悪についての小考察その5 如何にして真の自己を知るのか
人は如何にして真の自己を知ることが出来るのでしょうか。真の自己とは何でしょうか。
難しい、しかし非常に重要な難しい問題です。
西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。
ここの一冊の哲学の入門書があります。
(『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行。著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。)
著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、わたくしにはあまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。
「自己を知る」と言うときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamucha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)
さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るか(認識できるか)という問題です。
18世紀のこと、英国にヒュームと言う哲学者が居ました。(デイビット・ヒューム、1711-1776年)
(以下、主として『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトと言う哲学者(ルネ・デカルト、1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない。」と言う命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」と言う存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。
そのような状況で登場した偉大な哲学者がカント (エマヌエル・カント1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合し、合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。
確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きるという同じ条件のもとにある人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。彼は、人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。)
難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」というわれわれの目的にどのように貢献してくれるのか、正直に言って理解できていないのです。
我々の課題は、繰り返しますが、「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか。」ということであります。カントの世界はこの発想とは少し違うように感じます。
人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実を受け止めるか。ヒュームの言う経験論の中に、この人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がします。しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。
理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りの精神) カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を本でしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。
このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。
(しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)
さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。既に「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。以後、稿をあらためて、ヒンドゥー教―仏教の考え方を学んでみたいと思います。
西田幾多郎は最初の著作、『善の研究』において「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。西田幾多郎の生涯はそのために真摯な努力と思索の生涯でした。
「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。
果たして自分で自分を知ることができるのでしょうか。
自己とは何か。自己とは誰か。自分は何処から来て何処へ行くのか。
このような問いは誰しも抱く重要な問いかけであり、人は誰しも、人生のどこかの機会に抱く問題ではないでしょうか。このような問いは極めて宗教的な問題であります。西田幾多郎自身極めて宗教へ傾倒した人でしたが、この問題を宗教の信奉者つぃてではなく、一哲学者として解き明かそうと努めました。彼の思索は、『善の研究』依頼終始、この問題への取り組みであったと言えましょう。
