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2020年6月23日 (火)

狭き門

2020623日、年間第12火曜日

福音朗読  マタイによる福音書 7:612-14
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

――

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

有名なアンドレ・ジッドの小説『狭き門』の主題となる聖句はここからとられています。2017108日はカテドラルで子どものミサが献げられたが、「狭い戸口」の出てくる平行箇所、ルカ1322-30 が福音朗読の箇所として選ばれていました。)

「狭い門から入りなさい。―――」

というこのイエスは何を言っているのでしょうか。『狭き門』のヒロイン、アリサは、地上の人間の愛を犠牲にし断念することを説いていると受け取ったようです。彼女はジェロームへの愛を断念するめに苦しみ、悲劇的な最後を遂げます。しかし、果たしてこの箇所はそのような生き方を求めているのでしょか。

今日の福音はこの聖句の直前に

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

と述べています。これは掟の中の黄金律と呼ばれており、山上の説教のまとめであるとも考えられます。「狭い門」から入るとは、この黄金律を守ることである、とも考えられます。

ところで人はこの黄金律を守り切ることができるでしょか。誠実に反省すれば、誰でもそれは無理であると考えざるを得ません。ではどうするのか。罪の赦しを願って主イエス・キリストに自分の至らなさを告白して赦しを父である神に取り次いでいただくしかないと思います。イエス・キリストは「道、真理、命」ですから。(ヨハネ146参照)

自力で門を通ろうとすればそこは狭い門ですが、道であるイエス・キリストに依り頼むならば、通りやすい関所となるのではないでしょか。

 

 

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コメント

「自力で門を通ろうとすればそこは狭い門だが、道であるイエス・キリストに依り頼むならば通りやすい関所となる」。特に「自力で通ろうとするならば」というところが心に残りました。

また人との関係においては「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」というのが、掟の中の黄金律だとありました。

人にしてもらいたいことばかり要求している自分を反省しますが、同時に「自分はなんでも自分一人の力でやります」というのもよいことではないのだと思いました。
「人にこれをしてもらいたい」と思うことがなければ、同じように人にしてあげようという気持ちもうまれないからです。

人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。狭い門から入るとは、この黄金律を守ることであり、命に通じる門。しかしその道は細く、それを見いだすものは者は少ない。
「自分の至らなさを告白して赦しを父である神に取り次いでいただくしかない」 というのは大切おことば。 昔読んだような気がする「狭き門」ですが、ジェローム、アリサという名前がかすかに想いだされるだけです。キリストの教えが分かっていたらもっと深く読むことができ、心に残ったと思うのですが。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」の聖句は黄金律とされているとのこと。
黄金律と言えば、何においても均衡のとれた美しい世界を意味するととらえますが、
さらに、この言葉から連想するのは「私が愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。というみ言葉です。
子どもの頃は、人から意地悪を受けても、その人には優しく親切にしたいと思っていましたが、大人になるにつれ、とてもそれは難しいことになっていきました。恨みつらみは心のしこりになり、凝り固まっていきます。
いつまでもそういう心の状態でいてはいけないと思い必死に祈る自分がいます。

「狭き門」で連想するのは、茶道の躙り口と呼ばれる部屋に入る小さな入り口を思い出します。躙り口に至る踏み石は十字になっている茶室もあるそうです。
思うに、狭き門とはいえ、その先にある世界は、実に静謐な喜びに満ちた美しい広い世界が広がっていることが想像されます。
辛く困難で理不尽なこの世界にあって、狭き門を潜り抜ければ、秩序と永遠に滅びることのない美しい世界へといざなわれていくことを伝えているのではないでしょうか。

そういう世界があるなら、イエスの道に従い、伴われて、何としてもこの十字架を乗り越えていきたいと願うのです。
イエスは、誰でもイエスに従うなら導いていってくださると信じています。

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