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2020年9月

2020年9月30日 (水)

大天使の祝日

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使 祝日ミサ説教

2020年929()、本郷教会

 

9月29日は聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルの三位の大天使の祝日であります。

ミカエルの洗礼名の方、塚本さん、おめでとうございます。

ミカエルという名前の方は沢山いらっしゃると思います。

ミケランジェロ(1475-1564)という有名な画家がいましたが、ミカエルですね。

ラファエロ(1483-1520)という同じ頃の素晴らしい画家もラファエルの名前をとっていると思います。

教会の祈りの中に「毎日の読書」という読書課がありまして、聖書以外の貴重な教えを毎日司祭、修道者は読むことになっております。

今日の箇所をここにコピーしてきました。

聖グレゴリオ一世教皇という方の遺された「福音講話」が29日の第二読書課です。

第一読書課は聖書です。

毎年この箇所を読むわけですが、たいへん印象的な内容なのでご紹介したい。

天使アンゲルスというのは、「告げる使い」という意味です。

ラテン語ではアンゲルス、英語ではエンジェルでしょうか。

天使には大天使と大のつかない天使、大天使はアルカンゲルスと呼ばれます。

天使は人間じゃないので何人とは言わないで、昔の言い方ですと何位(なんい)、位(くらい)といっていましたが、最近は聞かないですね。

ちなみにこの天使の存在のことを最近はあまり意識しなくなっている。

霊的な世界というものについての感覚が非常に鈍くなっているように思う。

以前は行き過ぎとでも言われるような、神さまをそっちのけにして、天使とか聖人の方に関心がいっていたのかもしれないが、その反動でこの霊的な世界というものに対する敏感な感性というものが大変弱くなっているように思う。

目に見えない世界に対するわたくしたちの態度、感覚が非常に弱くなっている。

同じ天使でも堕落した天使が悪霊、悪魔であります。

 

今の教皇様、教皇フランシスコの出した使徒的勧告『喜びに喜べ』という本を一緒に勉強してきて、一応終わったわけですが、その時に強く教皇様がおっしゃっていたことを思い出します。

現代の人はあまり悪魔の存在に注意を払っていない、それは大変危険なことです。

悪魔というのは譬えに過ぎないとか、単なるおとぎ話とか、悪を人格化したものであるとか、そういうように考えてあまり大切なことと考えていないのは重大な問題である。

実際に悪魔は存在し、わたくしたちをいつも悪に誘っているのです。

その悪魔に対抗するためには、絶えざる祈りなどが必要ですというようなことを、この本の終わりの方で言っていて、同じことをパウロ6世教皇、列聖された聖パウロ6世教皇も教会公文書の中で言っていますよということを註で言っています。

 

霊的な世界に対するわたくしたちの感覚が鈍化していることは否めない事実です。

昔のことですが、わたくしは函館の男子のトラピストに行きまして、確か一か月程そこで過ごしました。

さっそくゆるしの秘跡を受けましたが、その時に受けた訓戒の言葉を一生忘れることができません。

人間は罪を犯しても何回も赦しを受けることができる。

しかし、完全に霊的な存在は一度でも、そして「思い」だけでも神に反すると、もう引き返すことができない。

天使の中で自分も神のようになろうと思っただけで、悪魔になってしまったということが言われている。

人間は何度でも痛悔し、回心して赦しを受けることが出来るが、純粋に霊的な存在は純粋ですので、思っただけでその結果が現れて、それは覆すことができない。

そういう意味であったと思います。

わたくしたちは身体、肉体を持っているので、自分たちの思うことや為すことは、悪いことについても不完全、不徹底なのですね。

しかし霊というのは、霊の世界に鈍いからよく分かりませんが、非常に純粋でありますから、それゆえ思っただけで神に反する存在になってしまうという意味であるようです。

(わたくしたちは)体を持っているのでその点良かったですね。

地上にいる間は大丈夫ですね。

大丈夫だからって、いい加減なことをして良いわけではないですけれども。

ちょっとそういうことを思ったりいたします。

天使にはそれぞれ役割がある。

天使の名前はその使命、役割に因んでつけられている。

ミカエルは「神のようなものがだれであるか」という意味であると先程読んだ朗読のヨハネの黙示に出てきますが、ミカエルは悪魔とたたかって悪魔のはたらきを封じ込めるという役割を与えられている。