人は直接自分自身を見ることが出来ません。これは自明の理です。目は目以外の物を見ますが目自身を見ることが出来ません。目という存在は見るためにあるのであり、見られることを予想していないのです。それは、火が、他の物を燃やし破壊するためにあるのであり、火が火自身を燃やすことはない、という事と同じです。
自分自身を見ることのできない人間は、他の人に自分自身を見てもらいます。
中国の歴史書、「史記」の中に次のような言葉が残っています。
『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容(かたち)づくる(化粧をする)。』
人の強い願望の中に、「自分を知ってもらいたい」という欲求があります。人は自分を知ってくれる人のためなら、自分のすべてを知っても自分を自分として評価してくれる人に出会ったなら、命すらいらないと思うものです。
自分で自分を直接知ることが出来なければ、自分を知る者に出会うことによってそれが可能になります。
しかし人生の体験によれば、それはなかなか難しい、珍しい事例ではないでしょうか。しかし、西田幾多郎の考察によれば、「自分の中に自分を映す鏡のような場所がある」と言っているようです。
その「自己の中に自分を映す鏡」のことを西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んでいます。それでは「絶対無の場所」とは何であるのか。
本稿はこの問題を考察するために書かれています。
人は自分をどう位置付けるでしょうか。生物としての自分は、他の生物と同じように、段階別に分類されます。その位階は
種・族・科・目・綱・門・界(しゅぞくかもくこうもんかい)注1
です。
さて、わたし岡田武夫は、
動物界、脊椎動物門、哺乳綱、サル目、ヒト科、ヒト属、ヒト種
に属する存在であるという事になります。
ヒト種の下には各個別の階層が存在します。例えば
ヒト→日本人→男性→東京都民→文京区民→本駒込5丁目4番地3号の住民。
ここまでくるとこれ以下には細分できません。
例えば、
岡田武夫は日本人です。
岡田武夫は男性です、都民です、文京区の区民です、本駒込5-4-3の住民です。
目下のところ本駒込5-4-3の住民は岡田武夫一人です。すると文京区本駒込5-4-3の岡田武夫で特定されます。これ以下に細分化されない個人となります。
考えてみれば、地球上に生きている何十億の人類は、このような方法で特定の個人に収束されます。
人に限りません。いまわたくしはマグカップでコーヒーを飲んでいます。同じ製品は他にも存在するでしょうか、これは唯一です。もう30年くらい愛用しており、取っ手が取れたのをある人が修復してくれました。世界中に、頃と全く同じものは他には存在しないのです。
ヒト種に属する岡田武夫は動物界に属しています。
岡田武夫は動物です。
こういう命題は成り立ちます。
しかし、
「動物は岡田武夫です。」「都民は岡田武夫です。」
とは言えません。
主語と述語からなる文章では
主語は述語の中に含まれています。動物は岡田武夫を包摂する、より広く高い概念です。岡田武夫は述語になりえても主語になりえません。最終的に「岡田武夫は岡田武夫です。」としか言いようがないのです。岡田武夫という存在は、個別化・特殊化の究極の到達点です。真の自己を知る、というときには、この個別化の岡田を知ることであるはずです。
それでは包摂する概念である述語の上限はどうなるでしょうか。
「岡田は動物である。」その命題は、
「動物は被造物である。」となります。それでは被造物の上位の範疇は何か。見つかりません。キリスト教では被造物は神によって造られたと考えています。そうなると、被造物の上は神しかいないことになります。
しかし全被造物を包摂する被造物は無いのです。それは、全被造物を創造した存在は神としか考えられません。しかし神は被造物ではありえません。
ここで存在するものの位階(ヒエラルキア)は終結し、存在させた存在である創造主へと論議がつながれます。これがユダヤ―キリスト教―西洋哲学の論理でありましょう。
これはいわば「有」の世界です。「有」の世界に対して東洋では「無」の世界を考えます。「有」の世界では一般と特殊、主語と述語の関係を追及すると神という存在に到達しますが、「無」の世界ではどうなるのでしょうか。
西田哲学によればそれは「絶対無」という「場所」になるというのです。
「有」の世界で自分を知るとは、他者との関係で自分を知るという事になります。他者との関係といえば聖書は「愛する」という論理を展開します。注2
聖書では明白にキリスト信者は「敵を愛しなさい」と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。そして、この掟を命令している神を信じる者は、神とその御独り子イエス・キリストの前で、その出会いと交わりの中で、自分を映し、真の自分の姿を知るのです。
それでは「無」の世界ではこの点はどうなるのでしょうか。ここで出て来る自己認識の道は「自己において自己を知る」ということです。これはどういうことでしょうか。自分で自分を知ることが出来るのでしょうか。
真の自己と出会うために自分という個人から出発し、個人→人間→創造主、という順番で自己を探求する方法が従来の西洋の「有」の哲学・神学の方法でした。そのために、司祭志望者は、神学を学ぶための前提として哲学を、認識論や存在論を学びました。そのうえで神の啓示であるに人間とその救いを教える神学を学んだのです。しかし「絶対無の場所」からの考察とはどうなるのか。
まず「無」の思想を考えてみます。
