、わたしたちにとっては、その実行がやさしくはないと思われます。

やさしくないから実行しなくてもよい、というわけではさらさらない。

しかし、実行できなくとも、実行するように努めなければならないのであると思います。

ヨハネの手紙のなかに次の様な言葉があります。

「もし自分に罪がないという者がいれば、その人は偽り者である。」(一ヨハネ18

神の前にわたしたちが正直に誠実に反省するならば、まったく自分に落ち度がないとか、過ちがないという人はいない。聖書のほかの箇所でもそのように言っています。そこでどうするのかと言うと、自分の問題を謙虚に認めて、赦しを願うということであります。

わたしたちが日々唱える「主の祈り」もそのような祈りになっています。

わたしたちは、「御心が行われますように」と祈り、それは自分のことはさておいて神様の御心が実行されますようにということよりも、自分において、自分が今日も神様の御心を行うことができますようにと、祈るのであります。

そして一日が終わって、自分がどのように自分は神の御心を実行したのかということを反省する時に、神の御心を完全に知ることもできませんし、神の御心に背くことをした、あるいは御心を行わなかったという反省をしないわけにはいかない。

そこで、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈るのであります。

ところで、今日の福音で言う「岩の上に家を建てる」とは、イエス・キリストという岩の上に家を建てるという意味ではないかと思います。

 

もし「わたしの天の父の御心を行う」という言葉の意味が「律法を行うこと」と同じであれば、イエスの言葉と使徒パウロの言葉が対立することになります。パウロは、人は律法を実行することによっては救われない、とはっきりと言っています。「岩の上に家を建てる」とはイエス・キリストに免じて神に受け入れていただくという意味であると考えます。

福音朗読  マタイによる福音書 7:21-29
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 

2020年6月24日 (水)

洗礼者聖ヨハネの誕生とイエス

624日、洗礼者聖ヨハネの誕生

 624日は、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日であります。主イエス以外で、その誕生を祭日として祝う聖人は、聖母マリア以外には、本日祝う洗礼者聖ヨハネだけではないかと思います。

それほど洗礼者聖ヨハネの果たした役割が重要であると考えられています。

ヨハネの誕生とイエスの誕生の間に、ちょうど6ヶ月の期間があります。

ヨハネの果たした役割は、イエス・キリストの到来を準備するということでありまして、ちょうど旧約の時代から新約の時代に繋がる「つなぎ目」の役割をした人であります。

マタイの福音で1111節に、不思議な言葉がみられます。

「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」

この言葉は、何を言っているのだろうか。

前半は、大変ヨハネを評価する言葉である。ヨハネよりも偉大な者は、今までに現れたことはないとイエスは言われた。しかし、その直後に言われた言葉が少し分かり難い。天の国では、最も小さい者でさえ、ヨハネよりも偉大である。

ここに旧約の時代と新約の時代の比較があるのではないだろうか。

洗礼者ヨハネのイメージというのは、どういうものであるかと言うと、荒れ野で厳しい生活をし、らくだの毛衣を着て、イナゴと蜜を食物とし、とても普通の人にはできない難行苦行の生活をしながら、悔い改めを説いたわけであります。

イエスの方は神の国の福音を説きました。

イエスの周りには貧しい人が沢山集まっていました。イエスは貧しい人々と親しく交わりの時を持ち、また罪人として蔑まれていた人々ゆっくりとしたよく食べよく飲む生活をしていたようであります。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカ733)と悪口を言われています。

洗礼者ヨハネは、ヘロデによって斬首の刑を受けましたが、イエスは十字架の刑に処せられ、そして三日目に復活されました。

二人とも処刑されたわけですが、ヨハネを引きついイエスの死の後、教会が生まれました。イエスの死後生まれた教会は、神の救いの福音を宣べ伝え、今日の教会へと発展しました。

洗礼者ヨハネは、神の厳しい掟を説き 悔い改めを説いたのでありますが、イエスは愛の掟とともに、罪の赦しの福音を伝えたと思います。

キリストの聖体の説教で申し上げましたが、イエスが十字架の上で流した血は、罪の赦しのための新しい契約の血となったのであります。

 ーーー 

第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠してわたしに言われた あなたはわたしの僕、イスラエル あなたによってわたしの輝きは現れる、と。わたしは思った わたしはいたずらに骨折り うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもましてわたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第二朗読  使徒言行録 13:22-26
(その日、パウロは言った。「神は)サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ(たのです。)」

福音朗読  ルカによる福音書 1:57-6680
さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 

2020年6月23日 (火)

狭き門

2020623日、年間第12火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 7:612-14
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

――

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

有名なアンドレ・ジッドの小説『狭き門』の主題となる聖句はここからとられています。2017108日はカテドラルで子どものミサが献げられたが、「狭い戸口」の出てくる平行箇所、ルカ1322-30 が福音朗読の箇所として選ばれていました。)

「狭い門から入りなさい。―――」

というこのイエスは何を言っているのでしょうか。『狭き門』のヒロイン、アリサは、地上の人間の愛を犠牲にし断念することを説いていると受け取ったようです。彼女はジェロームへの愛を断念するめに苦しみ、悲劇的な最後を遂げます。しかし、果たしてこの箇所はそのような生き方を求めているのでしょか。

今日の福音はこの聖句の直前に

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

と述べています。これは掟の中の黄金律と呼ばれており、山上の説教のまとめであるとも考えられます。「狭い門」から入るとは、この黄金律を守ることである、とも考えられます。

ところで人はこの黄金律を守り切ることができるでしょか。誠実に反省すれば、誰でもそれは無理であると考えざるを得ません。ではどうするのか。罪の赦しを願って主イエス・キリストに自分の至らなさを告白して赦しを父である神に取り次いでいただくしかないと思います。イエス・キリストは「道、真理、命」ですから。(ヨハネ146参照)

自力で門を通ろうとすればそこは狭い門ですが、道であるイエス・キリストに依り頼むならば、通りやすい関所となるのではないでしょか。

 

 

2020年6月22日 (月)

裁いてはならない

2020622日のミサの福音朗読

福音朗読  マタイによる福音書 7:1-5
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

ーーー 

大変明解なたとえ話。子どもでも理解できる。人は他者の問題や欠点には敏感で注意深いが自分のことは棚に上げている。そもそも自分で直接自分の見ることはできない。鏡に映して見るのみ。

わわれは、日々こころのなかで人を裁いているが、決めつける前に、言葉にする前に、ひと呼吸して、公平な判断かどうか、反省すべきだろう。人は判断に偏りを避けられない。

 それでは、国家による裁判はどうあるべきか。いや教会によう裁判はどうだろうか。教会も反省すべき歴史をもっている。

 