昔のお祈りで、昔はよく「大天使ミカエルに向う祈」というのをしていたようです。

さっき慌てて探して見つけた祈りの本、懐かしいですね。

今読んでみます。

「大天使聖ミカエルに向う祈

大天使聖ミカエル、戦においてわれらを守り、悪魔の凶悪なる謀に勝たしめ給え。

天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。

ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、

天主の御力によりて地獄に閉じ込め給え。アーメン。」

格調高い祈りですね。

それからガブリエル。

主のお告げの時に現れた天使です。

おとめマリアに主のお告げをした大天使です。

ガブリエルという名前は「神の力」という意味だそうで、一人の貧しい少女マリアを通して神の力が現れましたという救いの歴史があります。

 

ラファエルも良く使われる名前ですが、ラファエルという言葉の意味は「神の医薬」という

意味です。

聖書の第二正典トビト記に出てきます。

今日は大天使の日ですが、確か第二バチカン公会議(1962-1965)の前は別々の日に祝われていましたが、整理されて三位の天使が同じ日に祝うことになったと記憶しています。

 

ちょっと話は飛びますが、司祭は生身の人間、弱い人間でありながら主イエス・キリストの使命を地上で実行するために選ばれ、そして地上の生活においてさまざまな誘惑を受けながら生涯を神のみ旨をおこなう者として神と使徒に仕えました。

先日(924日)帰天されたフランシスコ・ザベリオ岸忠雄神父様。

わたくしが個人的に親しくさせていただいた方ですけれども、長い生涯を終えて帰天されました。

主のもとで安息に入られますよう、お祈りいたしましょう。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:47-51
(そのとき、)イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

2020年9月27日 (日)

相手を自分より優れた者と思いなさい

年間第26主日説教

2020927

今日の福音は2人の息子についての、たとえ話です。

先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。

この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。(マタイ2131

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。

それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。

『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。

わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。

でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、

「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」

というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。

しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。

それは、第二朗読にある言葉です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。

そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。

まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

 

 

 

 

2020年9月22日 (火)

如何にして真の自己を知るのか

悪についての小考察その5 如何にして真の自己を知るのか

 

人は如何にして真の自己を知ることが出来るのでしょうか。真の自己とは何でしょうか。

難しい、しかし非常に重要な難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。

(『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。)

著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、わたくしにはあまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

「自己を知る」と言うときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamucha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るか(認識できるか)という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームと言う哲学者が居ました。(デイビット・ヒューム、1711-1776)

(以下、主として『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトと言う哲学者(ルネ・デカルト、1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない。」と言う命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」と言う存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がカント (エマヌエル・カント1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合し、合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きるという同じ条件のもとにある人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。彼は、人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。

 難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」というわれわれの目的にどのように貢献してくれるのか、正直に言って理解できていないのです。

我々の課題は、繰り返しますが、「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか。」ということであります。カントの世界はこの発想とは少し違うように感じます。

 人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実を受け止めるか。ヒュームの言う経験論の中に、この人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がします。しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りの精神) カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を本でしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。

 

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。既に「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。以後、稿をあらためて、ヒンドゥー教―仏教の考え方を学んでみたいと思います。

  

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分を知ることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら、命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階(ヒエラルキア)は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-6、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり、根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を想定するわけです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有であるところの「無」である、と考えることが可能ではないかと思うのです。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理な悲劇に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは『無』としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその考察の結果を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現が登場することです。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し、魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようです。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻。下線は筆者による。)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(「場所的論理と宗教的世界観」、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

 

2020年9月20日 (日)

あなたは「あなたであるだけで大切です」という世界

人がただその人であることだけで大切にされる「神の国」

920日 年間第25主日の福音朗読は「ぶどう園で働く労働者」の譬えです。この話は何を言っているでしょうか。自分にとってこの話は何を言っているでしょうか。最初から「模範解答」を出すのではなく、人間である自分がどう感じるか、ということから出発することが大切だと思うのです。

