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2020年7月 7日 (火)

あなたの軛は何ですか

あなたの軛(くびき)は何ですか

年間第14主日A年

 

2020年7月5日、本郷教会

 

第一朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)

第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)

福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・25-30)

 

説教

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 

イエスは今日の福音でこのように言われます。

ちょうど6月19日、金曜日、「イエスのみ心」の福音朗読も同じ福音の箇所でありました。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。」

 

わたしたちの、本郷教会の掲示板に、この言葉が掲げられていたと思います。

掲示が多いので、今ちょっと隠れているかもしれません。

 

わたしたちは、福音という「よい便り」を受け取り、そして福音を人々に告げ知らせるという役割を受けたものであります。

福音宣教は教会全員の使命であります。

毎回思うことですが、それでは今、わたしたちにとって、人々にとって、福音とは、何を指すのでありましょうか。

疲れている者、重荷を負う者に対しては、安らぎ、安心、憩い、或いは、癒し。

要するに 救いということを意味していると思われます。

もちろん救いは、罪からの赦しと結びついており、罪からの赦しなしに 救いはありませんが、

罪という言葉はなかなか馴染みにくい印象を与えております。

もう一度、わたしたち、或いは、現代の人々にとって、救いとは、一体何であるかをこの機会に考えてみることは意味のある大切なことではないだろうか。

 

わたしたち自身、その存在自体にある、何かの不安、まだ満たされていない部分がある。その中に、病気ということもあるし、孤独ということもあるでしょう。そういう現実を、「罪」という言葉で括って説明するとなると、信者にはよいかもしれないが、一般の人にはちょっと受け取りにくいかもしれない。

罪とは神から離れている状態、でありますので、

あるべきでない状態にあるわたしたちは、広い意味で、罪のなかに置かれている、といってもまちがいはないでしょう。

 

さて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

この「軛」ですけれども、見たことがおありでしょうか。

今の時代、そして、この東京という場所では、軛を目にすることはほとんどないでしょう。

私個人の記憶によると、私は千葉県の山間部で生まれ育ちましたので、子どものころ、馬車というものを、日ごろ、見ておりました。

駅からですね、荷物を馬車に積んで、町まで運ぶということを仕事としている人がいた。馬車屋さんと呼んでいました。

その馬は、軛というものをつけられている。その軛は、馬車の両脇の轅(ながえ)という部分に繋がれていたわけで、

軛と轅の関係がピタッと合っていないと、軛を負わされている動物、馬、牛、きょうの福音だと、ロバも入るわけですが、痛くてしかたがない。

ピタッと合った軛だと、喜んで軛を負いながら役割を果たすことができる。

 

イエスは、「わたしの軛を負いなさい」と言われました。

ちなみに、ナザレのイエスは、父、ヨセフの仕事を継いで、大工であったと思われます。そして、軛作りの名人であったという伝説が残っている。

ピタッと、その馬、牛に合う軛を作ることができた、とのことであります。

 

それでは、今日のわたしたちにとって、「わたしの軛を負いなさい」というイエスの言葉は何を意味しているのでありましょうか。

きょうの福音を見て、ちょっとたじろいでしまいますが、元気な、張り切った牧者が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」というならいいかもしれませんが、本人が疲れている場合に、ちょっと言いにくいと、そう思います。

 

きょうのミサの朗読全体として、何を受け取ることができるでしょうか。

小さなこと、ひとつですが、第二朗読に注目いたしましょう。

パウロのローマの教会への手紙であります。

柔和で謙遜な者はキリストの軛を負って歩む。その際、神の霊、聖霊がわたしたちの心に注がれるのであります。

ローマ5章5節の言葉。

神の霊、聖霊は、主イエス・キリストと共に歩む者の心に注がれます。

 

実に、キリスト者の歩みというのは、キリストの霊に従って歩む日々のことであります。

肉に従って歩む場合は、自分中心に歩む、自己中心の生き方を意味しています。

「肉」というのは、肉体という意味ではありません。神の導きに反する自分の都合を中心とした生き方のことを言っています。

 

洗礼を受けたキリスト者は、本来、古い自分に死んだはずですが、しかし、洗礼後も、いつでもどこでも、霊に従って歩んでいるとは限らない。

知らずにそれてしまう場合もあります。

逆に、洗礼を受けていなくても神の霊に従って歩んでいる人も見かけるのであります。

聖霊の導きに反して生きること、それが肉に従って生きる、自己中心な生き方を意味しております。

 

聖霊に従順であるためには、柔和で謙遜なものでなければなりません。

至らぬわたしたちは、主イエス・キリストにならって、柔和・謙遜であることができますよう、祈り求めましょう。

 

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コメント

「何かの不安、まだ満たされていない部分があり、それは自分の存在自体にあるのかもしれない。それは神から離れている状態であり、広い意味での罪である。」
今日のお説教のこの部分をかみしめました。このことを知ることで希望が見えるのだと思いました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスのことば。キリストのもとに行って、キリストの軛を負って、主と共に歩む。その際、神の霊、聖霊が主イエスと共に歩む者の心に注がれる。キリスト者の歩みは、キリストの霊に従って歩む日々である。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
この言葉は、助けを求める人には大変インパクトのある言葉だと思うのですが、毎年3万人にものぼる自殺者がいる日本においては届いていないことになるのでしょうか。
わたしも時々疲れてしまい、いっそのこと家出してみたい、なんて思うこともあります。言葉にしてはっとなんと自己中心なことかと気づきますが。

今、日本は大雨が降り続き、九州をはじめ各地で河川の氾濫や土砂崩れにより家屋の破壊と流失、また多くの死者が出ています。ニュースを見ると本当にめちゃくちゃで避難生活を送るのも悲しく辛いことだと思います。
すべてを失ってしまった時でも、生きていく希望をどのように持つことができるのでしょうか。
キリストを信じているとはいえ、わたしに何ができるのか?と、毎日のように自問自答してしまいます。
「わたしは道であり、真理である。」とのみことばに支えられ、共に軛を担ってくださるイエスに伴われ、曲がりくねった道を聖霊の光で照らし、共に歩んでくださいと祈ります。


「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
この言葉は、助けを求める人には大変インパクトのある言葉だと思うのですが、毎年3万人にものぼる自殺者がいる日本においては届いていないことになるのでしょうか。
わたしも時々疲れてしまい、いっそのこと家出してみたい、なんて思うこともあります。言葉にしてはっとなんと自己中心なことかと気づきますが。

今、日本は大雨が降り続き、九州をはじめ各地で河川の氾濫や土砂崩れにより家屋の破壊と流失、また多くの死者が出ています。ニュースを見ると本当にめちゃくちゃで避難生活を送るのも悲しく辛いことだと思います。
すべてを失ってしまった時でも、生きていく希望をどのように持つことができるのでしょうか、と考え込んでしまいます。
キリストを信じているとはいえ、わたしに何ができるのか?と、毎日のように自問自答してしまいます。
「わたしは道であり、真理である。」とのみことばに支えられ、共に軛を担ってくださるイエスに伴われ、曲がりくねった道を聖霊の光で照らし、共に歩んでくださいと祈ります。


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