二羽の雀の話

年間第12主日A年の説教

2020年6月21日、本郷教会

第一朗読 エレミヤの預言  エレミヤ20・10-13

第二朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 ローマ5・12-15

福音朗読 マタイによる福音 マタイ10・26-33

 

ほんとうに久しぶりに、この聖ペトロ聖堂で主日のミサを献げることができますことを、ご一緒に喜びましょう。

今日の福音朗読で、イエスは使徒たちを宣教に派遣するに際して言われました。

「恐れてはならない」

 三度も言われました。

「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

アサリオンという貨幣の単位はいくらぐらいの価値のある貨幣であるのか。

「聖書と典礼」の脚注に出ておりますが、1デナリオンの十分の一にあたる。デナリオンというのは一日の日当であります。1羽では売り物にならないということで、2羽1組で売っていたのでしょうか。いくらぐらいになるのか。300円とか、500円とか、2羽でまとめて売られていた。それほど価値の低い売り物でありました。ほんとうに取るに足りない安い売り物である。その雀さえも、神のご保護の中におかれている。まして、雀よりはるかに優れている人間は、髪の毛の数さえ、神に数えられているのだと。髪の毛の数。自分の髪の毛の数を数えた人はいないでしょうし、知っている人もいないでしょう。(ま、少なくなった人は別ですけど。)

これはたとえ話であります。神はわたしたちひとり一人の人間のことをすべて隅々までご存知である。当人が知らないことまで神はご存知で、わたしたちを守り、そして永遠のいのちへと導いてくださる。

たとえ体が滅びることがあっても、あなたという人間は永遠のいのちの世界へ移され、そしてイエス・キリストの復活の栄光に与るものとされるのだ。だから恐れることはない。そのように言っていると思います。

 

とはいえ、わたしたちは日々、自然の体の死、人間の日常の死、ということを体験しています。最初の人間とされるアダムの罪によって、この世に死というものが入ってきました。

第二朗読はローマ書の5章であります。一人の人によって死が人類に入ってきたが、一人の人、イエス・キリストによって、永遠のいのちがもたらされました。イエスの死と復活という出来事はすべての人に及ぶ永遠のいのちの恵みをもたらします。

ここにわたしたちの信じる信仰の神秘があるのであります。信仰の神秘はこのメッセージの中に込められています。そもそもわたしたち人類は、皆、つながりの中におかれている。同じ神によって創造された人間は、全て良いことについても悪いことについても、つながりの中に置かれています。最初の人、アダムに起こった悪いことは、不可避的に避けられないような仕方で、全ての人に影響を及ぼしました。わたしたちは、人類は、行い蓄積してきた悪のなかに生まれました。誰も自分の出生を選ぶことはできません。従って、この悪の連鎖の世界の中に生きることを免れないのであります。この悪の連鎖の中に生まれることを、「原罪」という言葉でいうことがあります。しかし、この悪の連鎖反応に比べて、善の、善いことの連鎖反応は、比べものにならないほど強く、そして、頼りになるものであります。善の連鎖とは、イエス・キリストの生涯、特に復活がもたらした恵みを指しています。復活したイエス・キリストは、聖霊を注ぎ、一人一人を内側から新しい人に生まれ変わらせてくださいます。

とはいえ、この善の連鎖反応は、いわば、自動販売機のように機能するものではありません。わたしたちの側の「信仰」という応答が必要であります。イエスによってもたらされる恵みを認め、受け入れる人間の側の応答が必要であります。教会は、人々がそのキリストの働きを受け入れるようにと、人々に呼びかけ働きかける使命を帯びています。

悪との闘いは、時には非常に大きな苦しみを伴います。今日の第一朗読、エレミヤ預言者は、その苦しみをエレミヤ書の中で告白しています。現代の教会も、悪との闘いの中で苦しんでいる部分があります。復活のキリストの再臨のときは、この闘いに終止符を打つとき、最終的な悪への勝利のときであります。そのときが来ることを待ち望みながら、希望のうちに歩んでまいりましょう。

 

2020年6月20日 (土)

十二歳のイエスの出来事

2020620日、マリアのみ心の記念日

今日の福音朗読は、ルカだけが伝える12歳の少年イエスの物語です。12歳と言えば当時のユダヤに社会では成人とみとめられていたようです。

大人として認められる年齢に達してイエスが何故両親に断りなく単独行動を取ったのだろうか。一言断れば済むことであるのに。当然、その軽率な行動を母マリアは咎めて言っている。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

母としてあってしかるべき注意の言葉である。それに対するイエスの応答が常識から外れている。普通はまず謝罪の言葉がある筈だ。その後で事情の説明ないし弁解があってしかるべきだ。学者との議論に夢中になって両親のことを失念してしまったのかもしれない。しかしイエスの言葉は意外な返事であった。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

どういう意味だろうか。両親には理解できなかった。しかし、マリアはこのイエスの言葉を心に治め、何度も思いめぐらしたことだろう。ヨセフの方はどうだったろうか。養父である自分の前で自分の真の父は神殿に住む神であると言われたとしたら、それをどんな気持ちで聞いたのだろうか。

イエスはこの後両親に、従順に過ごして、何事もなく平凡無事な日々を送ったらしい。イエスが宣教活動を開始するまでこのときからおよそ20年を要している。12歳のイエスが初めて自分の使命を自覚し、その準備のために20年を費やしたということだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 61:9-11
彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

福音朗読  ルカによる福音書 2:41-51
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 

 

イエスのみ心

イエスのみ心のミサ説教

2020619()、本郷教会

 

纏まりのない二三のことを申し上げます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

この今日の福音の言葉を味わってみたい。

「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」

イエスはそう言われた。

この本郷教会の掲示板に掲げられている言葉です。

何年か前のことですが、毎月一回土曜日、わたくしは(カテドラルから)不忍通りを歩いて本郷教会に通っておりましたが、その途中もうだいぶ本郷教会に近いところにあるルーテル教会にも同じ言葉が掲示されておりました。

福音というのはなんであるか。

人びとに安らぎ、あるいは憩い、あるいは癒しを与えることではないかと思う。

わたくしの印象では、従来罪からの赦しということを強調してきたけれども、わたくしたちが日々感じ、思っている救いというのはどういうことか。

わたくしたち自身の存在自体にある不安な、そして満たされていない状態ではないだろうか。その中に病気ということもあるし、孤独ということもある。そういう現実を罪という言葉で括ると分かり難くなってしまう。そういう現実は罪の結果かもしれない。神から離れている結果、わたくしたちはいつもこれではいけないという気持ちを抱かされているのかもしれない。

