黙想会講話:心の大掃除(糾明)
昨年12月の待降節黙想会の講話が文字となって届けられました。本郷教会の信徒のためですが、ご参考に、添付します。
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昨年12月の待降節黙想会の講話が文字となって届けられました。本郷教会の信徒のためですが、ご参考に、添付します。
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7月21日 年間第16火曜日
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
確かにそうなのだが、問題は、何が天の父のみ心であるのか、ということである。神の名において正義を主張し,抗争してきた歴史がわが教会の歩みの中にみられないか。異端審問、十字軍などはその汚点ではないか。
第一朗読 ミカ書 7:14-15、18-20
(主よ、)あなたの杖をもって 御自分の民を牧してください あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に ただひとり守られて住み 遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように。お前がエジプトの地を出たときのように彼らに驚くべき業をわたしは示す。
あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない 神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを アブラハムに慈しみを示してください その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
福音朗読 マタイによる福音書 12:46-50
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
7月20日 年間第16月曜日
ミカ書。「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」
神がイスラエルの民に求めていること、それは上記のように、「正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと。」
ナザレのイエスはこの言葉を地上に生活において実行した。数々のしるし、癒し、悪霊の追放もその実行の実例であった。しかしユダヤの指導者たちはイエスを受け入れない。それどころが、彼を悪魔付き扱いにさえしてしまう。
ヨナ書では、ヨナが三日間大きな魚の中に飲み込まれていたとある。これは三日目に復活したイエスの前表であろう。ヨナの説教を聞いて異邦人のニネベの人は悔い改めた。
ソロモン王に時、南の女王が遠路わざわざソロモンを訪ねてきてソロモンの知恵を確かめた。知恵は裁きのために知恵。その女王も裁きの時に彼らを罪に定めるだろう。
これは、イエスのしるしを見ても律法学者、ファリサイ派はイエスを信じなかった。彼らはニネベの人々や御の女王にも劣る不信仰者だ、という意味だろうか。
閑話休題、ともかく、神の慈しみを実行したイエスを「神からの人」であると認めない律法学者・ファリサイ派への非難の言葉であろう。
第一朗読 ミカ書 6:1-4、6-8
聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発しイスラエルと争われる。「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。わたしはお前をエジプトの国から導き上り奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。
何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。
福音朗読 マタイによる福音書 12:38-42
(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
毒麦の譬え。
神が造った善なる世界に何故悪が蔓延っているのか。この問題に聖書とキリスト教はどうこたえているのか。年間第16主日の福音はその回答の一つ、あるいは示唆ではないか、という事を言おうとしたのですが、伝わらなかったでしょうか。これが意味のない戯言でしょうか。決してそうは思わない。最も重要な問いかけです。
2020年7月19日 年間第16主日
今日の福音朗読は毒麦の譬えのである。
神が造ったこの世界に何故悪が存在するのか、という、有名か「神義論」の問題がある。
この譬えはこの問題への一つの回答と言えるだろう。
悪という毒麦は何処から入ったのか。それは「敵の仕業だ」という。敵とは誰か。毒麦を蒔いた敵は悪魔である。悪魔の所為だ。その悪魔は何所から来たのか。福音書には悪魔、悪霊、汚れた霊などの言い方で悪魔は頻繁に登場する。イエスのしたことで目立つのは悪霊の追放である。(悪魔の起源については明解な説明は得られていない。バビロン捕囚後に時代にペルシアの信仰が入ってきた、という説がある。)
それでは何故毒麦という悪を引き抜いて退治しないのか。それは、一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれないからである。毒麦と麦は見ただけでは区別が難しい。それにお互いの根も絡み合っている。これはまさにわれわれ人間の実態を表わしている。人間の悪と善は表裏一体、全を日繰り返せば悪となる。善と悪は峻別できない。悪だけ除こうとすると善も一緒に除かれてしまうお恐れがある。病気の治療と似ている。病気を引き起こしている腫瘍を除去すると健康な組織も損傷を受ける。所謂副作用である。悪いところだけ取り出し、他の部分には損害を及ぼさないようにはする治療はできないという現実がある。
それは人間の心の現実でもある。人の心には善と悪が宿っている。同じ人の心に善と悪が住んである。悪だけ取り除こうとするとその人の心自体を壊してしまうことになりかねない。この不思議をどうしたらよいだろうか。毒麦の譬えはわたしたち自身の心の問題でもある。心の弱さ、限界の問題でもある。
主人の判断と結論は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」出る。現在の世界は、両方とも育っている状況にある。しかし、いつか終わりが来る。それは刈り入れの時である。この世の終わり、終末、天の国、神の国の完成の時でル。その時には悪は完全に除去される。終末を待つしか解決はないのだろうか。
