無料ブログはココログ

« 如何にして真の自己を知るのか | トップページ | 大天使の祝日 »

2020年9月27日 (日)

相手を自分より優れた者と思いなさい

年間第26主日説教

2020927

今日の福音は2人の息子についての、たとえ話です。

先週の日曜日の話もたとえ話で、ぶどう園で働く労働者のことでした。今日も、ぶどう園で働きなさいという話です。

この話は、わたしたちに、何を告げてくださっているのでしょうか。わたくしの心に強く残る、イエズス様のお言葉は、次の箇所です。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。(マタイ2131

徴税人、あるいは、娼婦と呼ばれる人たちは、代表的な罪人とされていました。罪人というのは、神様のおきてを守らない、あるいは、守ることができない人々です。蔑(さげす)まれ、嫌われ、見たくもないとされるような、汚れた人々とされていました。

この、徴税人や娼婦に対して、立派に神様のおきてを守り、そして、教えている人々、聖書では、しばしば、ファリサイ人、あるいは、律法の専門家と呼ばれている人々を指しているようですが、今日は、祭司長、民の長老という人たちに向かって、イエスは言われております。

いずれにせよ、この人たちは、洗礼者ヨハネの言葉を受け入れなかった。受け入れる必要を認めなかった。自分たちは、きちんと、神様の言葉を守り、人々に教え、そして、立派に民の指導をしていると、指導を受け入れない、哀れな困った人たちが、徴税人や娼婦と呼ばれる人たちでした。

祭司長、民の長老、あるいは、たぶん、律法学士、ファリサイ派の人々は、自分たちは、立派に神様のおきてを守っているし、神様のみ心に適う者であるという自覚を持っていた。自負していたと思います。

それに対して、徴税人、娼婦の方は、日頃から、自分たちのしていることは良くないことだと思い、さらに、自分たちが、人々からどのように思われているかということも分かっていました。

ここに、対照的な2つのグループがある。「自分は神様のみ心を行っている者である」という人たちと、「神様の定めから大きく外れている者である」というように自覚する人たち。わたしたちは、どちらでしょうか。あるいは、両方でしょうか。

さて、このイエスの言葉、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」というお言葉は、どのような意味でしょうか。

『徴税人、娼婦たちは、自分たちが罪人であり、そして、罪の赦しを受けなければならない者であるという自覚を持っていた』ということに注目したいと思います。

また、この2人の息子の話ですが、「ぶどう園に行って働きなさい」という呼びかけは、どのような意味でしょうか。

わたくしは、次のように考えています。『ぶどう園に行って働く』ということは、イエス・キリストによって示された、神の愛、神のいつくしみ、罪深い人間を受け入れ、赦してくださる、神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います。

わたしたちは、洗礼を受けたとき、「信じます。悪霊とそのわざを捨てます」というような約束をしました。まして、修道誓願を立て、あるいは、司祭の叙階を受けた者は、もっと、何重にも、そのような決意を新たにしました。

では、その通りにしているか、100パーセント大丈夫かと言いますと、他のかたは存じませんが、わたくしは、本当に恥ずかしい。内面、「忸怩(じくじ)たる思いがする」のであります。きちんと、約束したことを守り切ってはいない。

でも、そうしなければならないと思い、いつも祈ります。「あなたは、わたしのことをすべてご存知です。わたしが、どのような状態にあるか、わたしの心がどのようなものであるかをご存知です。どうか、それを承知の上でも、このわたしを赦し、務めを果たすことができるよう、励まし、導いてください」。そのように祈ります。

この祭司長、あるいは、民の長老、律法学士、ファイサイ派の人の心の中に、そのような思いがあったかどうかは、知ることができませんが、イエスが、別の箇所で、彼らに向かって、

