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2020年6月20日 (土)

十二歳のイエスの出来事

2020620日、マリアのみ心の記念日

今日の福音朗読は、ルカだけが伝える12歳の少年イエスの物語です。12歳と言えば当時のユダヤに社会では成人とみとめられていたようです。

大人として認められる年齢に達してイエスが何故両親に断りなく単独行動を取ったのだろうか。一言断れば済むことであるのに。当然、その軽率な行動を母マリアは咎めて言っている。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

母としてあってしかるべき注意の言葉である。それに対するイエスの応答が常識から外れている。普通はまず謝罪の言葉がある筈だ。その後で事情の説明ないし弁解があってしかるべきだ。学者との議論に夢中になって両親のことを失念してしまったのかもしれない。しかしイエスの言葉は意外な返事であった。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

どういう意味だろうか。両親には理解できなかった。しかし、マリアはこのイエスの言葉を心に治め、何度も思いめぐらしたことだろう。ヨセフの方はどうだったろうか。養父である自分の前で自分の真の父は神殿に住む神であると言われたとしたら、それをどんな気持ちで聞いたのだろうか。

イエスはこの後両親に、従順に過ごして、何事もなく平凡無事な日々を送ったらしい。イエスが宣教活動を開始するまでこのときからおよそ20年を要している。12歳のイエスが初めて自分の使命を自覚し、その準備のために20年を費やしたということだろうか。

 

第一朗読  イザヤ書 61:9-11
彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

福音朗読  ルカによる福音書 2:41-51
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 

 

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コメント

日本でも12歳ごろには元服の宗教的な儀式が行われたのを思い出しました。12歳のイエスは成人として自分だけに与えられた使命を意識していて、神殿に住む神が自分の父であると自然に思っていたのかもしれない。それからの20年間は、イエス、マリア、ヨセフにとってどのようなものだったのか。「・・・・母はこれらのことをすべて心に納めていた」、と記されている福音書のことばが胸に沁みます。
イザヤ書では、イスラエルの民が神の祝福を受け、あらゆる言葉で神を讃えていて、喜こびが伝わってきます。

聖母のみ心は「聖霊のふさわしい住まい」とされた。わたしたちも「聖霊の神殿」となることができますように。という集会祈願の表現が心に残りました。

マリアの「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という言葉は、心配で心配で捜し回っていた我が子をやっとみつけ、「よかった!」と涙が出るほど安堵したとたんに口から出る、本当にお母さんらしい言葉だと思いました。
その時のイエスの言葉を聞き、言葉の意味はわからず、戸惑いながらも、我が子が自分の子でありながら自分の子ではない、全く違う世界の使命のために生まれてきた子であることをどこかで感じ取り、予感しながら心に納めていらしたのだと思いました。
それから20年後、十字架のもとでイエスの最後のことばを受け止めることになるマリアの覚悟がここに始まったのかなと思いました。

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