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2020年8月 7日 (金)

主の変容

主の変容 ミサ説教

202086()、本郷教会

86日は毎年「主の変容」の祝日となっています。

主の変容という出来事が受難の四十日前に起こったという伝承に基づいて定められた日であると言われています。

イエスは三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ、十二使徒ではなく三人だけを連れて高い山、タボル山といわれている山に登られて弟子たちの見ている中で非常に光輝く姿に変わられた。姿が非常に栄光に満ちた様子に変わられたと告げています。

その出来事に出会ってペトロは気が動転してしまったのでしょうか、何か訳の分からないことを言っています。

「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」

その時、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者、これに聞け」という声が聞こえてきた。

似たような出来事は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時も天から声がして、同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ317、マルコ111、ルカ322)と言われたと出ています。

この出来事は、何を意味しているのでしょうか。

普通、次のように解釈されている。

受難を目前としていたイエスは、弟子たちがつまずいてしまうことを心配して、あらかじめ事が起こる前にこの例外的な特別な出来事を目撃させて、彼らの信仰を強くしたのではないかと言われています。

そうしたにも関わらず、ペトロもヤコブもヨハネもイエスの十字架の出来事に際しては、この事を思い出したのでしょうか、恐怖に襲われて為すすべもなく非常にだらしない状態になってしまったわけであります。

今日の叙唱を見ると出ていますが、こうしてキリストのからだである教会の十字架の道によって栄光に至ることが示されました。

わたしたちの教会の主イエス・キリストに倣って十字架の道を歩むことによって、栄光に入ることができるということを予め示してくださったという意味であると思われます。

わたしたちの宗教というのは、ナザレのイエスという人をキリストであり、救い主であると信じる宗教であります。

彼は通常まったく普通の人間としての風貌や生活、様子を示していて特別なことはなかったわけですが、例外的に今日のような変容というできごと、あるは目覚ましいしるし、奇跡などをおこなって、自分が誰であるかということを人びとに示されたのでありました。

そのキリストによって造られた教会が、この世の中でキリストの存在と働きを出来得る限り現わし、そして行っていかなければならないのであります。

二千年の歩みの中で、さまざまな出来事があり、困難に出会い、あるいは人々のつまずきになるようなこともありました。

今わたくしたちの教会はどんな状態にあるのか。

日本のカトリック教会、世界のカトリック教会、カトリック教会といわずキリストの弟子たちはどういう状態にあるのか。

たまたま信者と限らず世界中の人はコロナウイルスという問題に悩まされています。

そういう中で、イエス・キリストの本来の姿、神の御ひとり子であり、神と等しい方であるということを現された変容の出来事を、弟子たちはいつも思い起こし、自分たちの働きを通して時々は復活の栄光を人びとに垣間見させることができているだろうか。

教会はキリストの復活の証人であります。

復活という出来事が毎日起こったら、人びとは忙しくて普通の生活をすることが出来なくなるでしょうが、時々人間の弱さの中にそれを超える、遥かに超えていく永遠の世界、復活の世界、朽ちることのない復活の体を受けるという信仰と希望を示すことができるような、そういう働きが教会のわたくしたちの間にあって然るべきだし、実際によく見えていないけれどもおこなわれているのではないかと思います。

今日、非公式のミサを献げることになって、自分は最後にいつミサを挙げたのだろうかと、ミサを挙げることが当たり前だと思って四十何年過ごしてきたけど、ミサも挙げない、挙げられない、そういう自分というものに大変力を落としていたんですけれども、不思議なんですね、慣れればそういうものだと思って、今日もミサ挙げなくていいんだというようになってしまう。それが良い事か悪い事か分かりませんが。

今日はミサというのは一人で挙げるものではありませんので、皆さんのおかげでささやかな非公開の個人ミサ、ミサ・プリヴァータを献げることができています。

最後にミサを献げたのは、もう思い出せないくらい昔のような気がするが、調べてみると75日だったんですね。ほぼ一か月前。

ちょうど都知事の選挙の日で、あの日一生懸命ミサを挙げたあと、香部屋で一休みしてから

本郷通りを横切って、昭和小学校の投票所に行って投票して来て、ああ今日司祭として都民としてやることを一応やることができたという思いを持ったことが思い出されますが、まだ一か月前。でも何年も昔のような気がしているのはどういう訳でしょうか。

ちなみに直接関係ないんですけど、今日韓国のある司教様が亡くなったという知らせを受け取りました。

日本の教会と韓国の教会は、近いけれども遠い関係にある両国の在り方を少しでも良くしようということで、日韓司教交流会ということを始めたわけです。

それは濱尾司教様が司教協議会の会長であった時のことですが、マニラでアジア司教協議会連盟の集会があった時に、浜尾司教と韓国の司教協議会の会長イ・ムンヒという方でしたが、会って話し合って、それぞれの国の有志の司教が参加してともかく顔合わせをして、知り合いになろうということになったんです。

それで毎年開かれて、結果的にほぼ全員が参加する行事になりました。

その時に向こうで最初からずっと参加してこの集いを支え進めてくださった司教のチャン・イックという方がいたんですけれど、チュンチョンという教区、春の川と書くんですね、「春の小川」の春の川、ソウルの北側にある教区なんですが、そこの教区の司教チャン・イック司教さんが毎回参加していまして、その司教様が亡くなったとのことで寂しく思いますが、教会が現実の中でイエス・キリストの復活を証しすることができるようにささやかな努力を続けていきたいと思います。

 

第一朗読  ペトロの手紙 二 1:16-19
(愛する皆さん、)わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。福音朗読  マタイによる福音書 
17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

 

 

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コメント

大司教様
大司教様、大丈夫です!!
今ゆっくりと療養したら、またいつも通りミサ挙げられるようになります。
毎日祈っているから、
私は絶対に大丈夫だと思ってます!!

最近、別の信徒から
「なぜ神様がいるのに悪があるのかな」
とホットな?タイムリーな?質問をされました。毒麦の喩えなどを用いて説明しようとしましたが、考えを言語化して伝えることは、私には難しいみたいです...。
やっぱり大司教様に黙想会で話して頂きたいとますます思いました。

イエスの変容の場面ではいつも天から、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」 という神の声がした。変容は弟子たちに特別な出来事を目撃させて彼らの信仰を強くさせるものだったが、ナザレのイエスは例外的な変容、目覚ましいしるしや奇跡を行って自分が誰であるかを人々に示されたのだった。このナザレのイエスを救い主であると信じることがキリスト教の信仰であることをあらためて確認することができました。
「時々人間の弱さの中に、それを越える、遥かに超えていく永遠の世界、復活の世界、朽ちることのない復活の体を受けるという信仰と希望を示すことができるような、そういう働きが教会のわたくしたちの間にあってしかるべきだし、実際よく見えていないけれども行われているのではないかと思います」 と 教会に対する熱い思いを語ってくださっている今日のお説教を拝読し、いろいろなことを想い、自分のこととして心に留めることができました。

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