「あなたがたは、白く塗った墓のようなものである。外側は綺麗だけれども、中は醜い。人間の死骸で一杯だ」

というような、大変な強い非難の声をぶつけているところからしますと、自分たちは、外側だけではなく、内側も問題なく綺麗だと思っていたのかもしれない。

しかし、いかに立派な人間であっても、わたしたちは、100パーセント、すべて神様に満足いただけるような人間にはなり切れないと思います。

さて、そのように思いながら、今日の朗読で、大変心に響く、あるいは、気になる言葉を、お伝えしたいと思います。

それは、第二朗読にある言葉です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

わたしたちは、毎日、いろいろな人と一緒に生活し、いろいろな人のおかげで生きています。考えてみれば、ひとりで何もすることはできない。本当に、いろいろな人に、教えられ、助けられ、そして、許されて、自分の生活をし、自分の務めを果たしている。

そうなのですが、相手を自分より優れた者と考えなさいと言われても、優れている点はあるけれども、この点については、この人は自分よりできると思っても、この言葉が、『その人を自分よりも優れた者と、心の底からそのように考えて、尊敬するということ』を意味しているとすれば、できていない。これは、どのような意味なのだろうか。どうして、今日の第二朗読に、今日の箇所が取り上げられているのだろうか。こじつけかもしれませんが、立派に神様のおきてを守っていると思っている人にとって、罪人である、徴税人、取税人は、とんでもない人たちです。

わたしたちは、そこまでは思わないとしても、自分はこうしているのに、相手はこうではないか、という思いを持つことがないだろうか。そのことについても、わたくしの個人の心の問題ですが、極端なことを言いますと、毎日、これはこうではないかと思うが、こうしてくれない、という思いが湧いてきます。

まして、こちらで言われている通り、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、ひとりひとりの人を、自分を助けてくれる、大切な人と考えなさい」というパウロの言葉を、もっと、しっかりと心に留めて、実行していきたいと思います。

「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という十分意味のある大切な言葉です。毎日、この言葉をどれだけ実行できたかを反省するだけで、素晴らしい進歩ができるのではないでしょうか。わたくしも、人に言うからには、もっと自分で、実行するようにしたいと思います。

 

 

 

 

« 如何にして真の自己を知るのか | トップページ | 大天使の祝日 »

コメント

世界の宗教や哲学によって、真の自己とは何か、について学ばせていただき、今回は聖書の教への、自己と何か、どう受けとめればいいのか、ということにも導いていただいているのだと思いました。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」という大切な教えは実行するのは難しく、特に、他人のことに注意を払うことを忘れがちな私自身の行動の傾向を思い知らされる気がします。「自分のことを後まわしにして人の苦しみのために働く」 ことは若いころには憧れたこともあったはずですが。
聖書では、「キリスト信者は『敵を愛しなさい』と命じられています。真の自分を知るとは、人との係わりに於いてであり、他者との係わりの中に自分の姿が現れます。」 と
述べられていることに深い意味を感じます。
二人の息子の話で、「葡萄園に行って働くということは神の愛を信じてその愛に応えて生きる決意を新たにすることだろうと思います」 とおっしゃていますが、わたしたちにも日々新たな決意が必要だということだと思いました。

「ぶどう園に行って働くということは、イエスキリストによって示された神の愛 神のいつくしみ 罪深い人間を受け入れ赦してくださる神の愛を信じ、その神の愛に応えて生きる決意を新たにすること」 
不安、悲観、恐れ、疑いの中に閉じてしまわずに、私たちが今日も神様を信じ、立ち上がり、ぶどう園に出かけて行くことができますように。

自分で自分の力を誇る時、私は自分がどんなに他人にゆるされ、助けてもらっているかに気づきません。色々なことがうまくいかず、自分が自分の弱さや小ささを思い知る時、まわりにいて自分を支えてくれる人たちの存在のありがたさにはじめて気づきます。気づかなかった自分を恥ずかしく思います。
「相手を自分より優れた者と思う」 自分が助けてもらったたくさんの人のことを思い出し、心に留めていられればと思います。

「あなたはわたしのことをすべてご存知です。どうかそれを承知の上でも、この私をゆるし、務めを果たすことができるよう励まし導いてください」
このお祈りを私も毎日唱えようと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 如何にして真の自己を知るのか | トップページ | 大天使の祝日 »