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2020年6月17日 (水)

主の祈り

618日 年間第11木曜日、「主の祈り」

福音朗読  マタイによる福音書 6:7-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

ーーー

有名な主の祈り、毎日唱えている。

前半は、わたしたちを通して神のみ旨が行われますようにと祈る。

後半は、自分たちの身に実現してほしい切なる願いをささげる。その願いの中に「わたしたちの負い目を赦してください。」とある。「負い目」という言葉は日本語としてわかりやすい。「負い目」は普通「罪」とされている。「罪」は現代の日本人には馴染みにくい。「負い目」で説明して後から「罪」という言葉を使うほうがいい。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」誰でも人に負い目がある。これを否定する人は少ない。問題は「赦します」か「赦しましたように」か、である。

原文の解釈には二説あり、どちらも可能であるらしい。自分が赦さないで自分だけ赦してもらう訳にはいかないだろう。人を赦して初めて神の赦しを受ける心の準備ができる。赦さない人は神からの赦しを受けられないと考えるほうがいいだろう。

もう一つの問題。「誘惑」か「試練」か。ギリシャ語原文から両方の訳が可能。

誘惑はどこから来るか。神からは来ない。試練なら神から来る。

ーーー

第一朗読  シラ書 48:1-14
火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明のように燃えていた。彼は人々に飢饉をもたらし、その熱意をもって人々の数を減らした。彼は主の言葉によって天を閉ざし、三度、火を降らせた。エリヤよ、あなたはその驚くべき業のゆえに、どれほどほめたたえられたことだろうか。あなたと等しく誇りうる者があろうか。あなたはいと高き方の言葉によって死者を死から、陰府から立ち上がらせた。あなたは王たちを破滅に導き、名士たちを安眠の床から引きずり降ろした。あなたはシナイ山で非難の言葉を聞き、また、ホレブの山で裁きの宣告を聞いて、王たちに油を注いで報復させ、預言者たちに油を注いで後継者とした。あなたは火の旋風に包まれ、火の馬の引く車に乗せられ天に上げられた。あなたは、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。確かに、わたしたちも生きるであろう。
エリヤが旋風の中に姿を隠したとき、エリシャはエリヤの霊に満たされた。彼は生涯、どんな支配者にも動ずることなく、だれからも力で抑えつけられることはなかった。彼にとって手に余ることは何もなく、死後もその体は預言の力を失わなかった。彼は生きている間、不思議な業を行い、死後もなお驚くべき業を行った。

 

 

 

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コメント

イエスは弟子たちに、「あなたがたが祈る時は・・・・くどくど述べてはならない、あなたのがたの父は願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ」、と言われた。初めて有名な 「主の祈り」 の全文をお教えいただきました。 後半は誰にとっても切実な赦しを願う祈り。 シラ書では、エリヤはその驚くべき業のゆえに、どれほど誉めたたえられたか、そして、それらの業は主のことばによるものだったことが語られている。エリヤの後継者だったらしいエリシャは非の打ちどころのない預言者として語られていて、その記述には著者の強い思いが込められていると思いました。

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも、自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。自分が今までに、人を赦した経験がどれぐらいあったか、思い出してみましたが、あまり思いつきませんでした。一方、赦してもらったことはたくさん思い出されました。いかに自分が、人に赦して頂きながら生きて来たかを知りました。

誘惑は神からは来ない、試練なら神から来る、という言葉も心に残りました。
ヨブ記をもう一度読み返してみたいと思いました。ヨブは試練にあったことで、神さまを否定する誘惑にあったのではないかと思いました。

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