 誰しも思うのは、この主人は不公平だということです。このような賃金の支払いの仕方は今の社会ではありえないことです。

「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」という文句は当然のことでしょう。自分が朝早くから働いた人の立場にある人はそう思うのは当たり前です。

他方、5時ころ雇われた人は、「なんと有難いことだ」と思うでしょう。しかし、朝から働いた人には、「申し訳ない」と引け目に感じるかもしれません。

ぶどう園で働いた労働者の雇用された事情は様々です。労働時間と働き具合に応じて報酬が与えられるはずだと我々は考えます。それが資本主義と貨幣経済の中で生きている者の一般的な意識です。しかしぶどう園の主人の考えからは違います。朝から働き始めた者も、日暮れに仕事にありついたた者も、同じように一デナリオンが支払われるのです。5時から働き始めた人は、5時まで誰も雇ってもらえなかった人です。

ここで思うのは、人生の不公平さということです。人生は不公平です。人は自分の出生を選ぶことが出来ません。何時何処でどのような親の基で生まれるのか、ということを自分で決定できません。もしかして、生得の人間の条件――能力、環境、容姿等もその時から決定されているのかもしれません。遺伝子という考え方があった、人は遺伝子によって自分の在り方がかなりの範囲、程度で決められてしまうそうです。そもそも「人間にはどのくらいの自由があるのか」と言う重大な問題があります。障がいと言う条件をもって生を受ける者もいるのです。

人は生涯にわたって何等かも「評価」を受けています。今の社会でその評価の基準値は何でしょうか。人は評価されたいのです。今の時代、評価の基準は何か。入学試験の合否の基準は通常学力です。会社では何でしょうか。多分、総合的な意味での「仕事での実績を挙げる能力」でしょう。それでは能力のないものは救われないのです。イエスは「貧しい人々は幸いである。」と言われました。貧しい人々とは能力、健康、財力などに恵まれないものです。

それでは、この世での評価に値する何物も持たない者が、その人であるという一点で評価され大切にされ、なくてはならない存在とされる世界はないでしょうか。

今日のぶどう園の労働者の譬えは、そのような世界、「人がその人であるというだけで評価され大切のされる世界」を語っていると思うのです。イエスは「神の国の福音」を説きました。現実の社会は利益社会、いわゆるゲゼルシャフトですが、ぶどう園はいわゆる一つのいわゆるゲマインシャフトです。その代表は家庭です。しかしその家庭が本来の在り方をかなり喪失しているのが現状です。その家庭の替わるべき共同体として想定されるのが教会共同体です。イエスは「神の国の福音」を説きました。神の国とは神の思いが行き渡っていることです。第一朗読でイザヤは言います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

教会は限りなく『主のぶどう園』に近づかなければなりません。

人はあなたがあなたであることを嬉しく思う」と言う他の存在、人の交わりが必要です。

そのような人は、あなたにとって誰でしょうか???

 

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16

(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

第一朗読  イザヤ書 55:6-9

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

 

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-1:2427a

(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

 

2020年9月14日 (月)

悪について その5 真の自分を知る

悪についての小考察その5 真の自己を知る

 

西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。

「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

果たして自分で自分をしることができるのでしょうか。

自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。

このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。

人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。

自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。

中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。

『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』

人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら。命すらいらないと思うものです。

自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。

しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。

その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。

本稿はこの問題を考察するために書かれています。

人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は

種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい

です。

 

さて、わたし岡田武夫は、

動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種

に属する存在であるという事になります。

ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば

ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。

ここまでくるとこれ以下には細分できません。

例えば、

岡田武夫は日本人です。

岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。

目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。

考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。

人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。

ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。

岡田武夫は動物です。

こういう命題は成り立ちます。

しかし、

「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」

とは言えません。

主語と述語からなる文章では

主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。

それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。

「岡田は動物である。」その命題は、

 

「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。

しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。

ここで存在するものの位階は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。

これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。

西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。

 

「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。2

聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。

それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。

真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。

まず「無」の思想を考えてみます。

「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。

「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)-無の思想、55㌻以下 による。)