イエス・キリストの招きに応えて集まったわたくしたちは、求めるものがあって来たわけで、その求めることがどれだけ満たされているかは人によって違うでしょうけれど、求める側から与える側にもならないといけないので、教会としてはどんな人にも、疲れている者、重荷を負う者にどうぞ来てくださいと。

でも来てもらって、その人たちの思いにどれだけ応えられるかというと、また別な事になるのかもしれない。

この教の福音の箇所は何度も出会っているわけです。

 

「わたしの軛(くびき)を負いなさい」という言葉ですが、「軛」というものを見たことがありますか。

現在の東京の生活では「軛」を見ることはないと思う。

戦前なら見られたかもしれない。

わたくしの記憶では子供の頃、わたくしの家の近くに馬車屋さん、馬車を曳いて荷物を運ぶことを仕事としている家があって、駅から毎日荷物を運んでいました。

馬が繋がれて、馬についた車に荷物を載せて荷物を運ぶんですね。

そのために馬の首のところに「軛」というものを装着するわけです。

その「軛」は車の両脇の轅(ながえ)の部分に繋がっているわけです。

絵で見た方が分かり易いですね。

多分都会の人は見たことがないと思います。

東京でも戦前は埼玉辺りから馬車が来て、いろんな物を運んだかもしれないですが。

その軛ですが、「わたしの軛を負いなさい」とイエスは言うわけです。

それは何を意味しているのであろうか。

大工であったらしいナザレのイエスは軛作りの名人だったという伝説が残っているそうで、ピタッとその馬に合う軛を作ってくれたそうです。

もちろんこの今日の話はたとえです。

わたくしたちにも軛は課せられているのですね。

その軛とは何でしょうか。あなたの軛は何でしょうか。

これをちょっと今日は考えたら良いかもしれません。

 

ミサをあげることが難しい状況になって、いつから以前の状態に戻ることができるのか。

ちょうど四旬節の始まりと一緒にコロナウイルスの感染の問題が始まって、教会の活動が制限され、ほとんど停止といってもよい状態ですが、やっと少しずつ段階的に再開しようということで、次の日曜日、主日のミサは制限付きの公開ミサとなるということですね。

この一、二か月、どうやって過ごして来たかというと、わたくしは自分の問題、自分の病気のことで悩んできましたが、わたくしが大変お世話になった二人のイエズス会の神父様が亡くなりました。

アドルフォ・ニコラス神父様、520日、84歳。

わたくしが神学生の時に神学、わたくしたちの場合は終末論という神学を教えてくださいました。

日本管区長、そして世界全体の総長になり、終わって日本に戻り日本でお亡くなりになりました。

もうお一人、ペトロ・ネメシェギ神父様

つい最近、613日、97歳、老衰で帰天されました。ハンガリーのブタペスト。

日本で長く神学を教えてくださいました。

沢山の日本語の著書があります。

東ヨーロッパの社会主義、共産主義の政権が自由化されて教会の活動ができるようになったからでしょう、ハンガリー出身のネメシェギ神父様はハンガリーにお帰りになり、そこで約20年最後の司祭の奉仕をされました。

ニコラス神父、ネメシェギ神父、二人ともイエスの言葉に従って生きた人だと思います。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

わたくしたちの教会はイエスと同じようにはできないし、していませんが、できるかぎりこのイエスの言葉に見習って、安らぎ・癒しを与えるというよりも仲介し、伝えたい。

復活されたイエス・キリストの恵みを人びとに分かち合うことができるように準備し、与しなければならないと思います。

 

「み心」という言葉は、今は平仮名の「み」に「心」となっていますが、わたくしの時代は「聖心」と書いて、聖心という名前の修道会や学校施設がたくさんできたわけです。

ご存知の通り、東京にも聖心女子大等聖心の名がつく修道会や団体があるわけで、「聖心の信心」というものが普及して、今ちょっと下火になっているかもしれないけれど、一人の修道女聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れたイエスの言葉に基づいて始まった信心だと言われている。

イエスは人びとの忘恩、冒瀆、無関心を嘆かれたということがマルガリタ・マリア・アラコックを通して伝えられています。

特にご聖体に対する不敬、ご聖体を軽んじていることが悲しいと言われたと伝えられています。

人となられた神であるナザレのイエスの生き方、生涯全体をあらわす聖体の秘跡を大切し、訪問する、そしてイエスがその生涯に亘って命をかけて伝えてくださったことが何であるかということを日々心に深く刻みたいと思うのであります。

 

第一朗読  申命記 7:6-11
(モーセは民に言った。)あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。


あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 4:7-16
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年6月17日 (水)

主の祈り

618日 年間第11木曜日、「主の祈り」

福音朗読  マタイによる福音書 6:7-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

ーーー

有名な主の祈り、毎日唱えている。

前半は、わたしたちを通して神のみ旨が行われますようにと祈る。

後半は、自分たちの身に実現してほしい切なる願いをささげる。その願いの中に「わたしたちの負い目を赦してください。」とある。「負い目」という言葉は日本語としてわかりやすい。「負い目」は普通「罪」とされている。「罪」は現代の日本人には馴染みにくい。「負い目」で説明して後から「罪」という言葉を使うほうがいい。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」誰でも人に負い目がある。これを否定する人は少ない。問題は「赦します」か「赦しましたように」か、である。

原文の解釈には二説あり、どちらも可能であるらしい。自分が赦さないで自分だけ赦してもらう訳にはいかないだろう。人を赦して初めて神の赦しを受ける心の準備ができる。赦さない人は神からの赦しを受けられないと考えるほうがいいだろう。

もう一つの問題。「誘惑」か「試練」か。ギリシャ語原文から両方の訳が可能。

誘惑はどこから来るか。神からは来ない。試練なら神から来る。

ーーー

第一朗読  シラ書 48:1-14
火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明のように燃えていた。彼は人々に飢饉をもたらし、その熱意をもって人々の数を減らした。彼は主の言葉によって天を閉ざし、三度、火を降らせた。エリヤよ、あなたはその驚くべき業のゆえに、どれほどほめたたえられたことだろうか。あなたと等しく誇りうる者があろうか。あなたはいと高き方の言葉によって死者を死から、陰府から立ち上がらせた。あなたは王たちを破滅に導き、名士たちを安眠の床から引きずり降ろした。あなたはシナイ山で非難の言葉を聞き、また、ホレブの山で裁きの宣告を聞いて、王たちに油を注いで報復させ、預言者たちに油を注いで後継者とした。あなたは火の旋風に包まれ、火の馬の引く車に乗せられ天に上げられた。あなたは、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。確かに、わたしたちも生きるであろう。
エリヤが旋風の中に姿を隠したとき、エリシャはエリヤの霊に満たされた。彼は生涯、どんな支配者にも動ずることなく、だれからも力で抑えつけられることはなかった。彼にとって手に余ることは何もなく、死後もその体は預言の力を失わなかった。彼は生きている間、不思議な業を行い、死後もなお驚くべき業を行った。

