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2020年6月 5日 (金)

献金とは何か

66日 年間第9土曜日

 

今日の福音朗読は非常に対照的な二つの生き方を示しています。それは律法学者の生き方と貧しやもめの生き方です。

律法学者の日ごろの態度は虚栄と偽善の現れです。これ見よがしに自分の存在を誇示し、自分の偉大さを見せつけています。目立つ「長い衣」をまとい、広場で挨拶されることを望み、会堂では上席、宴会では上座に座ることを常とする。見せかけの長い祈りをささげて自己の敬虔さをアッピールする。そればかりではなく、「やもめの家を食い物にする。」これは具体的に何をすることだったのでしょうか。

おりしも今日の福音朗読の後半は貧しいやもめの話です。

やもめは、イスラエルの社会では、孤児、寄留の外国人とならんで社会的弱者の代表でした。今日もそうですが貧しい人程よく献金します。このやもめは生活費のすべてを賽銭箱に入れたのでした。

何もそこまでもしなくともよいのに、とわたしたちの常識は考えますが、彼女は持てるすべてを神にささげたのでした。これは受難に向かうイエスの生き方そのものを表しています。

かつて小教区で働いていた時、もう一人の司祭と「福音的な献金」について猛烈な議論をしたことがあります。牧者は献金についてどのように語るべきでしょうか。非常に微妙な問題です。今一度、教会の財政の在り方について皆で一緒に考えてみる必要があると思います。生活費のすべてを献金してもらうことは極端としても、献金とはそもそもなんであるのか。頂いた献金はどのように支出されるべきなのか。非常に大切な問題です。

―――

第一朗読  テモテへの手紙 二 4:1-8
(愛する者よ、)神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 12:38-44
(そのとき、)イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

「乏しい中から自分の持っている者をすべて」という箇所が心に響きました。
お金のことだけではなく、受け取れました。

貧しいやもめの話は象徴的で、全てをささげたイエスに通じる生き方をあらわすもの。わたしにはまだよく分からないところもありますが、献金は信仰による恵みに対する感謝をあらわすものだと思いました。また教会の運営には大切なものである・・。いろいろお教えいただきました。
テモテへの手紙では、パウロは「・・私自身はすでにいけにえとしてささげられています・・・信仰を守り抜きました。今や、義の栄光を待つばかりです。今や、義の栄冠を受けるばかりです・・・」 と語っているのに心を打たれます。

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