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2020年9月 7日 (月)

山川草木悉皆成仏

    その4 悪についての小考察のその4 

「自己証明」から「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」の考え方へ

 

毎年、815日はカトリック教会では聖母マリアの被昇天の祭日です。教皇ピオ十二世は、聖母の被昇天をすべての信者が信ずべき教義であると宣言しました。マリアは無原罪に宿った方であり、その身体は死後腐敗する事なく天に挙がられた、と教えています。

さて、このところ偉大な日本の哲学者、西田幾多郎の思想に悪戦苦闘しています。難しいです。とても西田の著書を解読するには至りません。いまぼんやりと思うことを以下に記してみます。

西田幾多郎は1945年、終戦の815日を前にして67日に亡くなっています。75歳でした。明治・大正・昭和の激動の時代を生きました。八人の子供に恵まれましたがそのうち五人に先立たれていますし、最初の妻にも五年間の病床を経て先立たれています。家族についてだけでも、悲しみの体験の多い日々を過ごしています。

昔、司祭になるための勉強で、哲学を学びましたが、今思い出すのは、次の命題です。

「哲学の初めは驚きである。」

驚きはadmiratio という言葉でした。むしろ感嘆というべきかもしれません。この世界には驚くべき素晴らしいことで満ちている、という内容ではなかったかと思います。しかし、西田にとって哲学の動機は悲哀という事でした。人生の途上で遭遇する数々の哀しい出来事が彼をして人生の意味への思索へと駆り立てたのでした。彼は座禅をする人であり、また浄土真宗に深く帰依する人でしたが、あくまでも哲学者として、人生の困難な問題に取り組みました。彼の哲学論文はその悪戦苦闘の記録であります。もちろん宗教を信じる者にとって信仰は人生の苦難を克服するための慰めであり支えであります。そこに自分を託しさえすれば、思索によって苦闘する必要はないでしょうに、彼は人間として極限までこの問題、人生の真実を見つめ理論化しようと努めたようであります。

 

さて、『善の研究』で西田は、「善とは真の自己と出会う事である」と明言しました。以後、彼は「如何にしたら真の自己と出会うことが出来るか」という課題に取り組んでいきました。「真の自己に出会う、真の自己を知る」とは東洋の哲学並びの宗教の深く求めた課題ではなかったでしょうか。

人は自分を直接見ることが出来ません。鏡に映して自分の顔を見ます。鏡に映る自分はその時の自分の姿です。しかし、左右が反対になっていたりして、歪んで写ったりして、完全にそのままの自分を正確に映しているわけではありません。

そもそも自分とは何でしょうか。生まれたばかりの幼児には自分と他の人間との区別はありません。母と一体の存在です。次第に自分と自分の外との関係を知るようになりママス。自分を母との関係を知り、家族、そして、外界との関係を漠然と知るようになります。人は自分と自分以外の人とのかかわりの中で自分を位置づけしています。

仮にここに一人の男性がいるとします。彼が結婚していれば、妻に対して「夫」という立場になります。彼のことを妻は何と呼ぶでしょうか。もし子どもができれば、いつの間には妻は夫を「お父さん」と呼ぶようになります。夫が自分の父ではないことは十分に承知しているのですが、それでも自分の立場を子どもに置き替えて「お父さん」と呼ぶ場合が多いのです。もちろん夫は自分の子供に向かっては自分を、「お父さん」と呼びようになることが多いです。それは子どもにとって自分が何であるかを無意識にでも考慮しての言い方でしょう。

もし彼が教師をしているとすれば、彼は教室では自分のことを「先生は、昨日は都合によって授業を休みました。」というかもしれません。

もし彼が会社員であれば、上司に向かって自分のことを「わたしは」というでしょうか。そうかもしれないが、そういわないで、主語を書略して、直接相手の肩書を呼ぶことが多いと思います。「わたし・岡田は」ということも出来ますし、相手の上司に向かっては、その人の肩書をつけて呼び掛け、例えば「田中課長」とか「渡邊社長」とかという事ができます。日本語では、相手がだれであって何時も不変の独立した「わたくし」という言い方は通常していないのです。しばしば主語は省略されますので、人は前後の文脈から、主語が誰であるのか、を察しなければならないのです。誰が誰に何故何を言うのか、というような論理的な話し方は敬遠されます。角が立って聞き難いのです。