「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」

「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」

しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記314)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ424)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記204-5、他を参照

聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。

 

聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。

 

1:1 初めに、神は天地を創造された。

1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

・・・

1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2:1 天地万物は完成された。

2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

2:4 これが天地創造の由来である。

 

神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58)

わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformamateriaによって説明されました。小坂氏は言います。

「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」

世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり・根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を分けです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有である「無」であると考えることが可能ではないかと思われます。

世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。

 

既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理の不幸に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは「無」としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」

これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43)

 

『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその内容を紹介し感想を記すことにしました。

――

まず驚くことは、「悪魔」と言う表現です。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようである。(以下に引用する。)

絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)

 

判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67)とも述べているのです。

 

西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。

  われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)

わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)

西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。

「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)

 

わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻)

そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324)と言います・

これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。

人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。

人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。) 

人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。

 

さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。(災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ65

相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。

それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)

 

神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ316参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。

これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。

 

 ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。 (118-9)

 

ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。

また次のような例が挙げられます。

全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に

なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記65-6)

 

さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。

 

「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(場所的論理と宗教的世界観、334-335㌻より引用。)

 

このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。

わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。

不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。

絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。

 

――

1

生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。

たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、

種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、

属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、

科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。

分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、

「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」

に分けられています。

人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種

 普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。

  哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト

2.

2020910日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。

福音朗読 ルカ627-38

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。627「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

3.

2016.7.10 ()、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。

第一朗読 申命記3010-14

第二朗読 コロサイ115-20

福音朗読 ルカ1025-37

皆さん、おはようございます。

わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。

今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(1033-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。

この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。

今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。

昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。

惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。

今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。

今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。

また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。

今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

2020年9月11日 (金)

チェノット大使追悼ミサ説教

日本二百五福者殉教者記念日 ミサ説教

2020910()、本郷教会

一昨日の深夜午前129分のこと、駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様がお亡くなりになりました。

享年76歳でした。

チェノットゥ大司教様は、2011年の1020日に日本に着任されました。

2011年といえば、311日に東日本大震災の起こった年です。

日本の司教団は、東日本大震災についてのメッセージを準備して、全会一致で全員の共同の意見としての文書を採択し発表したのでありますが、そのための臨時の会議をしているところに新任の大使として来られたのです。

あれからそろそろ10年になります。

昨年の11月に教皇フランシスコが日本を訪問してくださったので、そのことで大変お忙しかったと思いますが、無事にその責務を果たされました。

インドの人で、ケララ州というキリスト教徒の多いところでお生まれになりました。

インドはヒンドゥー教の国ですけれど、キリスト教徒はどのくらいいるのでしょうか。

なにしろ人口が多いですから、キリスト教徒だけでも大変な数でしょうね。

いろいろなキリスト教の宗派があるようですが、ローマカトリック典礼ではないようで、ほかの典礼の教会だったようです。

それはともかく、昨年11月の教皇フランシスコの来日行事の一連を無事に終えられ、75歳の定年を迎えて故郷への里帰りを楽しみにされていましたが、コロナウイルスの問題で帰国が伸びている最中の58日に倒れた。

58日に倒れて、帰国がかなわないまま、98日にお亡くなりになりました。

58日というと私事で恐縮ですが、ちょうどわたくしも自分の病気で入院している時のことでした。

この訃報をくれた浦野神父様がまだ公式発表前に、「チェノットゥ大使が倒れちゃったけれど、あなたは大丈夫?」と連絡をくださいました。

倒れたのは58日で、亡くなったのは98日ですから、ぴったり4か月。

感慨深いものがあります。

葬儀の日程はまだ発表されていませんが、ある情報によるとインドでおこなうようです。

日本でもおこなうとは思いますが、大使館と司教団が相談中かもしれないですね。

彼が在任中、わたくしは非常に頻繫にチェノットゥ大使とお会いしました。

そうしなければならない、いろいろな用があったのです。

さまざまな場面が思い出されます。

難しい問題もありました。

迷った末、やはりお知らせしないといけないと思い、重い腰を上げて大使館に赴いたこともありました。

あの大使館(駐日ローマ教皇庁大使館)に何度通ったことでしょうか。

そのチェノットゥさんがこんなに早く帰天されるとは思いませんでした。

心から永遠の安息をお祈りいたします。

 