 

 

 

2020年6月16日 (火)

右の手のすることを左の手に知らせてはならない

2020617日、年間第十一水曜日のミサ福音朗読より

 

「山上の説教」を読んできました。

昨日の説教は、「敵を愛しない」という教えでありました。

イエスは自分の教えたことを、自分で実行しました。

今日の説教は、偽善者に向けて行われています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と今日の福音は言っています。この教えは今の日本に住む我々にも分かりやすく受け入れやすい常識的な教えではないでしょうか。

しかしイエスは今日の福音で自分の善行を見せびらかす人々を激しく批判しています。非常に痛烈な批判を偽善者に向けてしているのであります。

偽善者というと福音書においては、ファリサイ人、律法学者が代表者です。

人の前に良い人であると装いながら、心の中は醜い名誉欲、放縦、自分のことをほかの人よりも大切にする心でいっぱいである、そのようにイエスは批判しました。

当時の人々の考えで、良い行いの代表は、施し、祈り、断食でありました。

施しをする時には、人から褒められるような態度でしてはならない。                                                                                     

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」と言われました。

また祈る時は、これ見よがしに私はどんな敬虔な人であるかということを見せたがるような祈りは、してはならないと言われました。

断食ということについても、いかにも人々にそれとわかるような断食の仕方をしないで、分からないように、頭に油をつけ顔を洗いなさい、と言われたのであります。

イエス・キリストとはどんな人であるかということを、わたしたちは毎日祈り求めています。

イエスは弱い人、病む人、迷う人に大変優しく、そして寛容でありました。

しかし自らを以って権威者とし、真理を保有していると自負する律法学者、ファリサイ派の人に対しては、非常に批判的な態度をとったのであります。

イエスはなぜ、どのようにして磔刑に架けられたのか?

律法学者、ファリサイ派の人々が画策してイエスを十字架に追い詰めました。そうならないように、もっと穏やかに妥協的に対処する選択肢もあったのに、イエスは断固とした態度を当時のユダヤ教の指導者たち(祭司たちも含めて)に対してとったのであります。

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福音朗読  マタイによる福音書 6:1-616-18
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 

 

敵を愛せるか?

敵を愛しなさい—―2020616日、年間第11火曜日

 

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

有名な教えである。キリスト教徒でない人でもイエスが「敵を愛しなさい」と命じたことを知っている。

「愛しなさい」の「愛」はアガペーである。アガペーはキリシタン時代には「ご大切」と訳したと聞く。現代の「愛する」という言葉は多義的で曖昧である。「愛する」は「好きになる」という意味ではない。相手に人間にとしての価値、尊厳を認め尊重し大切にすることである。相手のためになる事を行い、相手のために善を願って祈ることである。なぜなら「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」イエスは自分を迫害するもののために祈り、救いのために十字架に架けられた。自分を憎んでいる敵であっても同じ人間であり、神の似姿であり、同じ父である神の子である兄弟姉妹である。

ところで、この教え、弱く自己中心な人間であるわたしたちに実行可能だろうか。この教えは、神の国が完成した時のあるべき姿を述べているのであって、「神の国」では当然かもしれないが、現在の地上では実現困難ではないかという意見もある。しかし、困難であってもこの目標を撤回することはできないし、この旗印を引っ込める訳にはいかない。完全には実行できないから、この教えは間違っている、とは到底言えない。実行できなから、もう従わなくてもいいと、いうことも言えない。
わたしたちに生活と社会の中には、そのような緊張関係がいつもある。

聖ヨハネパウロ二世は紀元二千年という大聖年を迎えるに際し、書簡を発表し(『紀元2000年の到来』)、2000年という人類の歴史の大きな節目を迎えるにあたって、教会として反省すべきことがあるのだということを述べた。その中に、「教会の子ら」が暴力を使用した、ということを言っている。真理への奉仕に際し、暴力を使用したこと、暴力を使用することを黙認したことを、大いなる反省事項として挙げている。教会の教える正しい教えに反対する人、あるいは従わない人は、暴力を以って処罰してもよい、という考えが支配的であった時代があったことも否めない。

 

それはイエスの言葉に反することは明白ですが、当時の教会はそのようには考えなかったようであります。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:43-48
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

2020年6月14日 (日)

一緒にニミリオン行きなさいとはどういう意味か?

2020年6月15日ミサ福音朗読より

 福音朗読  マタイによる福音書 5:38-42
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 今日の福音の教えも、一般に、実行が難しいと思われる内容ではないだろうか。

『目には目を、歯には歯を』はいわゆる「同害復讐法」であり、復讐心に歯止めをかけるための法である。自分の受けた被害と同じ程度の損害しか加害者に課してはいけないと命じている。言い換えれば受けた損害を上回る攻撃をして復讐することを禁じている。しかしイエスはこの法の精神を超える生き方を命じる。相手の要求を甘んじて受けるだけではなく、相手の要求以上の応答をするようにと言っている。悪人に抵抗しないという無抵抗主義ではなく、悪人のためになる何らかの善の行為をするようにと言っているのである。無抵抗主義を超えた神の愛の世界を述べている。イエスの生涯を見れば、イエスはこの自分の言葉を実行したことが分かる。福音書は、イエスが自分を裏切ったユダに対してとった態度、十字架上で自分を処刑する人々のために祈ったイエスの祈りを記している。