「無」とは何か。文字通り存在しないという事なのか。何もないという事なのか。
「有と無とか言うのは、存在するとか、存在しないとか言う意味ではない」、といいます。(以下の記述は、主として、小坂国継『西田幾多郎の思想』、第四回 西田哲学の性格(2)―-無の思想、55㌻以下 による。)
「この点に関して言えば、有の無も、どちらも真の意味で存在するもの、すなわち真実在を表わす言葉である。」
「なぜ真実在を無といったりするのであろうか。真に実在するものは有であるのが当然で、真実在が無であるというのは矛盾ではなかろうか。このように考えるのは、ある意味でもっともなことである。しかし、ここで有というは、具体的に、『形がある』ということであり、反対に無というのは『形がない』ということである。したがって、正確に言えば、真実在を『形のあるもの』と考えるのが有の思想で、反対にそれを『形のないもの』と考えるのが無の思想という事になる。」
しかし、これは真に聖書の思想だろうか。神は「わたしはあるという者」(出エジプト記3・14)であり、存在そのもので形のないものです。イエスもサマリアの女に向かって「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4・24)と言っています。神は靈であるので、偶像その存在を表現することを厳しく禁じています。
(あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20・4-6、他を参照)
聖書の神は実に「形のない霊」である神であります。
聖書の創世記の一章は、天地万物の創造を語っています。
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
・・・
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2:1 天地万物は完成された。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。
神が創造される前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の神の霊が水の面を動いていた。」という状態であったのでした。この説明を通常、「無からの創造」といっていますが、それは何もないという意味の「無」からの創造と解釈しなくともよいのではないでしょうか。ここでは「すべての物が神を原因としており、神によって造られないものは何ひとつないということを説いたものであり、一切の有の根源としての純粋形相である神(絶対有)の存在が想定されている」(同書57㌻)のであると思われます。(もちろん、形のない無自体、神の創造によると考えられます。)それに対して東洋では伝統的に、あらゆる形のあるものの根源には形のないものを考えてきた。すべて形のあるものは形のないもの、すなわち無から生ずるというのである。いいかえれば、一切の有は無のあらわれであるというのである。したがって、ここでは、恒常不変な実体は否定される傾向にある。永遠に変化しないようなものは何一つとしてない、という東洋の伝統的な考え方であった。」(同書57-58㌻)
わたしたちが引き継いだキリスト教思想は多分にギリシャ化したものです。本来のヘブライ思想がギリシャ社会へ伝えられる過程でギリシャ哲学の影響を受けています。わたしが受けた哲学の教育もスコラ哲学であり、存在は形相と質量、すなわちformaとmateriaによって説明されました。小坂氏は言います。
「ギリシャにおいては、無は形の欠如したもののことであり、また形をもたないもののことであった。しかし、東洋においては、それはあらゆる形の根源であり、あらゆる形を生み出す原動力のことであった。・・・ギリシャにあったのは有の反対概念としての無であり、有の欠如としての無であった。有とは、形相すなわち形をもったもののことであったから、それと反対に無とは、形のないもの、形を欠いたもののことであった。したがって、それは正確に言えば、無ではなく『非有』であったのである。」
世界の始まりをどう考えるか。大きく二つに分けられます。世界の始まり、根源を「形のあるもの」と考えるか、あるいは「形のないもの」と考えるか、です。有にはその存在の根拠・原因がなければならない。その原因を追究していくと無限の連鎖に陥ってしまいます。そこで第一原因、すべての存在の根源となる原因として創造主を想定するわけです。この創造主は果たして「形ある存在」の有であるのか。形のない有であるところの「無」である、と考えることが可能ではないかと思うのです。
世界の根源は最も普遍的なものであり、一切を含むものであります。それが「形あるもの」と考えれば、それを包むより大きな形あるものが想定されなければならなくなります。それが「形のない有」と考えれば、一切のものを含むことが可能となります。
既に述べたように西田の哲学の動機と出発点は自己の人生の悲哀でありました。家族を襲った数々の不条理な悲劇に直面して彼は徹底的に自己の内面に沈潜し、「自己の内なる根源に向かうことで、もはや、人生の悲痛や苦悩を楽しみに一喜一憂している自己や自我なんどというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したものは『無』としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』に他なりません。・・・」
これは経済学の学者である佐伯啓思の言葉です。(佐伯啓思「西田幾多郎」無私の思想と日本人、43㌻)
