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2020年7月13日 (月)

イエスのために命を失うとは?

7月13日 年間第15月曜日

今日の福音は特に厳しいおことばです。

「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「自分の命を得ようとする者は」は、「自分の命を得ている者は」(聖書協会1955年訳)「自分の命を自分の物とした者」(新改訳)とも訳されている。

自分の命をこれから得るのか、既に得ているのか、の違いは足したことのないように思われる。

病院に行くと自分の命を守るために多くの人が集まっている。人事を尽くしても地上の命にはいつか終わりが来る。「わたしのために命を失う者」とは、端的に言えば、殉教することであろう。殉教しない場合はどうであろうか。イエスのために命をささげる事を意味しているのだろう。では、イエスのために命をさげるとは何を意味しているのか。・・・自分の場合、どうすることだろうか。

 第一朗読  イザヤ書 1:10-17
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰が、お前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。

福音朗読  マタイによる福音書 10:34-11:1
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

 

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コメント

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と聞いて、どこか納得するところもあります。
何もよくわからず洗礼を受けた自分が、こんなイエスの言葉に出会わなければ、こんなに心が揺さぶられたり、考えたりしないですむのに、と思う事があります。
今日の福音で、思い出す聖書の箇所がありました。「永遠の命を得るにはどうしたらよいのでしょうか」とイエスに尋ねた金持ちの青年の話です。イエスは青年に、自分にとって一番大事なものを捨ててくるように求めました。私はここを読むと、自分が言われたようで、青年と同じような悲しい気持ちになります。
私にとって、一番大事なのはきっと「自分の我」だと思います。どうしてこんなにも、というぐらいきっと「自分の我」が大事です。「自分のいのちをささげる」というのは、私にとっては「我を捨てる」ということ。自分の為にいつも一生懸命やってきた私にはとてもむずかしいことです。

「イエスのために命をささげるとは何を意味しているのか…自分の場合どうすることだろうか。」 これはとても重い問いかけのおことばです。
 イザヤ書では、神は、あらゆる言葉で、ソドムやゴモラの民に怒りをあらわにしている。「…お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。」、この言葉は、はっきりイエスの教えと重なってきているように思います。
 マタイの福音書でもイエスのおことばは厳しい。自分は人々を敵対させるため地上に来たのだ、イエスに従うためには、大切だと思っている家族とも敵対しなくてはならないと人々に説きなさいと教える。 十字架を担ってイエスに従わなければ、イエスにふさわしくない。自分の命を得ようとするものはそれを失う。これはキリストの教えを信じる者にも向けられていることばである。 
弟子たちとイエス、イエスと神が固く結ばれた一体のものだから信じて宣教に行くようにと
力強く説いていることで、弟子たちの前途にも思いが行きます。
 
 

自分の命を顧みず、人の命を助ける行為をする人たちの話がしばしばニュースになります。
コロナウィルス感染を恐れず治療や看護にあたる医療関係者もいます。
人は時として驚くような自分では気づかない神の御業を、いつの間にか果たしていることもあるといえるのではないでしょうか。
思うに、自分では、神から見て善い行いをしてしているつもりでも、神の目から見たら「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか」になっていたようです。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」との言葉も妥協を許さない大変厳しいものがあります。そこには「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」というイエスとは全く違う別な顔があることに気づかされます。

しかし、イエスの弟子たちは、イエスの十字架と復活を目の当たりにして、イエスのみ心をしっかり受け止められるようになり、最後にはイエスのために自分の命までも献げていきました。
わたしたちキリスト者は、柔和で謙遜なイエスに従い歩んでいくうちに、次第にイエスに学び、厳しい試練を耐え忍び、復活の命を信じることによってむしろ喜んで生きていくことができるようになることも示唆しているようでもあります。
そしていつの日か、キリストの栄光の姿へと変えられていくことを信じて、今の困難を耐え忍び復活の喜びを共に味わうことができます様にと聖霊により頼み祈りたいと思いました。

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