 

人は自分を直接見ることが出来ない。直接知ることが出来ない。他者に映った自分を通して自分を知るのです。家庭で子どもが見る父の姿と、社員が会社で見る、社長である父親の姿はかなり異なった物でありましょう。

人は他者を何時も、その立場から、肩書のある人として見ているのです。人を紹介する時も、某大学文学部哲学科准教授、という肩書で紹介すると、何となく、その人のイメージが浮かんできます。人はすでの、その肩書への理解を持っていて、その理解の枠の中でその人を理解するようにするのです。

 

人は同じ人でもその役割・立場の違いにより、いろいろな顔を持っているという事が分かったとして、それでも、いつでも、どんな場合でも変わらない自分とは何でしょうか。そもそも人はその身体からして刻々新陳代謝して変化しつつある存在ではないでしょうか。それは昨日の自分と今日の自分とは同じ自分であるのか。同じであるが違う、違うが同じ、という事になるのでないか。

例えば人は他者と契約します。買い物がそうです。何々を幾らで売り買うという約束をするとして、日にちが経ってしまうと、その約束はそのまま有効でしょうか。普通は有効期間を定めています。もし違う人間となるのでしたら何も約束出来ないことになります。人の状態は日々変わることを互いに諒解しながら、特段のことについては、期間を区切って、有効な契約として、信頼をもって実行することを互いに前提としているのです。

 

人は自分が変わらない自分であるという自己証明をどうするのか。最近、証明するための書類(ないしそのコピー)の提出を求められることが増えました。マイナンバー、運転免許証、パスポート、健康保険証などをもって、自分は東京文京区に居住する岡田武夫という住民であることを証明しなければならないのです。住民であることはそのようにして証明できますが、人は、住所、所属、肩書などを離れて存在する自分をどう証明するのでしょうか。

 

人は自分で自分を証明できないのです。電話をかけて、「あの、わたしですが何々さんいますか。」と訊ねても、電話で応対する人が電話してきた人を知らなければ、「どちら様ですか。」と誰何することになります。自分は自分であることを知っていて、それ以上当然のことはないのですが、それは相手には通じないのです。自分は岡田武夫という国民であることは国家に証明したもらうほかありません。

日本国籍を持つ者は一億二千万人はいるでしょう。自分はその中の一人に過ぎないのです。唯一無二の自分であることをどう自覚できるでしょうか。理論的に言って、自分という人間は、かつてなかったしこれからも現れないはずの存在です。唯一無二の自分を唯一無二としてくれるのは何か。自分で自分を証明しても、その証明している自分を誰が証明するのか。

例えば、岡田武夫-1という人がいます。その同じ岡田が岡田-2を証明します。するとその岡田を証明した岡田―2は誰が証明するのか。そこで岡田―3が必要になります。するとその岡田―3を証明する岡田―4が必要になります。かくて無限に自己証明の連鎖が遡ることになるのです。かくして、同じ岡田が同じ岡田を証明できないということになります。ではどうしたらよいのでしょうか。

結局、人を証明するのは人を超越した存在である超越者(例えば神)でなければならないでしょう。キリスト教の場合は、イエス・キリストという存在が、父である神へ取り次いでくださる仲介者であると考えられています。先日、聖クララの手紙を読みましたが、聖クララは主イエスをわたしたちの聖なる鏡と呼んでいます。

西田幾多郎はこの問題をどう解決したのでしょうか。彼は、真の自分を映す鏡を想定いします。その鏡を「場所」と呼んでいます。ではこの場所とは何か。場所とは、自分を空しくして映し出す場所です。その「場所」の理解は難解です。あらためて次の機会に考察してみましょう。

 

さて自己同一の証明です。同じ自己でありながら自己の中には、対立と葛藤があります。人は自分が秩序正しく統一された存在ではないと感じます。第一に病気ということがあります。病気は身体の秩序に乱れです。心の問題があります。人の心は、憎しみ、恨み、妬み、不安、乱れた欲情で揺れ動いています。人はしばしば平和に収まることから遠ざけられているのです。同じ自己でありながら自己の中に矛盾があり、調和がない。西田の有名な「絶対自己矛盾的自己同一」という難しい用語はこの人間の矛盾をも含む状態を指しているのでしょうか。