『善の研究』において、善とは真の自己を知ることであるという結論に達し、そこへ到達するために西田幾多郎は哲学者としての真摯な歩みを開始しました。そのために最初の概念が「純粋経験」(直接経験)でした。純粋経験はさらに『場所』の論理、そして『絶対無の場所』、そして最後に、晩年に至り『絶対矛盾的同一性』という論理に到達しました。その次第は『西田幾多郎哲学論集I,II,III』(岩波文庫)により追跡することが出来ます。特に、『西田幾多郎哲学論集III』に所載の二つの論文、『絶対矛盾的自己同一』と『場所的論理と宗教的世界観』は繰り返し西田哲学の論理の展開を語っています。しかし、その用語と説明は極めて難解であり、その叙述は、あたかも他者に説明するより自問自答しているような印象を与えます。自分で自分に言い聞かせているような言い方を理解するのには困難を来たします。しかしこのなかに日本の福音宣教のために非常に重要な課題が含まれています。熟慮の結果、今回は筆者に心に強く響いた事項あるいはよく理解できた事項に限ってその考察の結果を記すことにしました。
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まず驚くことは、「悪魔」と言う表現が登場することです。『絶対矛盾的自己同一』の世界には悪魔が潜んでいるというのです。これはどういう意味だろうか。直観には我々を唆し、魂を殺してしまう悪の力が潜んでいると言っているようです。(以下に引用する。)
絶対矛盾的自己同一の世界においては、主と客とは単に対立するのではない、また相互に媒介するのでもない。生か死かの戦いである。絶対矛盾的自己同一の世界においては、直観的に与えられるものは、単に我々の存在を否定するものではない。われわれの魂を否定するのでなければならない。単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。それはわれわれを生かしながら我々を奴隷化するのである。我々の魂を殺すのである。・・・環境が自己否定的に自分自身を主体化するということは、自分自身をメフィスト化することである。直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。・・・作用が我々に逆に向かい来る所に、真の直観というものがあるのである。故に真の直観の世界は、我々が個別的であればあるほど、苦悩の世界であるのである。・・・本能的動物は悪魔に囚われるということはない。直観とは、我々の行為を惹起するもの、我々の魂の底までも唆すものである。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、62-63㌻)
判断と意志の主体である個別的自己である我々は、日々世界の中で能動的創造的に生きるように招かれています。創造の立場から見れば、過去と未来は対立する。その際「歴史的過去として、直観的に我々に臨むものは、我々の個人的自己をその生命の根底から否定せんとするものでなければならない。かかるものが、真に我々に対して与えられたものである。行為的直観的に、我々の個人的自己に与えられるものは、単に質料的ではなく、単に否定的ではなく、悪魔的に我々の迫りくるものでなければならない。」(同書、66-67㌻)とも述べているのです。
西田幾多郎の哲学によれば、この世界は「絶対無盾的自己同一」の世界で在ります。この世界に置かれている人間はもちろんその『絶対矛盾的自己同一』を免れないのです。彼はドストエフスキーに言及しながら言う。
「われわれの自己というものは、考えれば考えるほど、自己矛盾的存在であるのである。ドストエフスキーの小説という者は、極めて深刻に、かかる問題を取り扱ったものであるということができる。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、344㌻)
わたしたち人間は、それぞれこの世界に存在する無数の個別的存在として、矛盾的自己同一的世界の個物としてわれわれは自己成立の根底において自己矛盾的である。(『西田幾多郎哲学論集III』所載、絶対矛盾的自己同一、77-78㌻参照)
西田はさらにキリスト教の原罪にも言及して次のように言っています。
「人間はその成立の根源において自己矛盾的である。知的に成ればなるほど、意的に成ればなるほど、爾(しか)いうことができる。人間は原罪的である。道徳的には、親の罪が子に伝わるとは、不合理であろう。しかしそこに人間そのものの存在があるのである。原罪を脱することは、人間を脱することである。それは人間からは不可能である。唯、神の愛の啓示としてのキリストの事実を信じることによってのみ救われるという。」(『西田幾多郎哲学論集III』所載、場所的論理と宗教的世界観、364㌻)
わたしたちは真の自己を知る、という目的に向かって歩んでいます。この歩みの中で宗教とは何でしょうか。宗教とは「我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、初めて意識される」(同論文、322㌻)と言います。宗教とは「我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言古された常套句である。」(同論文、323㌻。下線は筆者による。)
そして「我々の自自存在の根本的な矛盾の事実は、死の自覚にあると考える。」(同論文、324㌻)と言います・
これはどういう意味だろうか。根本的な矛盾とは何か。
人は死という絶対的事実を自覚します。死という厳粛なる事実の前に、自己の存在自体に思いを馳せざるを得なくなります。肉体的な死は誰しも自覚します。では精神的死あるいは霊魂の存続についてはどうなのでしょうか。人は死後の存在をどう考えているのでしょうか。
