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2020年7月 4日 (土)

新しいい革袋

74日 年間第13土曜日

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

イエスの福音は新しいぶどう酒。福音を入れる新しい革袋とは何か。

新しい革袋とは、イエスの福音を伝える教会のことだろう。その組織、制度、神学、典礼、霊性などすべて新しいぶどう酒にふさわしい新しい在り方、表現、方法をとっていなければならない。INCULTURATION インカルチュレーションという言葉がある。福音宣教する際、今の文化を通し、今の文化によって、人々に通じる新しい表現をとらなければならない。

 

ーー

第一朗読  アモス書 9:11-15
(主は言われる。)その日にはわたしはダビデの倒れた仮庵を復興しその破れを修復し、廃虚を復興して昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者とわが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続きぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせすべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないとあなたの神なる主は言われる。

 

福音朗読  マタイによる福音書 9:14-17
(そのとき、)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

「福音宣教する際、今の文化を通し、今の文化によって、人々に通じる新しい表現をとらなければならない。」
新しい教会、開かれた教会というテーマのもと、
1984年6月に「日本の教会の基本方針と優先課題」を発表され、その中での提案に基づき、3年後の1987年11月、京都において、第1回の福音宣教推進全国会議が開かれ、さらに、1993年秋長崎において第2回福音宣教推進全国会議が開かれたことを思い出します。
当時は、本当に教区を超えて各地で「開かれた教会をめざして」話し合いや、取り組みの報告会などの講座があり参加したものです。

あの頃の活気はどこへやら?と、今再び閉鎖的な教会へ逆戻りしているのではないかと思うこのごろです。
ここ近年、東日本大震災やそれに続く原発事故、そして各地での台風による水害、土砂崩れなどが起き、そして今はコロナウィルス禍により大変な数に上る死者も出て、先行きの心配と恐れが人々の間に生じはじめているのではないでしょうか。
今こそ苦しんでいる人々の助けとなるような教会でありたいとの思いを強くするものの、自分の無力さを嘆くばかりです。
でも、ふと光が差すような言葉が思い浮かんだので掲載させていただきたいと思います、
自分に都合の良い解釈ではありますが。

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわない者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

(ニューヨーク大学リハビリセンターの壁に書かれた患者の詩)

そして、気持ちを切り替えて、明日は明日の風が吹くと思いなおし、今を生きたいと思います。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」 古い制度や慣習や律法に支配されていた旧約聖書の時代から、イエスの教えの福音へと変われば、教会も新しいぶどう酒を入れるのにふさわしい革袋でなければならないということを、わかりやすくお話いただき、また、インカルチュレーションという意味も学ぶことができました。
マタイによる福音書の中で、イエスはいわれた、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。 しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時彼らは断食をすることになる・・・」。 ここでもイエスは自分と弟子たちにこれから起こることを告げていることに、はっとさせられます。


「あなたの息をおくってください すべてがあらたになるように」という歌詞が浮かびました。
イエスの新しい福音、教えを受け入れて伝えるには、それにふさわしいまったく新しいあり方でなくてはならない。
でも、人間には、何が「まったく新しいこと」なのかもよくわからないかもしれません。
新しいと思っても、それにこだわると、またそれが頑なさになるかもしれません。
以前、神さまには時間というものがないのだと教わりました。
神さまにとって「新しい」ということはいつも「今」「今」ということなのかもしれないと思います。神さまの前に日々新たな私で立つことができますように。

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