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2020年6月 6日 (土)

三位一体の神

6月7日 三位一体の主日

 聖霊降臨の次の主日が、今日、三位一体の主日です。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
いま、読まれました、第二朗読の中にある、このパウロの言葉が、わたしたちのミサの開祭のときに、司祭が唱える招きの言葉となっており、この開祭の招きの言葉がそのまま、わたしたちの、「父と子と聖霊」の三位一体の神への信仰告白となっています。

本日の福音朗読、ヨハネ福音の3章はヨハネの福音の中でも、よく知られている箇所です。イエスとニコデモとの対話の延長の中で、イエス・キリストの教えの中心、真髄となる教えが告げられています。

個人的な思いでとなりますが、第二次大戦の敗戦直後のこと、故郷の房総半島の山奥でも、「ルーテルアワー」という福音宣教のラジオ番組が放送されておりました。その放送で毎回繰り返し伝えられていた聖句が

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

であったと記憶しています。福音のエッセンスを繰り返し伝えていたわけで、それなりのインパクトがありました。

第一朗読で述べられていますように、モーセにあらわれた神、父である神、イスラエルの神は、いつくしみ深い神です。
フランシスコ教皇が『いつくしみの特別聖年』を制定されたことはまだ記憶に新しいところです。神のいつくしみは、御独り子、イエス・キリストの派遣、その生涯によって、完全にあらわされました。

御父は、独り子、主イエスを世にお遣わしになり、そして、わたしたちと同じ人間とされ、御子が十字架に架けられる苦しみを耐え忍ばれました。

神が独り子をお遣わしになったのは、すべての人が救われるため、すべての人がイエス・キリストを信じて、永遠のいのちに至るためです。
御子、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに移され、そして、神のいのち、救いにあずかる者とされます。ここに、わたしたちの信仰告白の中心がある、と思います。この信仰を宣べ伝え証しするためにわたしたちは信者となりました。そこで今日は改めて、今日ご一緒に三位一体の信仰について考えてみましょう。
わたしたちは、何を信じているのか。どのように信じているのか。わたしたちの信仰を、自分の言葉と自分の生活であらわし、伝えなければなりません。自分の心で受け止めた、神の言葉。それを、自分の言葉で、人々に分かる言葉であらわし、伝えなければならないと思います。

わたしたちは、信仰講座、入門講座などに出席し、入信の秘跡を受ける準備をして、洗礼を受けました。その際、いろいろな言葉で信仰の説明を受けたと思います。そのわたしたちの受けた信仰を説明する言葉を、更に、自分の心の中で咀嚼し、自分の血肉とし、そして、自分の言葉で、人々に伝えなければならない、と思います。

福音宣教ということは、司祭や奉献生活者だけの任務ではなくて、洗礼を受け、堅信を受けた人、全員の務めですので、自分であれば、このような言葉で自分の信仰をあらわし、伝えるということを、考え、用意していただきたい。
信仰をあらわし、伝えるということは、まず言葉により行われますが、行いによって、自分の信仰をあらわすのでなければなりません。

わたしたちの信仰の中心には、「神は愛である。」という信仰告白があります。この信仰はわたしたちの心に注がれている聖霊の働きによります。(ローマ5・5参照)、神の愛を信じているわたしたちが、自分の生活の中で、神の愛をあらわし、実行しなければ、神の愛が人々に伝わっていくことは難しいでしょう。

言葉と行いが一致しない人の信仰を、人々は、なかなか認めてくれないのではないかと思います。

これと関係して最近知った驚くべき事実、子どもについての、わたくしの心に訴えている事実に触れたいと思います。それは日本の子どもたちは、「自分に価値がある」という思いを持つことが少ないという報告です。自分を肯定する気持ちが弱い。「自分は大切な存在だ」、「自分は必要とされている」、「自分は人のために役に立つ人間だ」などという思いを、なかなか持つことができない子どもが増えている、というように報告されています。

神の愛、それは、すべての人に注がれる愛であり、「どのような人も、あなたは大切な存在であり、あなたは必要とされる存在なのですよ」ということをあらわし、伝えています。

わたしたちが、本当に信じている神の愛を、毎日の生活の中で実行するならば、一人ひとりの人が、価値のある、かけがえのない存在であるということを、言葉と行いであらわし、伝えていくならば、多くの人は、わたしたちの生き方を認め、そして、わたしたちと一緒に歩んでいただけるようになるのではないでしょうか。
そのように、言葉と行いにおいて、神の愛、イエス・キリストの教えを実行することこそ、日本の福音宣教、福音化の務めであると、わたくしは思うのです。皆さんは、「あなたの福音宣教は、どのようにすることなのか」という問いへの答えを子と具体的に考えていただきたいと思います。

 ーーー

第一朗読  出エジプト記 34:4b-6、8-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

 第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 

 

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