キリストの聖体

6月14日、キリストの聖体の祭日

 今日は、キリストの聖体の祭日です。主イエスは、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を受ける」(ヨハネ6.54)
と言われました。このイエスの言葉にユダヤ人は躓きました。ユダヤ人は「どうして、この人の肉を食べたり、血を飲んだりすることができるのだろう。冗談じゃない」と考え、弟子たちさえも「一体、何をおっしゃっているのだろう。分からない」と思い、多くの弟子たちは、「もう、ついて行けない」と、イエスから離れて行ったのでした。
この前の日曜日の福音は、三位一体の主日の福音でした。
「神はこの世を愛し、わたしたち人間を愛し、ご自分の命に与るよう招いておられる。そのために愛する独り子、イエスをお遣わしになった。それはイエスを信じる者が、みな、永遠の命に至るためであった。」
そのような内容の福音でした。
今日は、その続きです。神様は、すべての人を、ご自分の「いのち」に招き、ご自分の幸せに与らせたいと望んでいます。
ただ、その神様のお気持ちを知り、そして、それを受け入れ、感謝しなければ、人は、神の「いのち」に与ることができません。神はこの神の愛を信じてもらうためにナザレのイエスという人を遣わし、人々に、神の国の福音を説き、更に、イエスがご自分の体を十字架につけられること、十字架の上で、御血を流すことさえ、拒まれませんでした。
弟子たちは、後になって、このイエスの言葉の意味を悟ります。今日、キリストの聖体の日です。ご聖体をわたしたちは信じ、ご聖体拝領をいたします。ご聖体は、ミサの中で、司祭によって聖別される。司祭の唱える聖体制定の言葉も、司祭は必ずこの言葉を唱え、みなさまは必ずその言葉を聞き、そして、その後、司祭が「信仰の神秘」と言います。

司祭ははっきりと、

「これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである。」

と言います。《イエスのからだ》、それは、あなたがた、つまり、わたしたちのために、十字架につけられる体です。

「皆、これを受けて飲みなさい。これは、わたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」

この言葉の中に、わたしたちの信仰の中心が凝縮されています。
イエスが十字架にかかり、そして、血を流されたのは、わたしたちの罪の赦しのためです。わたしたちは、罪の赦しをいただきます。罪の赦しをいただくわたしたちは、心からの感謝を献げましょう。

神様は、わたしたちをご自分の「いのち」に招く。しかし、わたしたちは、どんなに頑張っても、神様のみ心に適う、満足していただけるような人間になることができません。そのような自分でも、神様は、赦し、受け入れてくださっている。そして、わたしたちに聖霊を注ぎ、永遠の「いのち」を与えてくださっています。この信仰を確かめ深めてまいりましょう。

 

第一朗読  申命記 8:2-3、14b-16a
(モーセは民に言った。)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:16-17
(皆さん、)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:51-58
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

 

 

2020年6月13日 (土)

一切誓いを立ててはならない

613日 聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士

福音朗読  マタイによる福音書 5:33-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

「一切誓いを立ててはならない。」とはどういう意味だろうか。教会の中では「誓願式」という式が行われ、自分も、何度も司式したり立ち会ったりした。この習慣はイエスの教えに反しているのだろうか。誓願式とは違うが「叙階式」という重要な式をたびたび司式している。式の中で助祭・司祭・司教になる予定の者には「約束」をしてもらう。助祭に叙階されるものは生涯にわたって独身を守ることを神と会衆の前で約束してもらう。叙階式を行わなければ司祭が生まれない。司祭がいないと教会は重大な困難に直面する。結婚式の司式もしている。結婚式では「誓約」をしてもらう。

 

一切の誓願をしてはならないという意味か、それとも偽証してはならない、誓ったことは必ず実行し果たしなさい、という意味だろうか。実際、誓願を立てても全うできない人が出てくる。その場合の手当ても決まっていて、必要な手続きをすれば誓願は免除される。司祭叙階の場合の、種々の事情で司祭職を全うできない場合が出てくる。

今日の福音によれば、イエスの時代、人々は頻繁に、いろいろなものにかけて誓いを立てていた。「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「あなたの頭にかけて」という具合に。手軽に誓いをかけているので内容が空疎になっていたようだ。

そもそも私たちの生活は契約や約束で成り立っている。「誓い」など大げさなことをしなくとも、きちんと同意したことを実行しさえすればよいのである。自分の言葉に責任を持つ、ということで足りる。誓いを立てることがいかがわしい感じを与える。

 

第一朗読  列王記 上 19:19-21
(その日、エリヤは山を下り、)十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。

 

 

 

2020年6月11日 (木)

姦淫してはならない

612日、年間第十木曜日

 

一昨日、610日の福音朗読でイエスは言われた。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

この言葉は、十戒の第六戒「姦淫してはならない」(出エジプト記2014)の場合に特によくあてはめられる。実際に姦淫の行為に及ばなくとも、思いにおいて実行すれば、姦淫したことになるとイエスは言っている。

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このイエスの言葉は多くの青年(だけではなく多くの真面目男性を)を悩ました。この箇所を原文に忠実に訳すと「女を、その女を欲するために、見る」となる。「妻」とは限らない。女性一般を解することが可能である。

しかし、ここで自然な正常な性欲自体を禁止しているという意味ではない。姦淫しようとするはっきりとした意図をもって女性を見る場合を指していると考えられる。さらに次のように解釈する人もいる。

「他人の女房に目をつけて、何とかしてその女をわが物にしたいものだと渇望している輩は誰でも、心の中ですでに他人の女房を盗んでいるのだ。」(ケセン語新約聖書の著者山浦玄嗣の解釈)

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:27-32
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

第一朗読  列王記 上 19:9a11-16
(その日、エリヤは神の山ホレブに着き、)そこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」

 

 

 

聖バルナバ使徒

聖バルナバ使徒の記念日

2020年6月11日(火)、本郷教会

 今日は聖バルナバ使徒の記念日であります。

バルナバという使徒は、使徒パウロにとって非常に重要な役割を果たした人でありました。今日の使徒言行録によりますと、バルナバはアンティオキアというところで活躍し、アンティオキアからサウロ(のちのパウロ)をタルソスへ行って見つけて、アンティオキアに連れ帰ったとなっています。

サウロはアンティオキアの出身です。サウロが異邦人の使徒になれたのは、バルナバのおかげであると言っても良いのであります。

キリスト教徒を迫害していたサウロが、異邦人に福音を宣べ伝える使徒になることができたのは、バルナバがサウロを理解し、サウロを支持したからであります。

このアンティオキアというところで初めてキリスト者という名前が生まれたと今日の使徒言行録は伝えています。

そして、バルナバとサウロがアンティオキアから派遣されて、異邦人の世界へ福音を宣べ伝えるようになったのでありました。

 

ところで今日の福音の言葉についての一言を申し上げたい。それは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉であります。

何をただで受けて、何をただで与えるという意味なのでしょうか。

イエスから派遣された使徒たちは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という権能を授かりました。

イエス・キリストの行い、イエス・キリストが人々に伝えた恵みを、同じ恵みをあらわし伝えることができるようにされたのだと思います。

ですから、ただで受けたものというのは、主イエス・キリストから受けた賜物、権能のことではないかと思います。

さらに考えてみれば、わたしたちが受けているものはすべてどんなものでも、主なる神からいただいたものでありますので、それを神様の御心に従って活かさなければならない。神様のみ旨に従って、それを神の栄光のために活かさなければならないと思います。

