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2020年7月17日 (金)

安息日に麦の穂を摘んで食べること

7月17日 年間第15金曜日

 

麦の穂を摘んで食べる、という行為はあまり褒めたものではないだろう。時代と場所が違うから何とも言えないが、自分の経験では、普通そういうことはしない。公序良俗に反すると思う。他方、麦の穂を摘んで食べる弟子たちを見て、目くじらを立てて、安息日の掟破りだというのもいかがなものか。

イエスは弟子をかばって言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

ダビデとその一行、神殿に仕える祭司は安息日の規則に拘束されない。自分は彼らよりの偉大な者である、と言っているように聞こえる。

イエスとファリサイ人、律法学者との対立は、安息日論争に起因している部分が大きいように思われる。麦の穂のことなどどうでもよいではないかと思うが律法の専門家には揺るがせにできない重大事であった。何か別世界での出来事のようだ。結論は、「人の子は安息日の主である。」

 

 

第一朗読  イザヤ書 38:1-6、21-22、7-8

そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。

主の言葉がイザヤに臨んだ。「ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはこの都を守り抜く。」

イザヤが、「干しいちじくを持って来るように」と言うので、人々がそれを患部につけると王は回復した。ヒゼキヤは言った。「わたしが主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」

ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって、主は約束なさったことを実現されることが分かります。「見よ、私は日時計の影、太陽によってアハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせる。」太陽は、影の落ちた日時計の中で十度戻った。

 

福音朗読  マタイによる福音書 12:1-8

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 

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コメント

「人の子は安息日の主なのである」という意味はよくわかりませんが、心に残りました。よく理解していない、印象でしかありませんが、ファリサイ派の人々にとっては、安息日は「してはならないこと」の多い日、それにひきかえ、空腹になったからといって、通りすがりに麦の穂を摘んで食べるとは、なんとリラックスした弟子たちのふるまいでしょう。何かしたら叱られるのではないか、とビクビクしていたらこんなことをうっかりしてしまったりはしないのではないかと思いました。
弟子たちにとっての安息日、安息日の主は緊張ではなく、安心、解放であったのかなと思いました。

 安息日に麦の穂を食べた弟子たちの話が、安息日の論争になった理由が分かるような気がします。それまでイエスの行っていた癒しや救いの行いが神を冒涜すると思われていたということも思い出します。イエスは、ダビデとその共の者が空腹で神殿で供えのパンを食べたこともあったではないか、また、祭司が安息日やぶるのは罪ではないと律法にもあるではないかと弟子たちをかばうところにイエスの弟子に対する思いを感じます。
 イエスが、「神殿より、偉大なものがここにある」、といわれたのは、神の言葉、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』 に基づくものであり、イエス自身の教えになっていて、「人の子は安息日の主」、ということばにつながるのだと思いました。

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