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2020年6月16日 (火)

右の手のすることを左の手に知らせてはならない

2020617日、年間第十一水曜日のミサ福音朗読より

 

「山上の説教」を読んできました。

昨日の説教は、「敵を愛しない」という教えでありました。

イエスは自分の教えたことを、自分で実行しました。

今日の説教は、偽善者に向けて行われています。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と今日の福音は言っています。この教えは今の日本に住む我々にも分かりやすく受け入れやすい常識的な教えではないでしょうか。

しかしイエスは今日の福音で自分の善行を見せびらかす人々を激しく批判しています。非常に痛烈な批判を偽善者に向けてしているのであります。

偽善者というと福音書においては、ファリサイ人、律法学者が代表者です。

人の前に良い人であると装いながら、心の中は醜い名誉欲、放縦、自分のことをほかの人よりも大切にする心でいっぱいである、そのようにイエスは批判しました。

当時の人々の考えで、良い行いの代表は、施し、祈り、断食でありました。

施しをする時には、人から褒められるような態度でしてはならない。                                                                                     

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」と言われました。

また祈る時は、これ見よがしに私はどんな敬虔な人であるかということを見せたがるような祈りは、してはならないと言われました。

断食ということについても、いかにも人々にそれとわかるような断食の仕方をしないで、分からないように、頭に油をつけ顔を洗いなさい、と言われたのであります。

イエス・キリストとはどんな人であるかということを、わたしたちは毎日祈り求めています。

イエスは弱い人、病む人、迷う人に大変優しく、そして寛容でありました。

しかし自らを以って権威者とし、真理を保有していると自負する律法学者、ファリサイ派の人に対しては、非常に批判的な態度をとったのであります。

イエスはなぜ、どのようにして磔刑に架けられたのか?

律法学者、ファリサイ派の人々が画策してイエスを十字架に追い詰めました。そうならないように、もっと穏やかに妥協的に対処する選択肢もあったのに、イエスは断固とした態度を当時のユダヤ教の指導者たち(祭司たちも含めて)に対してとったのであります。

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福音朗読  マタイによる福音書 6:1-616-18
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 

 

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コメント

しかし、日常における私たちの立場はファリサイ派の人間たちと少しも変わる事がありません。イエスの立場をとることができるのは、たとえ、司祭であっても典礼のときのみに限られているのではないでしょうか?気を付けたいです。

「人の前によい人であると装いながら、自分の事をほかの人よりも大切にする心がいっぱい」
まさに自分のことを言われているようで心に刺さります。

おかげさまで、人からはよい人だと思っていただいたり、感謝されたり、既にこの世の報いはたくさん受けているように思いますが、そういう自分であることは自分はよく知っています。

当時の人々にとっての善い行いとは、施し、祈り、断食が代表であった。ファリサイ派の人や律法学者はこれらの善い行いをして認められ、褒められようとした。マタイの福音書で、イエスは弟子たちに、こういった偽善者であってはならない、と厳しくそして丁寧に説いている。他人に気づかれないように、誰にも知られないように善い行いをしなさい、隠れたことを見ていて下さる神が報いてくださる、と語る。ここでもイエスの神への信頼が語られている。 この教えは社会の状況は変わっても信仰として大切に守っていきたい考えだと思いました。


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