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2020年9月20日 (日)

あなたは「あなたであるだけで大切です」という世界

人がただその人であることだけで大切にされる「神の国」

920日 年間第25主日の福音朗読は「ぶどう園で働く労働者」の譬えです。この話は何を言っているでしょうか。自分にとってこの話は何を言っているでしょうか。最初から「模範解答」を出すのではなく、人間である自分がどう感じるか、ということから出発することが大切だと思うのです。

 誰しも思うのは、この主人は不公平だということです。このような賃金の支払いの仕方は今の社会ではありえないことです。

「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」という文句は当然のことでしょう。自分が朝早くから働いた人の立場にある人はそう思うのは当たり前です。

他方、5時ころ雇われた人は、「なんと有難いことだ」と思うでしょう。しかし、朝から働いた人には、「申し訳ない」と引け目に感じるかもしれません。

ぶどう園で働いた労働者の雇用された事情は様々です。労働時間と働き具合に応じて報酬が与えられるはずだと我々は考えます。それが資本主義と貨幣経済の中で生きている者の一般的な意識です。しかしぶどう園の主人の考えからは違います。朝から働き始めた者も、日暮れに仕事にありついたた者も、同じように一デナリオンが支払われるのです。5時から働き始めた人は、5時まで誰も雇ってもらえなかった人です。

ここで思うのは、人生の不公平さということです。人生は不公平です。人は自分の出生を選ぶことが出来ません。何時何処でどのような親の基で生まれるのか、ということを自分で決定できません。もしかして、生得の人間の条件――能力、環境、容姿等もその時から決定されているのかもしれません。遺伝子という考え方があった、人は遺伝子によって自分の在り方がかなりの範囲、程度で決められてしまうそうです。そもそも「人間にはどのくらいの自由があるのか」と言う重大な問題があります。障がいと言う条件をもって生を受ける者もいるのです。

人は生涯にわたって何等かも「評価」を受けています。今の社会でその評価の基準値は何でしょうか。人は評価されたいのです。今の時代、評価の基準は何か。入学試験の合否の基準は通常学力です。会社では何でしょうか。多分、総合的な意味での「仕事での実績を挙げる能力」でしょう。それでは能力のないものは救われないのです。イエスは「貧しい人々は幸いである。」と言われました。貧しい人々とは能力、健康、財力などに恵まれないものです。

それでは、この世での評価に値する何物も持たない者が、その人であるという一点で評価され大切にされ、なくてはならない存在とされる世界はないでしょうか。

今日のぶどう園の労働者の譬えは、そのような世界、「人がその人であるというだけで評価され大切のされる世界」を語っていると思うのです。イエスは「神の国の福音」を説きました。現実の社会は利益社会、いわゆるゲゼルシャフトですが、ぶどう園はいわゆる一つのいわゆるゲマインシャフトです。その代表は家庭です。しかしその家庭が本来の在り方をかなり喪失しているのが現状です。その家庭の替わるべき共同体として想定されるのが教会共同体です。イエスは「神の国の福音」を説きました。神の国とは神の思いが行き渡っていることです。第一朗読でイザヤは言います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

教会は限りなく『主のぶどう園』に近づかなければなりません。

人はあなたがあなたであることを嬉しく思う」と言う他の存在、人の交わりが必要です。

そのような人は、あなたにとって誰でしょうか???

 

 

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:1-16

(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

第一朗読  イザヤ書 55:6-9

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。

 

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:20c-1:2427a

(皆さん、)生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。

 

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コメント

「悪について」「自分という存在は何か」難解な問題についての思索の末に、ぱあっと光がさしたような、自然で、飾りのない、あたたかいお説教にとても心をうたれました。あたらしい司教様を感じております。何度も繰り返し読んでいます。本当にありがとうございます。

「神の国とは神の思いが行きわたっていること」「その人がその人であるというだけで大切にされる世界」
本当にそうだ、そうなりたい、と思える言葉で表していただいた気がします。

「5時から働き始めた人は5時まで誰にもやとってもらえなかった人」
と読んではっとしました。そういうことに気づかなかった私でした。

相手の中、自分の中の、本当の美しいいのちを見る目をもつことができますように。


ブドウ園で働く労働者の譬えは、「最初から「模範解答」を出すのではなく、人間である自分がどう感じるかというところから出発することが大切だと思うのです。」 と仰っています。 このことは一般的にも聖書やキリストの教えや信仰について学ぶときの大切な心構えであると、あらためて思いました。ただ知ることに向っているだけでは本当に自分の身に入っていないのではないかと。
自分自身のことも他との関係においても不満や無力感いっぱいのまま過ぎていきます。
神の国は、人がその人であるというだけで評価され大切にされる世界で、神の思いが行きわたっているところ。  
主を尋ね求めよ、見いだしうる時に。呼び求めよ、近くにいますうちに。 (イザヤ書)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい.(フイリッピの信徒への手紙)

今の私にとって大切な教えです。 

ゲゼルシャフトとゲマインシャフトということばも教えていただきました。

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