 

ーーー

第一朗読  使徒言行録 11:21-11:26、12:1-12:3
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
アンティオキアでは、そこの教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみマナエン、サウロなど、預言者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。

福音朗読  マタイによる福音書 10:7-13
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」

 

2020年6月10日 (水)

旧約を完成するイエス

610日 年間第10水曜日

 福音朗読  マタイによる福音書 5:17-19
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

 今日の福音朗読でイエスは言われた。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

「律法や預言者」とは旧約聖書の教え全体を指すと思われる。イエスは旧約聖書の精神を展開させ純化し、預言として述べられていたことの意味を明らかにし、旧約聖書全体を完成するために来たのである。旅人の姿でエマオへの弟子に現れたイエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(ルカ2427)のだった。

64日 年間第9木曜日の説明で述べたように、旧約聖書には613の掟を数えることが出来るという説があるくらい掟の数は多い。しかしイエスはわたしたちに新しい掟を残したのである。それは「互いに愛し合いなさ。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ1334)という掟である。

使徒パウロもローマ書の中で言っています。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。(ローマ138-10)

 さて、旧約聖書には祭儀の執行に関する詳しい規則が定められているが(レビ記など参照)、新約の記念の祭儀ミサが定められたのに伴い、そのような規則は必要でなくなった。また福音が異邦人に広まるに際しユダヤ人にだけ定められていた食物禁忌の規則も廃止された。(使徒言行録10章参照)

―――

第一朗読  列王記 上 18:20-39
(その日、)アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。
エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

2020年6月 9日 (火)

「地の塩の箱」を知っていますか?

69日 年間第10火曜日

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:13-16
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

ーーー

昨日の福音朗読は

「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」

から始まる「幸い8か条」、それに加えて、

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」

という「幸い」一か条を入れて「幸い9か条」の福音であった。

「幸いである」は「祝福されている」という意味である。その同じ群衆に向かって、祝福されている人々に向かって、イエスは、昨日の続きの今日の福音で

「あなたがたは地の塩である。・・・世の光である。」と言われたのである。「あなた方は努力して地の塩になりなさい。」「世の光になりなさい。」と言われたのではなかった。この点に注目したい。イエスの周りに集まって人々は貧し人、病者、障がい者、社会で後回しにされ蔑まれていた人、細かい律法の規定を守っていない人(そもそも律法の詳細を学ぶ機会にも恵まれていない人)であった。そのような人に「あなたがたはそのままで、地の塩、世の光である」と言われたとしたら、それは実に驚くべきことであった。イエス自身「わたしは世の光である。」(ヨハネ812)。と言っている。そのイエスから祝福された人々はすでに「イエスが光である」によってイエスの光を受けていると言えないだろうか。人はイエスから祝福されて小さな光を灯すものであるという自覚をもつことができる。それは「あなたがたの光を人々の前に輝かす」ことであり、それは「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

それは善行を人々に見せて自分の名誉を得ることを目的として行うのではない。それは、結果として、人々に天の父の存在、父である神の慈しみを知らせることになるのである。

かつて50年以上前のこと、「地の塩の箱」というものがあったと思う。街頭に取り付けられて人日の寄付を呼び掛けていた。また誰でもそこから必要な金額を取り出すことができた。高度経済成長以前の貧しい敗戦後の東京の風景である。あの「地の塩の箱」はどうなったのであろうか。この世知辛い世の中で社会を善意という塩味で味付けする役割を担っていたと思う。

「地の塩の箱」は消えてしまったが、「地の塩の箱」のように、善意と親切を実行する人は決して少なくはない。キリスト者はそのような人々に負けないで「地の塩」であり続けたいものである。

 

第一朗読  列王記 上 17:7-16
(その日、エリヤがとどまっていたところの近くにある)川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

 

 

 

2020年6月 8日 (月)

霊にて貧しい者

68日 年間第10月曜日

 

有名な山上の説教である。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(5:3)

有名な箇所であり解釈が難しい箇所でもある。
原文を忠実に訳すと次のようになる。

「幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。」(田川建三訳)

フランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人々は幸いである。」と訳している。「心の貧しい人」という訳は、日本語では否定的な意味、「つまらないことしか考えられない」という意味にとられる。(『日本語大辞典』講談社より) 心は豊かでありたいと考える。「ああ、なんと幸いなことでしょう、心のへりくだっている人たち。」という訳もある。『聖書 現代訳』(尾山令仁訳)

原文に忠実な「霊にてまずしい者」が適切だと思われる。「霊」とは何か。神の霊を指すのか。神の霊とのかかわりにおいて弱く乏しく貧しい人のことを指すのだろう。神とのかかわりが弱い者を神は大事にしてくれる。自分をそのような者と自覚し、そのような自分を大切にする神の思いを知るならばその人たちは祝福されたものとなる。謙遜な者とは神の行為を信じ自分の力により頼まない者である。この意味で、第三の「幸いである」の「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と意味が通じるように思われる。貧しさ自体でなく、神とのかかわりの中での貧しさを言っているのではないだろうか。

ーー

第一朗読 列王記上 17:1-6
(その日、)ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。

福音朗読  マタイによる福音書 5:1-12
(そのとき、)イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 

 

 

 

 

2020年6月 7日 (日)

房総半島の山奥で(三位一体の主日説教修正短縮版)

三位一体の主日ミサ説教

202067()、本郷教会

聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日となっています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように」。

この言葉は第二朗読の中にあるパウロの言葉でありまして、ミサの開祭のときに司祭が唱える招きの言葉となっています。

ミサの開祭のときに、わたくしたちは「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰を告白しているのであります。

今日のヨハネによる福音の三章ですが、非常に良く知られている箇所であります。

イエスとニコデモとの対話の続きの箇所で、キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

わたくしの個人的な思い出ですが、第二次世界大戦の敗戦直後、アジア太平洋戦争の終わったすぐ後の頃だと思いますが、故郷の房総半島の山奥で福音宣教のラジオの番組が放送されておりました。

「ルーテルアワー」という名前の番組でありまして、その放送の時に繰り返し伝えられていた福音者の言葉、聖句が今日の福音の言葉であります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この言葉が繰り返し告げられていたのであります。

第一朗読におきましては、シナイ山でモーセにあらわれた神がご自分のことを啓示して言われました。

モーセにあらわれた神はいつくしみ深い神である。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者。」であると主なる神はご自身を啓示されました。

フランシスコ教皇が、即位されてまもなく『いつくしみの特別聖年』を制定されたことは、まだわたくしたちの記憶に新しいところです。

神のいつくしみは、御独り子イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの派遣、その生涯によって完全にあらわされたのであります。