今日は二百五福者殉教者の記念日であります。

日本は殉教者の多い国です。

日本二十六聖人をはじめとして、多くの福者、殉教者がいます。

最近ではペトロ岐部と八十七殉教者が列福されましたね。

二百五人の列福は1867年、まだ禁教令が廃止(1873年)される前ですので、日本の教会を励ますためのピオ九世教皇のご決断だったと思います。

それから百数十年経って、今の日本はどうであろうか。

 

今日の福音はわたくしたちがよく知っている教えであります。

よく知っていて、だから毎日よく実行しているかというと、そうでもない。

いかにキリスト弟子として生きることが難しいかということを思い知らされる教えであります。

しかしこの中のほんの一部でも、わたくしたちはおこなっているとは思うのですね。

各自が胸に手をあてて、このイエスの言葉をどう受け取っているのだろうか。

このような教えを人びとに伝えることがわたくしたちの使命ですが、実行していないことを言葉で伝えてもあまり効果がない。

おこなっていることを言葉で伝えないと、聞く人には響かないわけであります。

 

話はちょっと飛びますが、このところ時間をいただいているので、日本の福音宣教のためになることについて、わたくしの感想を原稿にして、できれば一冊の本にしたいと思って準備中でおります。

いろいろな経緯があって、仏教の教えに今かなり入り込んでしまっています。

そして最近のブログに出しましたが(peterokadatakeoのブロブ 202097日「 山川草木悉皆成仏」)、日本では「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。

どこかで見たか聞いたかしたことがあるかもしれません。

「山川草木(さんせんそうもく)」、つまり山川(やまかわ)、草木(くさき)「悉皆(しっかい)」というのはすべて、「成仏(じょうぶつ)」は、仏になる。

仏になるのか、なっているのかそこは解釈が分かれますけれど、これは仏教の涅槃経(ねはんきょう)というお経から来たそうで、日本ではかなり発展したというか変えられて、そもそも、すべての生きとし生ける人間には仏性=仏の性質がある、仏の種が蒔かれているという意味だったそうです。

可能性がある、可能性があっても仏になっているわけではない。

我々がそうですけれども、すべてキリストの種が蒔かれている。

でもこういう教えを実行して輝いているというわけではない。

そういう人もいますが、非常に稀である。

まだ仏にはなっていないが、仏になれますよという、それは生きとし生ける人間のことだけれども、人間から広がって命あるすべてのもの、命があるかないか分からないけれど

山川草木ですから、存在するすべてのものが仏様の現れであるという、雄大な思想になっているわけです。

これは誰が言い出したのか、誰なのかを調べたけれど、日本の中で段々そうなってきたと

いうことであります。

時々ですけれども、嫌なやつだなあと思う時がある。

どうしてこんな人がいるのだろうと思ってしまうことがある。

それでもイエス様の言葉は、あなたが嫌だと思う人も、敵と思うような人も愛しなさい、大切にしなさい。

人間性に反することですけれども。

日本では、どんな人も仏さまだという考えが何となくある。

戦争でも、戦う時はやりますけれど死んでしまえば皆仏さまだ、敵も味方もないというような考え方もある。

そうすると今のわたくしたちとしては具体的にどうするのかと思いながら、話はいくつにも分かれてしまい纏まりがないのですけれども、

そもそも仏教では、存在するもの自体が本当に存在するのかという問題から出発している訳なので、そこを非常に楽天的にとらえて、仏さまはどこにでもいるのだというふうに捉え直したのが日本人であるというふうに考えられるのです。

だからキリスト教徒もそれに負けないように、教会の現実をみると、わたくしなどを見ると元気が出ないかもしれませんが、「山川草木悉皆成仏」、キリスト教ではどういうことになるのか、その辺を黙想していただけると良いかなあと思います。

ーーー

第一朗読  コリントの信徒への手紙 一 8:1b-711-13
(皆さん、)知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ(ます)。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。


しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

2020年9月 7日 (月)