 

この問題に関して仏教では何と考えるのでしょうか。自己の解脱、悟りによって苦悩からの解放を説くブッダの教えから出発した仏教は、大乗仏教に発展し、さらに自分自身と如来の一致を説く教えに変容していったように思われます。軽率な結論は現に慎むべきですが、非常に魅力的な考え方だと思いますので、以下にその一端を紹介します。

 

 

「小考察その3」で引用しましたが、西田は以下のように述べています。

「真の自己を知るとは人類一般の善と一つになることであり、神の意志と一致することとなる。しかし、真の自己を知り神と合一するには、主客合一の力を得なければならない。そのためには、自分の偽我を殺し尽くし、この世の欲に死んで蘇(よみがえ)るのでなければならない。」(第十三章 完全なる善行 四 より)

 

この結論は、西田幾多郎個人の宗教体験と宗教理解を背景にしています。西さ個人は熱心な座禅の実践者でありまた浄土真宗に深く傾倒した人でもあります。そこで日本における仏教について今できうる限りのささやかな考察をしてみたいと考えました。(以下は主として、佐々木閑「集中講義『大乗仏教』、別冊100de 名著」NHK出版によりますが適宜他の資料も参考にしています。)

 

仏教は今から二千五百年前にインド北部(現・ネパール)の釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダルタを開祖とする宗教です。(以下、釈迦という。)釈迦は人生の苦悩を克服するために修行し35歳の時に菩提樹のもとで悟りを開きました。釈迦は80歳で亡くなるまで各地を遍歴し自分の悟りを教えました。この教えが仏教 の基本であります。仏教は中国を経て日本に伝えられ、中国と日本での新たな変貌を遂げました。それはもはや釈迦の最初の教えとは似ても似つかない『大乗仏教』の教えとなっています。佐々木閑『大乗仏教』は繰り返し、『大乗仏教は本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である」といっています。(p)浄土教については「ここまで変貌してしまうと、『釈迦の仏教』とは似ても似つかないものです。」(128)

しかしだからといって著者は大乗仏教の価値を否定しないでむしろ評しているのです。例えば次のように言っています。

「浄土教の教えは、お釈迦様の教えとはかけ離れたものになっているのは事実ですし、仏教で最も重要であるはずのお釈迦さまもどこかに吹っ飛んでしまっています。『釈迦の仏教』からは、『法華経』よりもさらに遠くに行ってしまった印象は否めません。でも、それはそれで価値を認めるべきです。宗教に正しいも間違っているもありません。大事なのは、「それを信じた人が幸せでいられるかどうか」、この一点です。」(132)

大乗仏教はそれぞれ自分たちのよって立つ基準となる経典を定めました。そのなかでも『般若経』『法華経』『華厳経』『涅槃経』などがよく知られています。それぞれ大変魅力的な内容を持った経典です。それぞれ民衆の救いという観点を重視しています。そしてそのために道をそれぞれ誰でも歩めるような具体的な道筋を提供するようになっています。

今日日本の仏教宗派のほとんどは、人はすでに生まれながらに「仏性」、ブッダとしての本性・性質を持っている、と説いています。自らの中に在る仏性に気づき、人として正しく生きていれば誰もがブッダに成れる、と説いています。『涅槃経』という経典は、ブッダはこの世に常に存在しており、さらに「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想を唱えています。「一切衆生」とはすべての生き物、「悉」とは「ことごとく」という意味ですので、涅槃経は、すべて生きとし生けるものは仏性、仏の本性を持っていると説いているのです。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじゅうしつうぶっしょう)」という思想はさらに発展して日本では「山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」となりました。この言い方については以下の興味深い記事を参照ください。

 

 宮沢賢治の詩の世界、伝記的事項、「山川草木悉皆成仏」の由来(1)より、2031 

  もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。

 これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士氏によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。

 一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の論文によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。

 「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。

  また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。

 これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。

 これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。

  このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。

 以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して・・・」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。

 ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。

ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡631918519日)

わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡761918627日)

前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。

一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。

 賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。

 ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。

 また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。

 