御父は、独り子主イエスを世にお遣わしになり、わたくしたちと同じ人間とされ、御子が十字架に架けられるという苦しみを耐え忍ばれました。

それは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて永遠のいのちに至るためであります。

わたくしたちキリスト教信者の使命は、洗礼を受け堅信の秘跡を受けました時に告げられておりますが、「父と子と聖霊」の神さまへの信仰を、自分の言葉で自分の生活であらわし伝えていくということであります。

それは福音宣教、福音化という言葉であらわすことが出来るでしょう。

わたくしたちは、自分が信じていることを自分の言葉で言いあらわし、自分の生活の中で実行しなければなりません。

言葉と実行が一致しない人の言葉は力がなく、信じてもらうのは難しいと思います。

信じている「神の愛」を生活の中で実行するならば、多くの人はそこに本当に「神の愛」があることを信じ、そして自分も信じてみたいと考えるようになるかと思います。

聖霊の恵みを祈り求め、わたくしたちは生活の中で「神の愛」を生きることができますように祈りましょう。

 

第一朗読  出エジプト記 34:4b-68-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。


主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである

 

 

 

 

 

 

2020年6月 6日 (土)

三位一体の神

6月7日 三位一体の主日

 聖霊降臨の次の主日が、今日、三位一体の主日です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
いま、読まれました、第二朗読の中にある、このパウロの言葉が、わたしたちのミサの開祭のときに、司祭が唱える招きの言葉となっており、この開祭の招きの言葉がそのまま、わたしたちの、「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰告白となっています。

本日の福音朗読、ヨハネ福音の3章はヨハネの福音の中でも、よく知られている箇所です。イエスとニコデモとの対話の延長の中で、イエス・キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

個人的な思いでとなりますが、第二次大戦の敗戦直後のこと、故郷の房総半島の山奥でも、「ルーテルアワー」という福音宣教のラジオ番組が放送されておりました。その放送で毎回繰り返し伝えられていた聖句が

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

であったと記憶しています。福音のエッセンスを繰り返し伝えていたわけで、それなりのインパクトがありました。

第一朗読で述べられていますように、モーセにあらわれた神、父である神、イスラエルの神は、いつくしみ深い神です。
フランシスコ教皇が『いつくしみの特別聖年』を制定されたことはまだ記憶に新しいところです。神のいつくしみは、御独り子、イエス・キリストの派遣、その生涯によって、完全にあらわされました。

御父は、独り子、主イエスを世にお遣わしになり、そして、わたしたちと同じ人間とされ、御子が十字架に架けられる苦しみを耐え忍ばれました。

神が独り子をお遣わしになったのは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて、永遠のいのちに至るためです。
御子、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに移され、そして、神のいのち、救いにあずかる者とされます。ここに、わたしたちの信仰告白の中心がある、と思います。この信仰を宣べ伝え証しするためにわたしたちは信者となりました。そこで今日は改めて、今日ご一緒に三位一体の信仰について考えてみましょう。
わたしたちは、何を信じているのか。どのように信じているのか。わたしたちの信仰を、自分の言葉と自分の生活であらわし、伝えなければなりません。自分の心で受け止めた、神の言葉。それを、自分の言葉で、人々に分かる言葉であらわし、伝えなければならないと思います。

わたしたちは、信仰講座、入門講座などに出席し、入信の秘跡を受ける準備をして、洗礼を受けました。その際、いろいろな言葉で信仰の説明を受けたと思います。そのわたしたちの受けた信仰を説明する言葉を、更に、自分の心の中で咀嚼し、自分の血肉とし、そして、自分の言葉で、人々に伝えなければならない、と思います。

福音宣教ということは、司祭や奉献生活者だけの任務ではなくて、洗礼を受け、堅信を受けた人、全員の務めですので、自分であれば、このような言葉で自分の信仰をあらわし、伝えるということを、考え、用意していただきたい。
信仰をあらわし、伝えるということは、まず言葉により行われますが、行いによって、自分の信仰をあらわすのでなければなりません。

わたしたちの信仰の中心には、「神は愛である。」という信仰告白があります。この信仰はわたしたちの心に注がれている聖霊の働きによります。(ローマ5・5参照)、神の愛を信じているわたしたちが、自分の生活の中で、神の愛をあらわし、実行しなければ、神の愛が人々に伝わっていくことは難しいでしょう。

言葉と行いが一致しない人の信仰を、人々は、なかなか認めてくれないのではないかと思います。

これと関係して最近知った驚くべき事実、子どもについての、わたくしの心に訴えている事実に触れたいと思います。それは日本の子どもたちは、「自分に価値がある」という思いを持つことが少ないという報告です。自分を肯定する気持ちが弱い。「自分は大切な存在だ」、「自分は必要とされている」、「自分は人のために役に立つ人間だ」などという思いを、なかなか持つことができない子どもが増えている、というように報告されています。

神の愛、それは、すべての人に注がれる愛であり、「どのような人も、あなたは大切な存在であり、あなたは必要とされる存在なのですよ」ということをあらわし、伝えています。

わたしたちが、本当に信じている神の愛を、毎日の生活の中で実行するならば、一人ひとりの人が、価値のある、かけがえのない存在であるということを、言葉と行いであらわし、伝えていくならば、多くの人は、わたしたちの生き方を認め、そして、わたしたちと一緒に歩んでいただけるようになるのではないでしょうか。
そのように、言葉と行いにおいて、神の愛、イエス・キリストの教えを実行することこそ、日本の福音宣教、福音化の務めであると、わたくしは思うのです。皆さんは、「あなたの福音宣教は、どのようにすることなのか」という問いへの答えを子と具体的に考えていただきたいと思います。

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第一朗読  出エジプト記 34:4b-6、8-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

 第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 

 

2020年6月 5日 (金)

献金とは何か

66日 年間第9土曜日

 

今日の福音朗読は非常に対照的な二つの生き方を示しています。それは律法学者の生き方と貧しやもめの生き方です。

律法学者の日ごろの態度は虚栄と偽善の現れです。これ見よがしに自分の存在を誇示し、自分の偉大さを見せつけています。目立つ「長い衣」をまとい、広場で挨拶されることを望み、会堂では上席、宴会では上座に座ることを常とする。見せかけの長い祈りをささげて自己の敬虔さをアッピールする。そればかりではなく、「やもめの家を食い物にする。」これは具体的に何をすることだったのでしょうか。

おりしも今日の福音朗読の後半は貧しいやもめの話です。

やもめは、イスラエルの社会では、孤児、寄留の外国人とならんで社会的弱者の代表でした。今日もそうですが貧しい人程よく献金します。このやもめは生活費のすべてを賽銭箱に入れたのでした。