ーーー
第一朗読 知恵の書 12:13、16-19
(主よ、)すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから、不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。
あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。あなたの全き権能を信じない者にあなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。
第二朗読 ローマの信徒への手紙 8:26-27
(皆さん、”霊”は)弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
福音朗読 マタイによる福音書 13:24-43
(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》
2020年7月18日、年間第15土曜日の福音から
「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」
どうしてファリサイ派の人々はイエスを殺そうと相談したのか。
この直前の箇所を引用しよう。
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。(マタイ12・9-13)
そこでわかるが、それは、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したからであった。この事件が、ファリサイ派足しがイエスの存在を抹殺するように動く動機になっている。どうしてこれがイエスの抹殺の動機になるのか。実に分かりにくい動機である。それほど彼らにとってイエスの言葉と行動は冒涜的であり涜聖の罪に当たると考えたのであろう。
以下、本日の福音に続く。
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。 異邦人は彼の名に望みをかける。」
――
イザヤ書の主の僕の歌よりの引用。
彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
曽野綾子の小説に『傷ついて葦』というのがあったと思う。最新の優しさをもって傷ついた人、苦しむ人、病む人、悩む人に接するイエスの在り方を彷彿とさせる。
7月17日 年間第15金曜日
麦の穂を摘んで食べる、という行為はあまり褒めたものではないだろう。時代と場所が違うから何とも言えないが、自分の経験では、普通そういうことはしない。公序良俗に反すると思う。他方、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを見て、目くじらを立てて、安息日の掟破りだというのもいかがなものか。
イエスは弟子をかばって言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
ダビデとその一行、神殿に仕える祭司は安息日の規則に拘束されない。自分は彼らよりの偉大な者である、と言っているように聞こえる。
イエスとファリサイ人、律法学者との対立は、安息日論争に起因している部分が大きいように思われる。麦の穂のことなどどうでもよいではないかと思うが律法の専門家には揺るがせにできない重大事であった。何か別世界での出来事のようだ。結論は、「人の子は安息日の主である。」
第一朗読 イザヤ書 38:1-6、21-22、7-8
そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。
主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」
イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」
ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、私は日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせる。」太陽は、影の落ちた日時計の中で十度戻った。
福音朗読 マタイによる福音書 12:1-8
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
2020年7月16日、年間第15木曜日
福音朗読 マタイによる福音書 11:28-30
(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
―――
今日もこのみ言葉に出会う。
今のわたしにとってどう意味があるのだろうか。思いは乱れる。
イエスは次のようにも言っている。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10・38,39)
自分の十字架とは何だろ。喜んで自分の十字架を担いイエスに従う者でありたい。
第一朗読 イザヤ書 26:7-9、12、16-19
神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき 世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。
主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を 成し遂げてくださるのはあなたです。
主よ、苦難に襲われると 人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと 彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくともだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前でこのようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず 地上に住む者を産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得 わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。
7月15日 聖ボナベントゥラ司教教会博士
