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2020年6月16日 (火)

敵を愛せるか?

敵を愛しなさい—―2020616日、年間第11火曜日

 

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

有名な教えである。キリスト教徒でない人でもイエスが「敵を愛しなさい」と命じたことを知っている。

「愛しなさい」の「愛」はアガペーである。アガペーはキリシタン時代には「ご大切」と訳したと聞く。現代の「愛する」という言葉は多義的で曖昧である。「愛する」は「好きになる」という意味ではない。相手に人間にとしての価値、尊厳を認め尊重し大切にすることである。相手のためになる事を行い、相手のために善を願って祈ることである。なぜなら「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」イエスは自分を迫害するもののために祈り、救いのために十字架に架けられた。自分を憎んでいる敵であっても同じ人間であり、神の似姿であり、同じ父である神の子である兄弟姉妹である。

ところで、この教え、弱く自己中心な人間であるわたしたちに実行可能だろうか。この教えは、神の国が完成した時のあるべき姿を述べているのであって、「神の国」では当然かもしれないが、現在の地上では実現困難ではないかという意見もある。しかし、困難であってもこの目標を撤回することはできないし、この旗印を引っ込める訳にはいかない。完全には実行できないから、この教えは間違っている、とは到底言えない。実行できなから、もう従わなくてもいいと、いうことも言えない。
わたしたちに生活と社会の中には、そのような緊張関係がいつもある。

聖ヨハネパウロ二世は紀元二千年という大聖年を迎えるに際し、書簡を発表し(『紀元2000年の到来』)、2000年という人類の歴史の大きな節目を迎えるにあたって、教会として反省すべきことがあるのだということを述べた。その中に、「教会の子ら」が暴力を使用した、ということを言っている。真理への奉仕に際し、暴力を使用したこと、暴力を使用することを黙認したことを、大いなる反省事項として挙げている。教会の教える正しい教えに反対する人、あるいは従わない人は、暴力を以って処罰してもよい、という考えが支配的であった時代があったことも否めない。

 

それはイエスの言葉に反することは明白ですが、当時の教会はそのようには考えなかったようであります。

 

福音朗読  マタイによる福音書 5:43-48
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

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コメント

「愛する」とは、相手に人間としての価値、尊厳を認め尊重し大切にすること。相手のためになることを行い、相手のために善を願って祈ること。 敵を愛しなさい、というこの教えは、どんなに実行が困難であっても守らなければならないキリストの教えである。
「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれる」は、心に沁みることばです。
過去から今日に至るまで自分は多くの人にどんな思いで出会ってきたか、どんな振る舞いをしてきたか。 拝読しながらこれまでのことを思い返すことができました。

「愛する」とは、「好きになる」という意味ではない。相手に「人間としての価値、尊厳」を認め、尊重し、大切にすること。今、目の前にいる、この方の中に、いつでも神の似姿を見ることができますように。

そう見ることのできる時と、できない時がある、どういう時に見れなくなってしまうのか。
「こうしなければならない」とか「こうなったらいい」という責務や達成課題が先にあって、他者を役目とか、役割としてしか評価できなくなってしまう時に、そのまなざしから離れてしまうのだと思います。自分でも緊張していっぱいいっぱいの時だと思います。

父はすべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる。
同じあわれみの雨を浴び、いつくしみの光を注いでいただいている、弱い私たち同士
であることを忘れずいたいです。

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