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2020年6月 8日 (月)

霊にて貧しい者

68日 年間第10月曜日

 

有名な山上の説教である。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(5:3)

有名な箇所であり解釈が難しい箇所でもある。
原文を忠実に訳すと次のようになる。

「幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。」(田川建三訳)

フランシスコ会訳は「自分の貧しさを知る人々は幸いである。」と訳している。「心の貧しい人」という訳は、日本語では否定的な意味、「つまらないことしか考えられない」という意味にとられる。(『日本語大辞典』講談社より) 心は豊かでありたいと考える。「ああ、なんと幸いなことでしょう、心のへりくだっている人たち。」という訳もある。『聖書 現代訳』(尾山令仁訳)

原文に忠実な「霊にてまずしい者」が適切だと思われる。「霊」とは何か。神の霊を指すのか。神の霊とのかかわりにおいて弱く乏しく貧しい人のことを指すのだろう。神とのかかわりが弱い者を神は大事にしてくれる。自分をそのような者と自覚し、そのような自分を大切にする神の思いを知るならばその人たちは祝福されたものとなる。謙遜な者とは神の行為を信じ自分の力により頼まない者である。この意味で、第三の「幸いである」の「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と意味が通じるように思われる。貧しさ自体でなく、神とのかかわりの中での貧しさを言っているのではないだろうか。

ーー

第一朗読 列王記上 17:1-6
(その日、)ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。

福音朗読  マタイによる福音書 5:1-12
(そのとき、)イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

イエスの山上の説教の、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」 の、心の貧しい人とは、霊とのかかわりにおいて弱く貧しい人であり、神とのかかわりが弱い者を神は大事にしてくださる、そして、そのような神の思いを知るならその人々は祝福された者になる、と解釈できるとお話いただき、希望が湧く気がいたします。ふと、昔教科書で学んだ、歎異抄の中のことば「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 という言葉が浮かびました。難解だったという記憶だけですけど。
列王記で、エリアは、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる・・・・」 と語り、神とのやり取りが生き生き描かれているのが印象に残ります。 

「霊にて貧しい者とは神の霊とのかかわりにおいて弱く乏しく貧しい人。神とのかかわりが弱い者を神は大事にしてくれる」

「大事にして下さる」という言葉は、評価するのとは違う、あたたかい手のぬくもりを感じます。ありがたいことです。

「謙遜な者とは神の行為を信じ、自分の力により頼まない者」
自分の力の足りなさ、弱さを自分が誰より知っていながら、それでも自分の力で精一杯やってきたような気がします。
それはそれで、立派な事かもしれないが、「幸い」とはそれとはどこか違うところにあるのかもしれない、と思いました。

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