山川草木悉皆成仏

    その4 悪についての小考察のその4 

「自己証明」から「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」の考え方へ

 

毎年、815日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の815日を前にして67日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

 

この問題に関して仏教では何と考えるのでしょうか。自己の解脱、悟りによって苦悩からの解放を説くブッダの教えから出発した仏教は、大乗仏教に発展し、さらに自分自身と如来の一致を説く教えに変容していったように思われます。軽率な結論は現に慎むべきですが、非常に魅力的な考え方だと思いますので、以下にその一端を紹介します。

 

 

「小考察その3」で引用しましたが、西田は以下のように述べています。

「真の自己を知るとは人類一般の善と一つになることであり、神の意志と一致することとなる。しかし、真の自己を知り神と合一するには、主客合一の力を得なければならない。そのためには、自分の偽我を殺し尽くし、この世の欲に死んで蘇(よみがえ)るのでなければならない。」(第十三章 完全なる善行 四 より)

 

この結論は、西田幾多郎個人の宗教体験と宗教理解を背景にしています。西さ個人は熱心な座禅の実践者でありまた浄土真宗に深く傾倒した人でもあります。そこで日本における仏教について今できうる限りのささやかな考察をしてみたいと考えました。(以下は主として、佐々木閑「集中講義『大乗仏教』、別冊100de 名著」NHK出版によりますが適宜他の資料も参考にしています。)

 

仏教は今から二千五百年前にインド北部(現・ネパール)の釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダルタを開祖とする宗教です。(以下、釈迦という。)釈迦は人生の苦悩を克服するために修行し35歳の時に菩提樹のもとで悟りを開きました。釈迦は80歳で亡くなるまで各地を遍歴し自分の悟りを教えました。この教えが仏教 の基本であります。仏教は中国を経て日本に伝えられ、中国と日本での新たな変貌を遂げました。それはもはや釈迦の最初の教えとは似ても似つかない『大乗仏教』の教えとなっています。佐々木閑『大乗仏教』は繰り返し、『大乗仏教は本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である」といっています。(p)浄土教については「ここまで変貌してしまうと、『釈迦の仏教』とは似ても似つかないものです。」(128)

しかしだからといって著者は大乗仏教の価値を否定しないでむしろ評しているのです。例えば次のように言っています。

「浄土教の教えは、お釈迦様の教えとはかけ離れたものになっているのは事実ですし、仏教で最も重要であるはずのお釈迦さまもどこかに吹っ飛んでしまっています。『釈迦の仏教』からは、『法華経』よりもさらに遠くに行ってしまった印象は否めません。でも、それはそれで価値を認めるべきです。宗教に正しいも間違っているもありません。大事なのは、「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」、この一点です。」(132)

大乗仏教はそれぞれ自分たちのよって立つ基準となる経典を定めました。そのなかでも『般若経』『法華経』『華厳経』『涅槃経』などがよく知られています。それぞれ大変魅力的な内容を持った経典です。それぞれ民衆の救いという観点を重視しています。そしてそのために道をそれぞれ誰でも歩めるような具体的な道筋を提供するようになっています。

今日日本の仏教宗派のほとんどは、人はすでに生まれながらに「仏性」、ブッダとしての本性・性質を持っている、と説いています。自らの中に在る仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダに成れる、と説いています。『涅槃経』という経典は、ブッダはこの世に常に存在しており、さらに「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想を唱えています。「一切衆生」とはすべての生き物、「悉」とは「ことごとく」という意味ですので、涅槃経は、すべて生きとし生けるものは仏性、仏の本性を持っていると説いているのです。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想はさらに発展して日本では「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」となりました。この言い方については以下の興味深い記事を参照ください。

 

 宮沢賢治の詩の世界、伝記的事項、「山川草木悉皆成仏」の由来(1)より、2031 

  もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。

 これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士氏によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。

 一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の論文によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。

 「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。

  また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。

 これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。

 これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。

  このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。

 以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して・・・」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。

 ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡631918519日)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡761918627日)

前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。

一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。

 賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。

 ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。

 また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。

 