福音朗読 マタイによる福音書 11:25-27
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
―――
「これらのこと」とは何を指しているのか、わからない。
知恵あるもの、賢い者とはだれを指しているのか。さしあたり律法の専門家、モーセの教えを詳しく勉強している者、ファリサイなどのことだろうか。
幼子はイエスの言葉を素直に単純にそのまま受け入れた。しかし、既にいろいろな知識と体験を持つ者はかえってそれが災いして、考えすぎて、信じるに難しくなっていた。「預言者は故郷では容れられない。」イエスの人間性に躓くということもあったかもしれない。
それでは、この自分の場合はどうだろうか。
第一朗読 イザヤ書 10:5-7、13-16
(主は言われる。)災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。神を無視する国に向かってわたしは、それを遣わしわたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ野の土のように彼を踏みにじれ」と。しかし、彼はそのように策を立てず その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと 多くの国を断ち尽くすこと。
なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。わたしの手は、鳥の巣を奪うように諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」
斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。それゆえ、万軍の主なる神は、太った者の中に衰弱を送り主の栄光の下に炎を燃え上がらせ火のように燃えさせられる。
2020年7月14日、年間第15主日の福音朗読より
カファルナウムはイエスの主要な宣教活動の場所ではなかったか。イエスは数々のしるし、不思議、癒しをおこなったが人々はイエスを受け入れなかった。
ソドムはゴモラと並んで悪名高い悪徳の町。(創世記18章20節~19章29節にソドムが滅ぼされた話が出てくる。)
さて、現代のわたしたちの場合はどうだろうか。奇跡が行われているのにそれにそれにさえ気が付かないのかもしれない。悔い改めなければならないのにその必要さえ認めていないのかもしれない。現代世界で最も悔い改めるべきことはなんであるのか。
マタイによる福音書 11:20-24
(そのとき、)イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
7月13日 年間第15月曜日
今日の福音は特に厳しいおことばです。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「自分の命を得ようとする者は」は、「自分の命を得ている者は」(聖書協会1955年訳)「自分の命を自分の物とした者」(新改訳)とも訳されている。
自分の命をこれから得るのか、既に得ているのか、の違いは足したことのないように思われる。
病院に行くと自分の命を守るために多くの人が集まっている。人事を尽くしても地上の命にはいつか終わりが来る。「わたしのために命を失う者」とは、端的に言えば、殉教することであろう。殉教しない場合はどうであろうか。イエスのために命をささげる事を意味しているのだろう。では、イエスのために命をさげるとは何を意味しているのか。・・・自分の場合、どうすることだろうか。
第一朗読 イザヤ書 1:10-17
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰が、お前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。
福音朗読 マタイによる福音書 10:34-11:1
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
7月12日 年間第15主日
神の造った世界になぜコロナウイルスという人類を恐怖に陥れる問題が発生しているのでしょうか。
あるいは2011年3月11日の東日本大地震のような災害が何故起こるのでしょうか。
神が造った世界は「極めて良かった」(創世記1・31)のではなかったか。
使徒パウロの本日の第二朗読、ローマ書8章によれば、人間だけではなく、人間以外の被造物も救いを待っている、とあります。すなわち「滅びからの隷属から解放されて、神の子供のたちの栄光に輝く自由にあずかれる」日が来るのを待ちながら呻き、生みの苦しみを味わっているのです。
「被造物の呻き」とは、例えば、地震であったり、コロナウイルスであったりするのではないだろうか。
「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」
人間の解放と被造物の解放がつながっています。教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、人間の環境破壊、地球への利己的侵害行為を非難していますが、現在の自然環境の不秩序は人間の一方的・利己的な開発行為に原因があると思われます。
救いとは、人類だけの救いではなく、すべての被造物の救いです。すべての被造物が贖われて初めて「極めて良い」という創世記1・31の言葉が実現するのではないでしょうか。
今日の福音の種まきの譬えは、「良い土地」とは、他の被造物の解放と救いと一緒でなければ人間の救いはありえない事を悟ることのできる人間の心の状態であれ、と言っているのではないだろうか、と思います。
第一朗読 イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。
第二朗読 ローマの信徒への手紙 8:18-23
(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
福音朗読 マタイによる福音書 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》
7月9日 年間第14木曜日
ホセア書に現れた神の心の葛藤。「わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
神は怒りと憐れみの間で心引き裂かれるほど苦しむが結局怒りに憐れみが勝つことになる。人間的な神と言ってよいか?
