無料ブログはココログ

« イエスを殺そうとした動機 | トップページ | 悪の問題 »

2020年7月18日 (土)

神の造ったこの世界に何故悪が存在するのか:毒麦の譬え

2020年7月19日 年間第16主日

 

今日の福音朗読は毒麦の譬えのである。

神が造ったこの世界に何故悪が存在するのか、という、有名か「神義論」の問題がある。

この譬えはこの問題への一つの回答と言えるだろう。

悪という毒麦は何処から入ったのか。それは「敵の仕業だ」という。敵とは誰か。毒麦を蒔いた敵は悪魔である。悪魔の所為だ。その悪魔は何所から来たのか。福音書には悪魔、悪霊、汚れた霊などの言い方で悪魔は頻繁に登場する。イエスのしたことで目立つのは悪霊の追放である。(悪魔の起源については明解な説明は得られていない。バビロン捕囚後に時代にペルシアの信仰が入ってきた、という説がある。)

それでは何故毒麦という悪を引き抜いて退治しないのか。それは、一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれないからである。毒麦と麦は見ただけでは区別が難しい。それにお互いの根も絡み合っている。これはまさにわれわれ人間の実態を表わしている。人間の悪と善は表裏一体、全を日繰り返せば悪となる。善と悪は峻別できない。悪だけ除こうとすると善も一緒に除かれてしまうお恐れがある。病気の治療と似ている。病気を引き起こしている腫瘍を除去すると健康な組織も損傷を受ける。所謂副作用である。悪いところだけ取り出し、他の部分には損害を及ぼさないようにはする治療はできないという現実がある。

それは人間の心の現実でもある。人の心には善と悪が宿っている。同じ人の心に善と悪が住んである。悪だけ取り除こうとするとその人の心自体を壊してしまうことになりかねない。この不思議をどうしたらよいだろうか。毒麦の譬えはわたしたち自身の心の問題でもある。心の弱さ、限界の問題でもある。

主人の判断と結論は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」出る。現在の世界は、両方とも育っている状況にある。しかし、いつか終わりが来る。それは刈り入れの時である。この世の終わり、終末、天の国、神の国の完成の時でル。その時には悪は完全に除去される。終末を待つしか解決はないのだろうか。

 ーーー

 第一朗読  知恵の書 12:13、16-19

(主よ、)すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから、不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。

あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。あなたの全き権能を信じない者にあなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-27

(皆さん、”霊”は)弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 福音朗読  マタイによる福音書 13:24-43

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

《イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」》

« イエスを殺そうとした動機 | トップページ | 悪の問題 »

コメント

岡田さんの文章からは具体的に何をイエスは望んでいるのかボーとした文章で何も見えません。彼はズーっとこういうふうに福音を読んでいたから一切何もしない生活を何十年もできたのだろうと妙に感心してしまいました。昨日か今日のブログでは「公序良俗に反する」という文言も出てきました。現在の大司教の決定発表がまるで国の行政官を連想させるものと感じたことと重なりました。何も考えずに意味のないブログを書いて日々を埋めているのは体調がよほど悪いのかとも感じますが、内容のないものを無駄に書かなくてもいいと誰か教えてくれる人はいないのでしょうか?誰からも何も忠告されない淋しさを感じます

ゆっくりと療養なさいますように。
(覚書4 )1998.5.17北浦和教会のミサで思ったこと。ヨハネによる福音の後,すぐに「第1朗読ですね。偶像に捧げられたものと,血と,絞め殺した動物の肉と,みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」と。その後ご自分の子供時代のお話をされていたようでしたが,私は第1朗読に目を通しておりました。パウロ,本名ヨセフのバルナバ,バルサバと呼ばれるユダの派遣。何故、むこうからこちらへ。あちらからこちらへ。どうして。もしかしたら……。長くお導きくださいましてありがとうございます。1日も早くお元気になられますように。

毎日のようにお説教の配信大変ありがとうございます。そして、いつも根本的な問いを投げかけて、考えることを促してくださってありがとうございます。基礎から順序正しくお教え導きいただきましたので、聖書のことも信仰についても身近なものとして感じながら日々を過ごせるようになりました。 事情があって教会にまだ行くことができていませんが、こうしてブログを拝読することは大きな喜びです。
ご療養中とのこと、どうぞお大事になさってくださいますように。

毒麦のたとえ。もし自分をよい麦におきかえるならば、畑をよい畑にする為には、毒麦は早く駆除すればよいと思うでしょう。でも、自分をふりかえって、自分の中にも「毒麦」の種があると思いあたるとき、そう簡単には割り切れなくなります。

「悪と善は表裏一体。峻別できない。人の心には善と悪が宿っている、同じ人の心に善と悪が住んでいる。悪だけ取り除こうとすると、その人の心自体をこわしてしまうことになりかねない」「それは人間の心の現実である」という司教さまの人間観にとても共感します。
「この不思議をどうしたらよいだろうか」

割り切れないものを、割り切ってしまわず、問い続け、そこにとどまり続ける事には強さが必要だと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« イエスを殺そうとした動機 | トップページ | 悪の問題 »

最近のトラックバック

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31