本来釈迦の仏教では、各自が修行して苦悩から解脱することを教える自力救済の宗教でしたが、中国から日本へ伝達される過程で著しく実質的変貌を遂げ、成仏の主体も、人間から他の生き物へ拡大され、されに生物以外の被造物である山川草木にまで拡張されたのでした。

ここでキリスト教の立場から想起すべきことがあります。人間は創造主から自然等の被造物を治める務めを受けたと考え、その役割を濫用し、今日の環境破壊という問題を引き起こしています。それは教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の指摘するところです。人間は被造物の一部であり、その生存は自然に依存しており、大地とのつながりの中で存立できて来たことを失念して思い上がった暴挙に出て、自らの足元を危殆に瀕ししてしまっています。創世記二章によれば、最初の人間アダムとイブが創造主への従順と信頼をゆるがせにするという過ちを犯したために、人間と自然との関係に罅(ひび)が入ってしまい、人間と自然とのあるべき良好な関係が壊れてしまったのでした。この状態は修復されなければなりません。聖書は、神の救いの御業の結果「新しい天と新しい地」が完成すると言っています。(ヨハネの黙示211、二ペトロ313、イザヤ6517など) さらに使徒パウロは被造物のあがないに言及しています。(以下参照)

  ローマ書813-25

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(813-25)

人間は自分たちだけの救いを考えてきましたが、他の被造物との切っても切れない関係にある人間は、自然・宇宙のあがないと救いの中に自分の救いを位置付けなければならないとおもいます。

 

ところで自分の中に在る仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」ことではないかと考えられます。西田幾多郎が目指した境地はこれかもしれません。そのために雑念を取り払い心に無にすることが必要となります。座禅はこの「無心」の境地を目指す修行ではないでしょうか。道元が創始者の曹洞宗では「只管打座」を唱えています。道元はその際、座禅は「人は本来仏性を有している。座禅は自分の力で煩悩を消して悟りに至る修行ではなく、自分がすでにブッダになっていることを確認する作業である」と考えました。(『大乗仏教』174-175㌻より)

しかしこの考え方は誤解されやすいです。自分はすでにブッダになっているから何も努力の修行も不要になったと考えるとしたら、それは危険な考え方です。すでにブッダになったとはどういう意味か。煩悩を抱えたままであってもすでにブッダが宿っていて、共に、煩悩と戦ってくれると考えたほうが良いと思います。ブッダになる可能性を与えられている、ブッダになる種、あるいは胎児が宿っていると考えてもよいでしょう。(高崎直道『仏性とは何か』法蔵館文庫、参照)

さて、「仏性」「山川草木悉皆成仏」について現在の曹洞宗はどう考えているのでしょうか。これに応えることは甚だ僭越ですが以下の記事を参考に引用することをお許しください。

   この問題について現在の曹洞宗は例えば次にように説明しているようである。

以下は曹洞宗東海管区教化センター、道元さまのお言葉、正法眼蔵諸弁道話の巻より

 

