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2020年6月11日 (木)

姦淫してはならない

612日、年間第十木曜日

 

一昨日、610日の福音朗読でイエスは言われた。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

この言葉は、十戒の第六戒「姦淫してはならない」(出エジプト記2014)の場合に特によくあてはめられる。実際に姦淫の行為に及ばなくとも、思いにおいて実行すれば、姦淫したことになるとイエスは言っている。

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このイエスの言葉は多くの青年(だけではなく多くの真面目男性を)を悩ました。この箇所を原文に忠実に訳すと「女を、その女を欲するために、見る」となる。「妻」とは限らない。女性一般を解することが可能である。

しかし、ここで自然な正常な性欲自体を禁止しているという意味ではない。姦淫しようとするはっきりとした意図をもって女性を見る場合を指していると考えられる。さらに次のように解釈する人もいる。

「他人の女房に目をつけて、何とかしてその女をわが物にしたいものだと渇望している輩は誰でも、心の中ですでに他人の女房を盗んでいるのだ。」(ケセン語新約聖書の著者山浦玄嗣の解釈)

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:27-32
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

第一朗読  列王記 上 19:9a11-16
(その日、エリヤは神の山ホレブに着き、)そこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」

 

 

 

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コメント

姦淫してはならない。この戒律に関してはイエスの教えはとても厳しいことが分かります。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、と語っているが、これは、姦淫しようとするはっきりした意図をもって女性を見る場合を指しているものと考えることができる。それにしてもこの戒律が旧約聖書の時代から今日に至るまで人々にどんなに大きな影響を与えているか、またそこから文学や絵画などの芸術も生まれていることにも気づきます。
列王記のなかで、エリアには嵐や地震の後も主が現われなかったが、火がおこって、そのあと、静かな囁き声がしてやっと神の声を聞くことができた、と記されている場面を想像し預言者エリアを想いました。

洞穴の中で夜を過ごすエリヤの前を主が通り過ぎて行かれた。
非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こったが、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

主の声は、このように激しさの後に静かにささやくように聞こえるのであれば、よく耳を澄ましていないといけないと思いました。

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