ーーー
第一朗読 ホセア書 11:1-4、8c-9
(主は言われる。)まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行きバアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き彼らの顎から軛を取り去り身をかがめて食べさせた。
イスラエルよお前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
福音朗読 マタイによる福音書 10:7-15
「天の国」の到来は、使徒たちによって、病人の癒し、死者の蘇り、重い皮膚病の人の癒し、悪霊を追い出すこと、などによって示された。それは「平和の到来」と同じ趣旨ではないか。
現代世界を見るに、これらのしるしは見らないわけではないが、ほんの僅かな現象に過ぎない。天の国=神の国の完成の時にこのような現象が行き渡るのだろう。
ーーー(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
あなたの軛(くびき)は何ですか
年間第14主日A年
2020年7月5日、本郷教会
第一朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・25-30)
説教
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
イエスは今日の福音でこのように言われます。
ちょうど6月19日、金曜日、「イエスのみ心」の福音朗読も同じ福音の箇所でありました。
「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。」
わたしたちの、本郷教会の掲示板に、この言葉が掲げられていたと思います。
掲示が多いので、今ちょっと隠れているかもしれません。
わたしたちは、福音という「よい便り」を受け取り、そして福音を人々に告げ知らせるという役割を受けたものであります。
福音宣教は教会全員の使命であります。
毎回思うことですが、それでは今、わたしたちにとって、人々にとって、福音とは、何を指すのでありましょうか。
疲れている者、重荷を負う者に対しては、安らぎ、安心、憩い、或いは、癒し。
要するに 救いということを意味していると思われます。
もちろん救いは、罪からの赦しと結びついており、罪からの赦しなしに 救いはありませんが、
罪という言葉はなかなか馴染みにくい印象を与えております。
もう一度、わたしたち、或いは、現代の人々にとって、救いとは、一体何であるかをこの機会に考えてみることは意味のある大切なことではないだろうか。
わたしたち自身、その存在自体にある、何かの不安、まだ満たされていない部分がある。その中に、病気ということもあるし、孤独ということもあるでしょう。そういう現実を、「罪」という言葉で括って説明するとなると、信者にはよいかもしれないが、一般の人にはちょっと受け取りにくいかもしれない。
罪とは神から離れている状態、でありますので、
あるべきでない状態にあるわたしたちは、広い意味で、罪のなかに置かれている、といってもまちがいはないでしょう。
さて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
この「軛」ですけれども、見たことがおありでしょうか。
今の時代、そして、この東京という場所では、軛を目にすることはほとんどないでしょう。
私個人の記憶によると、私は千葉県の山間部で生まれ育ちましたので、子どものころ、馬車というものを、日ごろ、見ておりました。
駅からですね、荷物を馬車に積んで、町まで運ぶということを仕事としている人がいた。馬車屋さんと呼んでいました。
その馬は、軛というものをつけられている。その軛は、馬車の両脇の轅(ながえ)という部分に繋がれていたわけで、
軛と轅の関係がピタッと合っていないと、軛を負わされている動物、馬、牛、きょうの福音だと、ロバも入るわけですが、痛くてしかたがない。
ピタッと合った軛だと、喜んで軛を負いながら役割を果たすことができる。
イエスは、「わたしの軛を負いなさい」と言われました。
ちなみに、ナザレのイエスは、父、ヨセフの仕事を継いで、大工であったと思われます。そして、軛作りの名人であったという伝説が残っている。
ピタッと、その馬、牛に合う軛を作ることができた、とのことであります。
それでは、今日のわたしたちにとって、「わたしの軛を負いなさい」というイエスの言葉は何を意味しているのでありましょうか。
きょうの福音を見て、ちょっとたじろいでしまいますが、元気な、張り切った牧者が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」というならいいかもしれませんが、本人が疲れている場合に、ちょっと言いにくいと、そう思います。
きょうのミサの朗読全体として、何を受け取ることができるでしょうか。
小さなこと、ひとつですが、第二朗読に注目いたしましょう。
パウロのローマの教会への手紙であります。
柔和で謙遜な者はキリストの軛を負って歩む。その際、神の霊、聖霊がわたしたちの心に注がれるのであります。
ローマ5章5節の言葉。
神の霊、聖霊は、主イエス・キリストと共に歩む者の心に注がれます。
実に、キリスト者の歩みというのは、キリストの霊に従って歩む日々のことであります。
肉に従って歩む場合は、自分中心に歩む、自己中心の生き方を意味しています。
「肉」というのは、肉体という意味ではありません。神の導きに反する自分の都合を中心とした生き方のことを言っています。
洗礼を受けたキリスト者は、本来、古い自分に死んだはずですが、しかし、洗礼後も、いつでもどこでも、霊に従って歩んでいるとは限らない。
知らずにそれてしまう場合もあります。
逆に、洗礼を受けていなくても神の霊に従って歩んでいる人も見かけるのであります。
聖霊の導きに反して生きること、それが肉に従って生きる、自己中心な生き方を意味しております。
聖霊に従順であるためには、柔和で謙遜なものでなければなりません。
至らぬわたしたちは、主イエス・キリストにならって、柔和・謙遜であることができますよう、祈り求めましょう。
2020年7月8日(水)、年間第14水曜日
イエスは12人を使徒とし、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすための権能を授けて、イスラエルの家に派遣した。異邦人への派遣は後日のことであった。
12人の中にはあとでイエスを裏切ったユダも含まれている。イエスは自分を裏切るものも選ばれたとは、ふかく考えさせらる。