人は不可逆的な人生の終局,つまり死を意識する時に、永遠の世界、つまり絶対に無限である世界、あるいは絶対者を意識する。意識するということは永遠への思いが人間には宿っているということである。地上の人生に終局があるということには疑いがない。人は自分で地上の存在を永続できない。その思うときに、人生の唯一性、一回限りの時間を意識する。しかし永遠への思いを無くすことはできない。死は終わりであるが終わりではない。(終わりではないのではないか、という考えも含める。)
人の生涯は死への道程であります。生と生、終わりと始まり(死を新しい出発と考える立場、例えばカトリック教会の教え。)。相対立する二項目が同時に存在する。はたして死と生とは矛盾するのか。死は生であり生は死であると言えないか。生とは本来死を孕むものであるので、その生を矛盾と考えなくともよいのではないか、とも思われます。
さて、相対的なものが絶対的なものに対するということが死である、と西田は言う。(同論文326㌻)確かに預言者イザヤが神を見たときに彼は言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤ6・5
相対的なものが絶対者に対するとは言えない。相対に対する絶対は絶対ではない。
それではいかなる意味で絶対が真に絶対であるのか。絶対は無に対することによって真の絶対である。自己の外に自己を否定するもの、自己に対立するものがあるならば、その自己は絶対ではない。「絶対は、自己の中に、絶対的自己否定を含むものでなければならない。而して自己の中に絶対的自己否定を含むということは、自己が絶対の無になることでなければならない。自己が絶対的無とならざる限り、自己を否定するものが自己に対して立つ、自己が自己の中に絶対的否定を含むというは言えない。故に自己が自己矛盾的に自己に対立するということは、無が無自身に対して立つということである。真の絶対とは、此(かく)の如き意味において、絶対矛盾的自己同一的でなければならない。我々が神というものを論理的に表現する時、斯く言うほかはない。そこで神は自己自身の中に絶対的自己否定を含むものである。絶対とは無対立であるだけではなく絶対否定を含むものである。絶対はどこまでも自己否定において自己を有(も)つ。「神は愛から世界を創造したというが、神の絶対愛とは、神の絶対的自己否定として神の本質的なものでなければならない。」(この論理は同論文326-328㌻などで展開しているので参照してください。)
神が自己否定するとはどういう意味でしょうか。確かに「愛」は自己否定に深くかかわります。神はその独り子を賜る人この世を愛して下さった。愛する御子イエスが十字架に架けられることを敢えて妨げなかったのでありました。(ヨハネ3・16参照) 神が御子を派遣したこと、御子が十字架に架けられたことなど、はたして「神の自己否定」と言えるだろうか。神の愛とは言えるでしょうが。
これと関連してホセアの預言言葉が想起されます。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。 (11・8-9)
ここでは、神は激しく身悶えし、怒りと憐みに心が引き裂かれています。結局神は怒りに打ち勝って憐れみの方を選びます。このホセアの預言は「神の自己否定」を表わしているのでしょうか。
また次のような例が挙げられます。
全能の神なのに自分の決定を悔い決定を覆すというようなことがありえるのでしょうか。創世記にはそのように読める記述があります。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に
なって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6・5-6)
さて、先に「神自身が絶対矛盾的自己同一である」と言う考え方を取り上げ、その際、悪魔的と言う表現さえ使われました。西田、幾多郎は同じ論文、「場所的論理と宗教的世界観」の中の別の箇所でも「悪魔的」と言う表現を使っています。
「神が自己自身において自己の絶対的自己否定を含み、絶対の自己否定に対するということは、単に神のない世界、いわゆる自然の世界に対するということではない。単なる自然の世界は無神論的世界である。あるいはまた無神論者的に、自然の秩序に神の創造を見るということができる。真に神の絶対的自己否定の世界とは、悪魔的な世界でなければならない。・・・極めて背理のようではあるが、真に絶対的なる神は一面に悪魔的でなければならない。」「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない。悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神であるのである。」「絶対のアガペは、絶対の悪人にまで及ばなければならない。神は逆対応的に極悪の人の心にも潜むのである。単に鞫(さば)く神は、絶対の神ではない。斯く言うのは、善悪を無差別視するというのではない。」「わたしの神と言うのは、…自己自身において絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるからである。」(「場所的論理と宗教的世界観」、334-335㌻より引用。)
このような西田哲学の論理をどのように理解することが出来るでしょうか。神とは絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一であるという主張をどう受け止めることが出来るでしょうか。