何もそこまでもしなくともよいのに、とわたしたちの常識は考えますが、彼女は持てるすべてを神にささげたのでした。これは受難に向かうイエスの生き方そのものを表しています。

かつて小教区で働いていた時、もう一人の司祭と「福音的な献金」について猛烈な議論をしたことがあります。牧者は献金についてどのように語るべきでしょうか。非常に微妙な問題です。今一度、教会の財政の在り方について皆で一緒に考えてみる必要があると思います。生活費のすべてを献金してもらうことは極端としても、献金とはそもそもなんであるのか。頂いた献金はどのように支出されるべきなのか。非常に大切な問題です。

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第一朗読  テモテへの手紙 二 4:1-8
(愛する者よ、)神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 12:38-44
(そのとき、)イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

 

 

 

二人の「主」

65日 聖ボニファチオ司教殉教者

福音朗読  マルコによる福音書 12:35-37
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。
『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

 

今日の福音の論争点は

「メシアはダビデの子であるのかどうか」

という点です。

イエスの時代、詩編の作者はダビデ王であると信じられていました。ですからこの詩編110はダビデが聖霊を受けて言ったこととされています。ダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいるのですから、メシアはダビデの子ではありえない、とイエスは言っているのです。むしろメシアはダビデよりも偉大な存在、ダビデの主であるとされます。

今日のマルコの福音に引用されている詩編は詩編110の『主は、わたしの主にお告げになった。」という節で「主」が二回出てきますが、それぞれの主は誰を指すのでしょうか。一見分かりにくいです。ある翻訳によればその点が明確にされています。(『聖書 現代訳』羊群社 発売、尾山令仁訳)

 主である神は、わたしの主である救い主に仰せられる。

 「わたしがあなたの敵を完全に征服してしまうまでは、

  わたしの王座に着いていなさい。」

 (詩編1101)

この翻訳によれば、「主は、わたしの主にお告げになった。」の「主は」は「主である神、モーセに現れた主なる神」であります。「わたしの主」の主は神から派遣さえる救い主=メシアを指しています。

イエスは明確にこの解釈をしています。そして自分自身を「救い主=メシア」に擬しています。あるいは、ここで言われている「主」は自分のことであると言っていると思われます。この主張は聖書の専門家である律法学者には受け入れ難いことでした。ここにもイエスと律法学者の間の確執の原因が胚胎しています。最も「メシア」とはだれか、どんな使命を受けている人であるのか、についての理解が大切であり、イエスの理解と民衆の理解の間には大きな隔たりがあったことが次第に明らかになります。

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第一朗読  テモテへの手紙 二 3:10-17
(愛する者よ、)あなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 

 

 

2020年6月 4日 (木)

613の掟のなかで・・・

6月4日 年間第9木曜日

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 「あらゆる掟」と言いますが、旧約聖書にはいくつの掟が定められているでしょうか。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、613の掟が数えられるそうです。伝統によれば、これら613の戒律のうち、248は「積極的戒律」で行動を促す命令、365は「消極的戒律」で行動を慎む命令です。365は一の日数に対応し、248は古代ヘブライ人が人体の骨と重要な器官の数であると信じられています。

イエスはわたしたちに新しい掟を残しました。「互いに愛し合いなさ。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13・34)

ヨハネの手紙も「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(ヨハネ一4・20)と言っています。

使徒パウロもローマ書の中で言っています。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。(ローマ13・8-10)

 神を愛するとは神のお望みを行うことであり、神の望まないことを行わないことであり、それは隣人愛を通して実現されます。神を愛しているのに隣人を蔑ろにするならば、神を愛しているとは言えないのです。

 第一朗読  テモテへの手紙 二 2:8-15
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」
これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。

福音朗読  マルコによる福音書 12:28b-34
(そのとき、一人の律法学者が進み出、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

2020年6月 3日 (水)

復活の世界

63日 聖カロロ・ルワンガと同志殉教者、年間第九水曜日

 子どもに恵まれないうちに夫に死なれた妻は夫の兄弟を夫にして子孫を残すことになっていた。所謂レビレート婚である。(申命記155-10)

復活を信じないサドカイ派の人々は極端なナレビレート婚の場合を挙げてイエスを陥れようとした。それに対するイエスの答えは、

「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

復活の世界では「めとることも嫁ぐこともない」ということは分かる。しかし神がモーセに、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』であると言われたということが、どうして復活を肯定することになるのか、俄かには分かりにくい。イエスは言われた。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

アブラハム、イサク、ヤコブは死んでしまってもう過去の存在であり無に帰しているのなら彼らの名前を呼びことは意味がない。アブラハム、イサク、ヤコブは神のもとに居るのであるから神は『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と言っているのである。アブラハム、イサク、ヤコブは神のもとで生きているのである。それが復活を証明している。…そういう意味だろうと思われる。

死者と生者の交わりは「聖徒の交わり」と呼ばれる美しい信仰の現われである。

 第一朗読  テモテへの手紙 二 1:1-36-12
キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。
わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

 福音朗読  マルコによる福音書 12:18-27
(そのとき、)復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 

 

2020年6月 1日 (月)

新しい天と新しい地

62日、年間第九火曜日

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

神は地上の現実の在り方について人間それぞれに、自由な判断と実行の可能性を与えている。政治共同体の責任者は与えられている範囲での責任を果たすことが期待されている。皇帝には皇帝としての義務と責任が与えられている。皇帝は自分の良心に照らして自分の責務を遂行しなければならない。皇帝が如何に判断し行うべきかについて、その良心に呼びかけるのは神からの声である。皇帝は決して、恣意的あるいは利己的に統治してよい訳ではない。

「政教分離」とはそのように解すべきである。

 

「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」

上記福音朗読個所と「政教分離」原則がいかなる関係にあるのか、にわかに判断できないが、「天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去る」時が来るとペトロの手紙が告げている。一切の被造物は灰燼に帰し破壊される。すべてはご破算になるという意味か。そのあと「義の宿る新しい天と新しい地」が出現するのである。この世界と被造物は絶えず不完全な状態にあり、あるいは不正と不調和の支配する状況に置かれている。しかし、最後の時、終末になれば、一切は一新されて、問題は解決し、「新しい天と新しい地」が登場するのである。

この信仰と希望をもって日々忍耐し励まし合うではないか。

 

第一朗読  ペトロの手紙 二 3:12-15a17-18
(愛する皆さん、)神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

福音朗読  マルコによる福音書 12:13-17
(そのとき、)人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 

 

 

 

 

 

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