本来釈迦の仏教では、各自が修行して苦悩から解脱することを教える自力救済の宗教でしたが、中国から日本へ伝達される過程で著しく実質的変貌を遂げ、成仏の主体も、人間から他の生き物へ拡大され、されに生物以外の被造物である山川草木にまで拡張されたのでした。

ここでキリスト教の立場から想起すべきことがあります。人間は創造主から自然等の被造物を治める務めを受けたと考え、その役割を濫用し、今日の環境破壊という問題を引き起こしています。それは教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の指摘するところです。人間は被造物の一部であり、その生存は自然に依存しており、大地とのつながりの中で存立できて来たことを失念して思い上がった暴挙に出て、自らの足元を危殆に瀕ししてしまっています。創世記二章によれば、最初の人間アダムとイブが創造主への従順と信頼をゆるがせにするという過ちを犯したために、人間と自然との関係に罅(ひび)が入ってしまい、人間と自然とのあるべき良好な関係が壊れてしまったのでした。この状態は修復されなければなりません。聖書は、神の救いの御業の結果「新しい天と新しい地」が完成すると言っています。(ヨハネの黙示211、二ペトロ313、イザヤ6517など) さらに使徒パウロは被造物のあがないに言及しています。(以下参照)

  ローマ書813-25

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(813-25)

人間は自分たちだけの救いを考えてきましたが、他の被造物との切っても切れない関係にある人間は、自然・宇宙のあがないと救いの中に自分の救いを位置付けなければならないとおもいます。

 

ところで自分の中に在る仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことではないかと考えられます。西田幾多郎が目指した境地はこれかもしれません。そのために雑念を取り払い心に無にすることが必要となります。座禅はこの「無心」の境地を目指す修行ではないでしょうか。道元が創始者の曹洞宗では「只管打座」を唱えています。道元はその際、座禅は「人は本来仏性を有している。座禅は自分の力で煩悩を消して悟りに至る修行ではなく、自分がすでにブッダになっていることを確認する作業である」と考えました。(『大乗仏教』174-175㌻より)

しかしこの考え方は誤解されやすいです。自分はすでにブッダになっているから何も努力の修行も不要になったと考えるとしたら、それは危険な考え方です。すでにブッダになったとはどういう意味か。煩悩を抱えたままであってもすでにブッダが宿っていて、共に、煩悩と戦ってくれると考えたほうが良いと思います。ブッダになる可能性を与えられている、ブッダになる種、あるいは胎児が宿っていると考えてもよいでしょう。(高崎直道『仏性とは何か』法蔵館文庫、参照)

さて、「仏性」「山川草木悉皆成仏」について現在の曹洞宗はどう考えているのでしょうか。これに応えることは甚だ僭越ですが以下の記事を参考に引用することをお許しください。

   この問題について現在の曹洞宗は例えば次にように説明しているようである。

以下は曹洞宗東海管区教化センター、道元さまのお言葉、正法眼蔵諸弁道話の巻より

 