わたしたちは自分自身が矛盾と言う問題を抱えた存在であるということは直観的に理解します。キリスト教ではそれを「原罪」と言います。キリスト教徒でなくとも人間は有限な存在であり、不完全であり、人生の種々の困難に直面するものであると理解していると思われます。生・病・老・死の四苦、それに会者定離、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦は人々が人生の当然の苦悩と理解しています。そのような人間存在を自己矛盾と言うのは理解できます。(最も絶対矛盾とは分かりにくい言い方ですが。)またこの世界の中に矛盾することが多々あることも何となく直観的に理解しています。しかし、神・仏を「絶対矛盾的自己同一である」と理解することは困難です。ともかく「絶対矛盾的自己同一」という用語が理解を難しくしています。全知・全能の神とは、そのうちに矛盾を含まない、均質・均一の存在ではないだろうか。神が迷ったり悩んだり考え込んだりするということは考えられない。神の中に矛盾があるとは夢にも考えない。(もっとも既述のように、聖書はホセア預言書において、あるいは、創世記の中で、葛藤し煩悶する神の心を伝えています。)「神とは不動の動者である」という理解が伝えら、この神理解を前提としたカテキズムが行われてきました。
不動の動者とは、それこそ誰かによって、何かによって動かされることはありえない存在です、自らは動くことなく被造物を動かすのが創造主である神です。これはギリシャ哲学の考えた神であります。聖書の神ではありません。聖書の神、イエスの神は人々の悲しみ苦しみに深く共感する神、スプラングニゾマイ(ギリシャ語表記はσπλαγχνίζομαι。イエスが人々の苦しみに深く同情した時使われたギリシャ語の動詞。巻末の説教を参照。)の神です。注3
絶対の神は被造物になることはできません。しかし敢えて永遠のみ言葉が人となった。これは西田哲学の言う「神の自己否定」にあたるのかもしれません。このような「神理解」は西田哲学の理解に通じます。愛である神は超然として上から支配することは良しとはしないで、自ら民に預言者を遣わし最後には御独り子イエスを派遣し、イエスが磔刑に処せられるのを敢えて妨げなかったのだ、とキリスト教は理解しています。このような神は上述の西田幾多郎の神とほぼ同じではないでしょうか。
――
注1
生物とは、生きた物のこと。バクテリア(菌類)も植物も動物も生物です。
たくさんの生物は、類縁関係が近い種ごとにグループ分けされています。地球上には、バクテリアから植物から動物まで発見されているだけで約100万~170万種の生物がいるとされています。類縁関係が近い種類をまとめて1つの「種(しゅ)」、
種同士で類縁関係が近い「種」をまとめて「属(ぞく)」、
属同士で類縁関係が近い「属」をまとめて「科(か)」、
科同士で類縁関係が近い「科」をまとめて「目(もく)」、というふうに、階層として分けられています。
分類の区切りは階層と呼ばれ、大きな階層から、
「界(かい)」、「門(もん)」、「綱(こう)」、「目(もく)」、「科(か)」、「属(ぞく)」、「種(しゅ)」
に分けられています。
人間はヒトという種類の生物なので、動物界 脊索動物門 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属 ヒト種
普通、グループとか仲間という意味で「類」も使われます。「哺乳綱」とか「鳥綱」と表すよりも、哺乳類とか鳥類と表現するほうが、一般的でおなじみ。
哺乳類 サル類 ヒト科 ヒト
注2.
2020年9月10日のミサで読まれる福音書は以下の通りです。
福音朗読 ルカ6・27-38
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。6・27「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
注3.
2016.7.10 (日)、鹿沼教会司牧訪問に際しての、岡田大司教による年間第15主日の説教。
第一朗読 申命記30・10-14
第二朗読 コロサイ1・15-20
福音朗読 ルカ10・25-37
皆さん、おはようございます。
わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。
今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(10・33-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。
この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。
今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。
昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。
惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。
今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。
今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。
また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。
今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。
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