福音朗読 マタイによる福音書 10:1-7
(そのとき、)イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
2020年7月7日(火) 年間第14火曜日
福音朗読 マタイによる福音書 9:32-38
(そのとき、)悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
――
主イエスのなさったことは、今日の福音によれば、
―悪霊を追い出し
―会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え
―あらゆる病気や煩いをいやされた。
福音宣教はイエスのみわざと結びついている。癒しと救いは重なり、救いとは人間全体の癒しであり、罪と弱さからの解放となる。
2020年7月6日、年間第14月曜日ミサ福音朗読
マルコ、ルカに平行個所のある二人の女性の癒しの話。とくに出血症の女性の癒しに注目したい。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と彼女は自分に言い聞かせる。「治してもらえる」の治すはギリシャ語原文は本来「救う」という意味らしい。病気の人がイエスに期待するのは「救う」ことより「癒す」ことだろうから「癒す」「治す」と訳しているらしい。ここで考えたいことは「癒し」と「救い」の関係である。「癒し」は「救い」の中に内包されるだろう。人が救われる場合、「癒し」がなければならない。しかし癒されれば救われるとは限らない。「癒し」と「救い」の関係をこの機会に考えてみたい。出血症の女性にとって「癒しはまさに救い」であったと推察される。イエスの神の国の福音のなかに「癒し」は大きな働きを占めていた。いまの福音宣教で考慮すべきはさらなる「癒し」ではないだろうか。
福音朗読 マタイによる福音書 9:18-26
(そのとき、)イエスが話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。
7月4日 年間第13土曜日
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
イエスの福音は新しいぶどう酒。福音を入れる新しい革袋とは何か。
新しい革袋とは、イエスの福音を伝える教会のことだろう。その組織、制度、神学、典礼、霊性などすべて新しいぶどう酒にふさわしい新しい在り方、表現、方法をとっていなければならない。INCULTURATION インカルチュレーションという言葉がある。福音宣教する際、今の文化を通し、今の文化によって、人々に通じる新しい表現をとらなければならない。
ーー
第一朗読 アモス書 9:11-15
(主は言われる。)その日にはわたしはダビデの倒れた仮庵を復興しその破れを修復し、廃虚を復興して昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続きぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせすべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないとあなたの神なる主は言われる。
福音朗読 マタイによる福音書 9:14-17
(そのとき、)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
2020年7月3日、聖トマ使徒 祝日
使徒トマスは疑い深い使徒として知られている。イエスが復活して弟子たちの隠れ家に現れた時、たまたまトマスは不在であった。仲間の弟子たちからイエスの出現を聞いても信じようとはしなかった。
「トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』
その八日後、トマスが居合わせた時、復活したイエスが現れてトマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
有名な場面である。見るだけではなく触ってみて確かめないと信じないといったトマスは人生の重要な問題については非常に慎重であった。そのおかげでほかの臆病で疑い深い人たちもトマスの前例を信じて、復活を信じることができるようになった。
さて、ところで復活したイエスの体はどんな体であったのか。鍵のかかっている家の中に入ってきた、とある。地上の存在の条件に左右されない体、生身の人間を超える状態にある体であったと思われる。確かに弟子たちはイエスの姿を見た。しかしある時間、ある場所で弟子たちが出会ったわけで、イエスはいつまでも、どこにでも現れ続けたわけではない。いわば《復活体》という体である。
それではトマスは実際にイエスの体に触れ、受難の後の体の傷跡に触ったのだろうか。ヨハネの福音からは明確ではないがおそらく触ってはいない。
「(イエスは)トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」
トマスは、イエスの体に触るまでもなく、すぐに恐れ入ってイエスを礼拝している。
トマスの信仰告白があったからこそ教会が誕生し、生前のイエスを知らないし、復活したイエスを見てもいないわたしたたちがキリスト信者になる事が出来ている。
―――
福音朗読 ヨハネによる福音書 20:24-29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
2020年7月2日、年間第13木曜日
福音朗読 マタイによる福音書 9:1-8
(そのとき、)イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
――
『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。言うだけならもちろん前者、罪の赦しである。
罪の赦しは目に見えない。中風の癒しは目に見える。「起きて歩け」と言ってその通りにならなければ、イエスは偽りもの、となる。罪の赦しの方は、赦されたかどうかを確かめる目に見えるしるしがわからない。罪の赦しを宣言しても起きて歩け、と言ってもその通りにならなければ、イエスの権威は疑わしいことになる。
人々は中風の癒しを見てイエスが罪の赦しを伝える権威を持つ者であることを信じた。
「癒し」と「罪の赦し」とどのような関係があるのか。
今日の福音の癒しはイエスが罪の赦しの権威をもことを証明するために行われたと思われる。
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