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2020年7月 6日 (月)

癒しと救い

2020年7月6日、年間第14月曜日ミサ福音朗読

 

マルコ、ルカに平行個所のある二人の女性の癒しの話。とくに出血症の女性の癒しに注目したい。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と彼女は自分に言い聞かせる。「治してもらえる」の治すはギリシャ語原文は本来「救う」という意味らしい。病気の人がイエスに期待するのは「救う」ことより「癒す」ことだろうから「癒す」「治す」と訳しているらしい。ここで考えたいことは「癒し」と「救い」の関係である。「癒し」は「救い」の中に内包されるだろう。人が救われる場合、「癒し」がなければならない。しかし癒されれば救われるとは限らない。「癒し」と「救い」の関係をこの機会に考えてみたい。出血症の女性にとって「癒しはまさに救い」であったと推察される。イエスの神の国の福音のなかに「癒し」は大きな働きを占めていた。いまの福音宣教で考慮すべきはさらなる「癒し」ではないだろうか。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:18-26
(そのとき、)イエスが話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

 

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コメント

「人が救われる場合、癒しがなければならないが、癒されれば救われるとはかぎらない。「癒し」は「救い」の中に内包される。」  この前の中風の人が罪の赦しによって癒された話を思い出しましたが、癒しということが、イエスの神の国の福音、の中に大きな働きを占めていたこともお教えいただき、今の時代の福音宣教にもいっそう「癒し」を考慮しなければならない、という強いお気持ちのこもるお話だと心に残りました。

『「癒し」は「救い」の中に内包されるだろう。人が救われる場合、「癒し」がなければならない。しかし癒されれば救われるとは限らない。』とのことで、イエスの行う癒しは、その人に内在する様々な苦悩と罪からの解放であったことが示されたと思います。
出血病を長年患う娘は触れるだけでも癒されると信じてイエスの衣に触れる場面は必死の思いが伝わってきます。
「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と声までかけられ、その時娘はイエスに対して「この方は私のすべてをわかっている]と受け取ったのではないかと思います。
人間には理解してもらいたいという欲求があります。ですから話を聞いてもらえるだけで理解してもらえたと感じ、ホッとするのです。話を聞くことは相手を癒していることになります。
「我と汝」(マルティン・ブーバー)という関りを持つことのできるイエスとのかかわり。関りと言っても、それはほんの一言、二言のことばかけにせよ、その人はいやされ、ほっと安心した気持ちが体の隅々にまでゆきわたり、救いとなっていくのだと思います。

「癒されれば救われるとは限らない」という言葉の意味がはじめはよくわかりませんでしたが、「出血症のこの女性にとっては癒しはまさに救いであった」と読んで、本当にそうだったろうと思いました。12年間もの間どんなに長く、苦しかったことでしょう。

その長さに対して、「そのとき、彼女は治った」とはなんとあっさりとした表現でしょう。
「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と服の端の房に手を伸ばす女性と、そのわずかな感触からも、彼女の歩んできた人生の苦しみ、救いを求める必死の思いを一瞬にしてすべて感じ取り、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」という慈しみとあわれみのまなざしとことばをかけられたイエス。
少ない表現の中に、一瞬の二人の深い出会いが想像されて心をうたれます。

私はなにか行動する前に「これをしたらどうなるだろう」「どんな反応が返って来るだろう」と考えて、時にはブレーキをかけてしまう方ですが、思い返すと、今までも自分の考えより先に思わず身体が動いていた、ということもありました。それは、誰かのためであったり、自分にとってとても大切な時だったりでした、そのような時、それは、私の中に神様がまいて下さった種のようなものから生まれる私の本当の願いからの動きだったような気がします。
この女性のように、祈り、自分を動かしてくださるその種を大事に、動ける自分になりたいと思います。

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