「佛家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をし

るべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。いはんや広大の文字は萬象

にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち即心

即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのか

げなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖

単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」

真言宗では「即心是佛 即心作佛といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覚をとなふ」つまり是の心がそのまま佛であるから、あらためて修行しなくても即座に佛の位につけるという教えがあります。但しここにいう心とは「得道妙心」の心であり、欲望や煩悩妄想に侵されている自己中心的な心ではありません。否そのような心もある意味からはそれに含まれるのかもしれません。しかし「心」というのはやはり、いわゆる心の奥の奥にあるところの宇宙をあらしめているところの純粋な「心」でなければならないのであります。つまり心理学的に言うところの心ではなく、佛の真心という時の「心」なのであります。これを佛性とか法性とか真如とか言いますが、これを究明することが出来た人を悟りを得た人、つまり「覚者」というのであります。そしてそのような心の世界を悟りの世界、浄土ともいうことができると思います。この世界を日常体現し、この佛の真心で日常の行動の価値基準を決め規定するならば、この人は悟りを成就した人といい、「是心作佛」ということになります。この「心」を調整すれば宇宙の真理の世界が現れ、毘廬遮那佛の世界に住することが出来るという教えがあります。この「心」の調整の最上無為の方法を道元さまは「坐禅」であると説かれるのであります。仏法にはお釈迦さまの教えを法華経を中心とか華厳経を中心とか般若経を中心とかさまざまな中心のおきかたがありますが、もともと宗教とは思想・観念だけにとどまるものではありません。むしろその教えによって日常生活が豊かになり、限られた生命を全うできるかということが大切であります。したがって教の殊劣を対論し、法の深浅を論ずることは、無意味なことと言わなければなりません。いずれの教えもお釈迦さまの説かれた教えであり、どの教えから仏法に入っても悟りの世界は開けるのであります。要は実践こそ最も大切なことであります。正しい実践修行をするなかで、例えば草華山水を観ることの機縁によって悟りの境地に到ることもあるのであります。渓川のせせらぎの音を聴くことの機縁によって開悟することもありましょう。「草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。」とはこのことであります。また天地自然宇宙万物のあるがままの姿こそ真理そのものであり、広大な文字であります。この生きた文字を観ることなく、教義の深浅を論じ、観念の世界にのみとどまるなど無意味なことであります。一片の塵にも宇宙の真理が宿り、それを観じ実践するならば「いはんや広大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵におさまれり」となるのであります。あらゆる存在のあるがままの相こそ転大法輪であり、生きた経巻であります。身心一如、修証一等という教えがありますが、これらの教えは仏法は観念ではなく実践であるということを説いたものであります。このことを道元さまは「しかあればすなはち即心即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべか

らず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」と説かれるのであります。

 

正法眼蔵仏性の巻、より。

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。これわれらが大師釈尊の獅

子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。」

この「仏性の巻」は先の「正法眼蔵弁道話」の巻、「正法眼蔵現成公案の巻」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされています。この三巻の中で道元さまは「真理」を説き、「悟り」について説いておられます。この巻でいう「仏性」ということにつきまして道元さまが比叡山でのご修行中よりいだき続けられた疑問でありました。しかし、当時日本では道元さまのいだく疑問を満足に解きあかしてくれる人がいませんでした。それで道元さまはこの疑問を解くべく中国に渡られたのであります。この巻は仁治二年十月興聖宝林寺において弟子たちに説かれた巻であります。仏性ということは大乗仏教の成立とともに取り上げられた大きな問題であり、特に「大般涅槃経」ではこれを深く掘り下げられています。道元さまは中国に渡っても、すぐにはこの仏性について納得できる答を得ることが出来ませんでした。それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。ここにあります「釈迦牟尼仏言一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」というくだりは「大般涅槃経」の中にある一句であります。この意味は普通に読みますと「お釈迦様が言われるには一切衆生にはことごとく仏性がある。それは常住で、変わることが無い。」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。仏性とは「仏であることの本質」であります。ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきようにあることでありまして、執着を離れることであります。先の現成公案の巻や弁道話の巻においてお話しいたしました「あるがままにする」「空」の道理に従って「因縁所生」にあるということをいうのであります。 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。その方々は仏性の道理を正しく捉えて悟られたのであります。そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのでありますが、しかし、この仏性は弁道話のところでもお話しいたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。

自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。

道元さまのことばに修証一如というのがありましたが実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります。

正しい体験の世界に没入するとき、融通無礙の自己を会得しうるのであります。仏性は常住不滅でありまして、悟りを開かれた祖師方は不断の仏作仏行により煩悩の火が二度と起こらないのであります。したがって開悟された祖師方でもその後もたゆまぬ修行をつづけられるのであります。行持道環であります。道元さまはこのことを次のように詠じておられます。

 峰の色 渓のひびきも

みなながら

我釈迦牟尼の声と姿と 

 

それはキリスト者の場合と同じです。すでにイエス・キリストと出会い、聖霊を受けて者はキリスト者です。キリスト者の体は聖霊の神殿となっています。しかし、悪の誘惑から完全に開放されているわけではありません。日々聖霊の導きを受けて浄められ新たにされより聖なる者となるべき存在です。使徒パウロが言っているように、キリスト者は肉の業を避け、礼の導きに従って歩むべきものです。ガラテヤ書は教えています。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しまししょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ516-26)

 

 

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