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2020年9月11日 (金)

チェノット大使追悼ミサ説教

日本二百五福者殉教者記念日 ミサ説教

2020910()、本郷教会

一昨日の深夜午前129分のこと、駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様がお亡くなりになりました。

享年76歳でした。

チェノットゥ大司教様は、2011年の1020日に日本に着任されました。

2011年といえば、311日に東日本大震災の起こった年です。

日本の司教団は、東日本大震災についてのメッセージを準備して、全会一致で全員の共同の意見としての文書を採択し発表したのでありますが、そのための臨時の会議をしているところに新任の大使として来られたのです。

あれからそろそろ10年になります。

昨年の11月に教皇フランシスコが日本を訪問してくださったので、そのことで大変お忙しかったと思いますが、無事にその責務を果たされました。

インドの人で、ケララ州というキリスト教徒の多いところでお生まれになりました。

インドはヒンドゥー教の国ですけれど、キリスト教徒はどのくらいいるのでしょうか。

なにしろ人口が多いですから、キリスト教徒だけでも大変な数でしょうね。

いろいろなキリスト教の宗派があるようですが、ローマカトリック典礼ではないようで、ほかの典礼の教会だったようです。

それはともかく、昨年11月の教皇フランシスコの来日行事の一連を無事に終えられ、75歳の定年を迎えて故郷への里帰りを楽しみにされていましたが、コロナウイルスの問題で帰国が伸びている最中の58日に倒れた。

58日に倒れて、帰国がかなわないまま、98日にお亡くなりになりました。

58日というと私事で恐縮ですが、ちょうどわたくしも自分の病気で入院している時のことでした。

この訃報をくれた浦野神父様がまだ公式発表前に、「チェノットゥ大使が倒れちゃったけれど、あなたは大丈夫?」と連絡をくださいました。

倒れたのは58日で、亡くなったのは98日ですから、ぴったり4か月。

感慨深いものがあります。

葬儀の日程はまだ発表されていませんが、ある情報によるとインドでおこなうようです。

日本でもおこなうとは思いますが、大使館と司教団が相談中かもしれないですね。

彼が在任中、わたくしは非常に頻繫にチェノットゥ大使とお会いしました。

そうしなければならない、いろいろな用があったのです。

さまざまな場面が思い出されます。

難しい問題もありました。

迷った末、やはりお知らせしないといけないと思い、重い腰を上げて大使館に赴いたこともありました。

あの大使館(駐日ローマ教皇庁大使館)に何度通ったことでしょうか。

そのチェノットゥさんがこんなに早く帰天されるとは思いませんでした。

心から永遠の安息をお祈りいたします。

 

今日は二百五福者殉教者の記念日であります。

日本は殉教者の多い国です。

日本二十六聖人をはじめとして、多くの福者、殉教者がいます。

最近ではペトロ岐部と八十七殉教者が列福されましたね。

二百五人の列福は1867年、まだ禁教令が廃止(1873年)される前ですので、日本の教会を励ますためのピオ九世教皇のご決断だったと思います。

それから百数十年経って、今の日本はどうであろうか。

 

今日の福音はわたくしたちがよく知っている教えであります。

よく知っていて、だから毎日よく実行しているかというと、そうでもない。

いかにキリスト弟子として生きることが難しいかということを思い知らされる教えであります。

しかしこの中のほんの一部でも、わたくしたちはおこなっているとは思うのですね。

各自が胸に手をあてて、このイエスの言葉をどう受け取っているのだろうか。

このような教えを人びとに伝えることがわたくしたちの使命ですが、実行していないことを言葉で伝えてもあまり効果がない。

おこなっていることを言葉で伝えないと、聞く人には響かないわけであります。

 

話はちょっと飛びますが、このところ時間をいただいているので、日本の福音宣教のためになることについて、わたくしの感想を原稿にして、できれば一冊の本にしたいと思って準備中でおります。

いろいろな経緯があって、仏教の教えに今かなり入り込んでしまっています。

そして最近のブログに出しましたが(peterokadatakeoのブロブ 202097日「 山川草木悉皆成仏」)、日本では「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があります。

どこかで見たか聞いたかしたことがあるかもしれません。

「山川草木(さんせんそうもく)」、つまり山川(やまかわ)、草木(くさき)「悉皆(しっかい)」というのはすべて、「成仏(じょうぶつ)」は、仏になる。

仏になるのか、なっているのかそこは解釈が分かれますけれど、これは仏教の涅槃経(ねはんきょう)というお経から来たそうで、日本ではかなり発展したというか変えられて、そもそも、すべての生きとし生ける人間には仏性=仏の性質がある、仏の種が蒔かれているという意味だったそうです。

可能性がある、可能性があっても仏になっているわけではない。

我々がそうですけれども、すべてキリストの種が蒔かれている。

でもこういう教えを実行して輝いているというわけではない。

そういう人もいますが、非常に稀である。

まだ仏にはなっていないが、仏になれますよという、それは生きとし生ける人間のことだけれども、人間から広がって命あるすべてのもの、命があるかないか分からないけれど

山川草木ですから、存在するすべてのものが仏様の現れであるという、雄大な思想になっているわけです。

これは誰が言い出したのか、誰なのかを調べたけれど、日本の中で段々そうなってきたと

いうことであります。

時々ですけれども、嫌なやつだなあと思う時がある。

どうしてこんな人がいるのだろうと思ってしまうことがある。

それでもイエス様の言葉は、あなたが嫌だと思う人も、敵と思うような人も愛しなさい、大切にしなさい。

人間性に反することですけれども。

日本では、どんな人も仏さまだという考えが何となくある。

戦争でも、戦う時はやりますけれど死んでしまえば皆仏さまだ、敵も味方もないというような考え方もある。

そうすると今のわたくしたちとしては具体的にどうするのかと思いながら、話はいくつにも分かれてしまい纏まりがないのですけれども、

そもそも仏教では、存在するもの自体が本当に存在するのかという問題から出発している訳なので、そこを非常に楽天的にとらえて、仏さまはどこにでもいるのだというふうに捉え直したのが日本人であるというふうに考えられるのです。

だからキリスト教徒もそれに負けないように、教会の現実をみると、わたくしなどを見ると元気が出ないかもしれませんが、「山川草木悉皆成仏」、キリスト教ではどういうことになるのか、その辺を黙想していただけると良いかなあと思います。

ーーー

第一朗読  コリントの信徒への手紙 一 8:1b-711-13
(皆さん、)知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ(ます)。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。


しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

福音朗読  ルカによる福音書 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 

 

 

 

 

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コメント

大司教様の多くの想いが籠められたお話、大変ありがとうございます。
 山川草木悉皆成仏 ということば、や、「峰の色 渓のひびきも みなながら 我釈迦牟尼の声と姿と 」 という道元の歌に表されている深い意味を本当に理解することは容易ではないと思いながらも、わたしにとって、考えることによってキリストの教えがより明らかになるように思います。 コリントの信徒への手紙のなかで、神を愛する人がいればその人は神に知られている、神は唯一の神であり万物はこの神から出てこの神へ帰っていく、万物は主によって存在し私たちもこの主によって存在しているということが語られているのにほっとする思いです。
関西の実家は曹洞宗でした。祖母は御詠歌をよく歌っていました。
 

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