「佛家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をし

るべし。草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。いはんや広大の文字は萬象

にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち即心

即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのか

げなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖

単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」

真言宗では「即心是佛 即心作佛といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五佛の正覚をとなふ」つまり是の心がそのまま佛であるから、あらためて修行しなくても即座に佛の位につけるという教えがあります。但しここにいう心とは「得道妙心」の心であり、欲望や煩悩妄想に侵されている自己中心的な心ではありません。否そのような心もある意味からはそれに含まれるのかもしれません。しかし「心」というのはやはり、いわゆる心の奥の奥にあるところの宇宙をあらしめているところの純粋な「心」でなければならないのであります。つまり心理学的に言うところの心ではなく、佛の真心という時の「心」なのであります。これを佛性とか法性とか真如とか言いますが、これを究明することが出来た人を悟りを得た人、つまり「覚者」というのであります。そしてそのような心の世界を悟りの世界、浄土ともいうことができると思います。この世界を日常体現し、この佛の真心で日常の行動の価値基準を決め規定するならば、この人は悟りを成就した人といい、「是心作佛」ということになります。この「心」を調整すれば宇宙の真理の世界が現れ、毘廬遮那佛の世界に住することが出来るという教えがあります。この「心」の調整の最上無為の方法を道元さまは「坐禅」であると説かれるのであります。仏法にはお釈迦さまの教えを法華経を中心とか華厳経を中心とか般若経を中心とかさまざまな中心のおきかたがありますが、もともと宗教とは思想・観念だけにとどまるものではありません。むしろその教えによって日常生活が豊かになり、限られた生命を全うできるかということが大切であります。したがって教の殊劣を対論し、法の深浅を論ずることは、無意味なことと言わなければなりません。いずれの教えもお釈迦さまの説かれた教えであり、どの教えから仏法に入っても悟りの世界は開けるのであります。要は実践こそ最も大切なことであります。正しい実践修行をするなかで、例えば草華山水を観ることの機縁によって悟りの境地に到ることもあるのであります。渓川のせせらぎの音を聴くことの機縁によって開悟することもありましょう。「草華山水にひかれて、仏道に流入することありき。」とはこのことであります。また天地自然宇宙万物のあるがままの姿こそ真理そのものであり、広大な文字であります。この生きた文字を観ることなく、教義の深浅を論じ、観念の世界にのみとどまるなど無意味なことであります。一片の塵にも宇宙の真理が宿り、それを観じ実践するならば「いはんや広大の文字は萬象にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵におさまれり」となるのであります。あらゆる存在のあるがままの相こそ転大法輪であり、生きた経巻であります。身心一如、修証一等という教えがありますが、これらの教えは仏法は観念ではなく実践であるということを説いたものであります。このことを道元さまは「しかあればすなはち即心即佛のことば、なほこれ水中の月なり、即座成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべか

らず。いま直証菩提の修行をすすむるに、佛祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」と説かれるのであります。

 

正法眼蔵仏性の巻、より。

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。これわれらが大師釈尊の獅

子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の頂寧眼晴なり。」

この「仏性の巻」は先の「正法眼蔵弁道話」の巻、「正法眼蔵現成公案の巻」と併せて正法眼蔵の中では特に大切な巻とされています。この三巻の中で道元さまは「真理」を説き、「悟り」について説いておられます。この巻でいう「仏性」ということにつきまして道元さまが比叡山でのご修行中よりいだき続けられた疑問でありました。しかし、当時日本では道元さまのいだく疑問を満足に解きあかしてくれる人がいませんでした。それで道元さまはこの疑問を解くべく中国に渡られたのであります。この巻は仁治二年十月興聖宝林寺において弟子たちに説かれた巻であります。仏性ということは大乗仏教の成立とともに取り上げられた大きな問題であり、特に「大般涅槃経」ではこれを深く掘り下げられています。道元さまは中国に渡っても、すぐにはこの仏性について納得できる答を得ることが出来ませんでした。それで道元さまは諸々の経典、諸説を学び、多くの祖師に参じたのであります。ここにあります「釈迦牟尼仏言一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」というくだりは「大般涅槃経」の中にある一句であります。この意味は普通に読みますと「お釈迦様が言われるには一切衆生にはことごとく仏性がある。それは常住で、変わることが無い。」ということになるのでありますが、実は道元さまはそのようには捉えていなかったのであります。仏性とは「仏であることの本質」であります。ここでいう仏というのは「ものごと」が真理に従って、あるべきようにあることでありまして、執着を離れることであります。先の現成公案の巻や弁道話の巻においてお話しいたしました「あるがままにする」「空」の道理に従って「因縁所生」にあるということをいうのであります。 それを覚られたのがお釈迦さまであり、諸仏諸祖であります。曹洞宗では道元さまの師匠天童山の如浄禅師までにお釈迦さまから数えて五十人の祖師方がいます。その方々は仏性の道理を正しく捉えて悟られたのであります。そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であるというのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのでありますが、しかし、この仏性は弁道話のところでもお話しいたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。

自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。

道元さまのことばに修証一如というのがありましたが実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります。

正しい体験の世界に没入するとき、融通無礙の自己を会得しうるのであります。仏性は常住不滅でありまして、悟りを開かれた祖師方は不断の仏作仏行により煩悩の火が二度と起こらないのであります。したがって開悟された祖師方でもその後もたゆまぬ修行をつづけられるのであります。行持道環であります。道元さまはこのことを次のように詠じておられます。

 峰の色 渓のひびきも

みなながら

我釈迦牟尼の声と姿と 

 

それはキリスト者の場合と同じです。すでにイエス・キリストと出会い、聖霊を受けて者はキリスト者です。キリスト者の体は聖霊の神殿となっています。しかし、悪の誘惑から完全に開放されているわけではありません。日々聖霊の導きを受けて浄められ新たにされより聖なる者となるべき存在です。使徒パウロが言っているように、キリスト者は肉の業を避け、礼の導きに従って歩むべきものです。ガラテヤ書は教えています。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しまししょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤ516-26)

 

 

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聖書の毒麦の譬えの悪について、中国の性善説、性悪説、西田幾多郎の「善の研究」、そして仏教の考えへと、短い期間にこんなに多くのことをお教えいただきました。大変ありがとうございます。善とは真の自己と出会うこと、人は自分と自分以外の人との関わりの中で自分を位置づけているが、いつでも変わらない自分とは何か、変わらない自分という自己証明はどうするのか、自己の中にある対立と葛藤、矛盾を含む状態をどうするのか。丁寧にお導きいただきました。
西田幾多郎は、真の自己を知ることは、人類一般の善と一つになることであり、神の意志と一致することとなる。そのためには主客同一の力を得なければならない。そのためには自分の偽我を殺し尽くし、この世の欲に死んで蘇るのでなくてはならない、と述べていますが、これは西田幾多郎の宗教体験と宗教理解を背景にしている、と教えていただき、納得することができました。
大乗仏教は釈迦の最初の教えとはかけ離れたものとなってしまったが、般若経、法華経、華厳経、涅槃経など、民衆の救いのための道筋を示している経典として重要な意味を持っていて、それぞれが異なっても、大切なことはそれを信じた人が幸せでいられるかどうかだと述べられている点で、キリストの教えに通じるものがあると思いました。
タイトルの「山川草木悉皆成仏」は元は涅槃経の教えで、この言葉の由来のエピソードは、興味深くて思わず引き込まれてしまいましたが、成仏の主体が生物以外の被造物である山川草木にまで拡張されたことを学びました。
今回、「人間は自分たちだけの救いを考えてき「ましたが、他の被造物との切っても切れない関係にある人間は、自然・宇宙の贖いと救いの中に自分の救いを位置づけなければならないとおもいます。」 という大切なメッセージをいただきましたので、しっかり心に留めたいと思います。
西田幾多郎が目指したとも言える境地「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在そのものに立ち戻る」 ためには雑念を取り払い心を無にすること。道元によると、座禅は「人は本来仏性を有している。座禅は自分の力で煩悩を消して悟りに至る修業ではなく、自分がすでにブッダになっていることを確認する作業である」 と考えたが、それは、煩悩を抱えたままであってもすでにブッダが宿っていて、共に煩悩と戦ってくれるという意味でもある。
キリスト者も悪の誘惑から完全に開放されているわけではなく、日々聖霊の導きを受けて浄められ新たにされて、より聖なるものになるべき存在であるという点で通じるところがあると思いました。
ガラテヤ書を載せていただき、特に、「霊の結ぶ実は愛である」、の個所を改めて味わうことができました。ありがとうございました。



大司教様

先日はお姿を拝見できて嬉しかったです!!
見た目からも確実に良くなっているのが分かって、本当に良かったと思いました。

悪くなっていることは絶対にないので、
大司教様ももっと神様に期待していてください!!
私も引き続き神様に感謝し続けます!!

仏というのは、「ものごと」が真理に従って、「あるべきようにある」ことであります。
自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。

この「べき」は、「ねばならない」という姿を自分で自分に課すことではなく、、
「本来そのようにあるように」ということだと思います。

自分の力で「あるべき姿」をみつけようとするのではない。
自分を忘れることです。

自分は何を一生懸命になって、何を恐れて、疲れているのだろうかと思います。

何か「する」ことで頭がいっぱいなってしまわず、
神様の前に、何でもないそのままの自分のままで、静かにただそこに身を置く時間をとりもどしたいと思います。

コロナ禍によって、歌う事を奪われ、語ることを奪われた教会で、
何をどうやって、できるようにしたらよいか、なんとかできないか、一生懸命になるばかりでなく、
何もない静けさの中で、皆がただそこに、神様のもとで、共に心を一つになることを
今こそ、大事にしたいと思いました。


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