病気について考える
悪について、その12、「病気」について
人が免れない問題の中に「病気」ということがあります。仏教では四苦八苦ということを言いまして、四苦の中に、生病老死があげられ、病気がすべて生きとし生ける者の苦しみであると言われているわけです。
カトリック教会は毎年2月11日を「世界病者の日」と定め、病者とその家族、医療関係者のためミサと祈りをささげております。いまあらためてその時の説教を読み直してみると、結局、自分が病気について思うことで大切なことは、この中で述べられていることに尽きるように思います。説教二点を添付しますのでどうか閲覧ください。(注1)
なお、病気について『カトリック教会の教え』は次のように述べています。
一般的に、「病気」とは各人が主観的に異常や違和感を覚えることや、それによる本人の痛みや苦しみの経験を表現します。そして、医師による診断の結果、病名がつけられて客観的に疾患が確認されます。・・・)(337㌻)
ここでは以下に、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みます。
まず論点を挙げます。
1)イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)
2)病気は何処から来たのか。(原罪論から)
3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)
1)イエス、「癒しの人」
イエスは「癒しの人」であるのか。
四福音書を読んですぐに気の付くことは、イエスが多くの人を癒し、悪霊を追放しているということです。イエスはその生涯で何をしたかと言えば、人を救うという使命を遂行した、と言えるでしょう。人を救うということの中にはもちろん、罪の赦しと贖い、罪からの解放ということが最も重要ですが、どうじに病気・障がい、疾患で苦しむ死を癒し、悪霊から人々を解放したということが非常に大切なこととして含まれています。救いと解放とは、心身の人間の贖いであります。霊魂だけを救うということないし、肉体だけをすくうということもなかったはずです。
とりあえずマルコ福音書を見ていきましょう。
イエスは40日間の誘惑に打ち勝ってガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始められました。
―まずイエスは、カファナウムで汚れた霊に憑りつかれた男を癒しました。(マルコ1・21-28)
―イエスはシモンの姑の熱を鎮め、多くの病人を癒し多くの悪霊を追放しました。(マルコ1・29-34)29-34)
―イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。(マルコ1・39)
イエスは重い皮膚病を患っている人を癒します。(マルコ1・40-45)
―イエス、中風の人を癒す。(マルコ2・1-12)
(イエスは中風の人を癒したがその前に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったので律法学者を躓かせ、冒瀆罪に問われる原因をつくった。)
―手の萎えた人を癒す。(アルコ3・1-6)
(その日は安息日であったのでファリサイ派トヘロデ派はイエスを殺す相談を始めている。)
―悪霊に憑りつかれたゲラサの人を癒す。(マルコ5・1-20)
―ヤイロの娘と出血症の女を癒す。(マルコ5・21-43)
―ゲネサレトで病人を癒す。(マルコ6・50-56)
―シリヤ・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出す。(マルコ7・24-30)
―耳が聞こえず舌が回らない人を癒す。(マルコ7・31-37)
―ベトサイダで盲人を癒す。(マルコ8・22-22)
―汚れた霊に憑りつかれた子を癒す。(マウコ9・14-29)
―盲人バルテマイを癒す。(マルコ10・46-52)
如何に以上で見たように多くの部分が癒しの記述に使われているかが分かります。マルコだけではなくマタイ、マルコについても同様のことが言えるでしょう。
病気や障害とは本来あるべきでないのです。神の国が到来すれば一切の病苦は消滅します。イエスが癒されたのは地上のごく少数の人々でした。彼らはやがって死を迎えたことでしょう。イエスの癒しは神の国がある、ということを示すしるしでありました。このしるしが永遠の命として結実するためには、主の復活と主の再臨を待たなければなりません。
イエスは癒す人であり、永遠の命を齎す人、であり、復活の命に人々を与らせる人であります。(注2)
2)病気は何処から来たのか。(原罪論)
創世記1章によれば、神は人間を神にかたどり神に似た者として創造され、それを「極めて良い」とご覧になられました。しかし現実にこの世界には種々の悪が存在します。病気も悪の人です。病気は何処から入ってきたのでしょうか。教会はどのように説明しているでしょうか。
カトリック教会によれば、その原因は人間の「原罪」にあるとしています。悪の原因は神には在りません。人間の不信仰と不従順が病気を含む悪の原因であるとしています。創世記第3章によれば、最初の人間アダムとエバは神への信頼を失い、禁じられた、善悪を知る木の実を食べ、不信仰と不従順に陥り、神との親しさを失いました。この神との親しさを失っている状態が後に「原罪」と呼ばれるようになりました。
『カトリック教会のカテキズム』では次のように述べられています。
原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。
(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)
それでは他の教会では「病気」をどう説明しているでしょうか。東方正教会の見解を最近が出版された『病の神学』(ジョン=クロード・ラルシュ著、二階宗人訳、教友社)によって分かち合いましょう。
神が「見えるものと見えないものすべての創造主(コロ1・16参照)です。しかしもろもろの病気や苦痛、そして死の造り主であると考えることはできない。教父たちはそのことを明言している。聖バシレイオスは、その説教「神は災いの原因ではない」のなかで述べている。「神がわれわれの災いの造り主だと信じるのは正気の沙汰ではありません。こうした冒瀆は〔……〕神の善性を損なうものです。・・・・(15㌻)
ニュッサの聖グレゴリオスは次のように答えている。「人間の命の現状がもつ不条理な性格は、〔神の像と結びついた〕善き事柄を人間が一度ももちあわせなかったことを立証するものではありません。〔・・・・・〕われわれの現在の条件と、そしてもっとうらやむに足る状態を奪った喪失には、他に原因があるのです。」(15-16㌻)
『創世記』は、神の創造はその始原において完全に善きものであったことを明らかにしています。(創・31)
聖マクシモスは言っています。「神からその存在を与えられた最初の人間は、罪と腐敗を免れて生まれました。〔…・・〕。なぜなら罪も腐敗も、彼とともに創造されることはなかったからです。」(17㌻)
多くの教父は、神は死を創造しなかったこと、始原における人間の本性は腐敗を免れていた、ということ、したがって人間の本性は不死であった、と教えています。しかし教父たち間にはこの点について微妙な相違が見いだされます。聖アウグスチヌスは、人間はその身体の本性において死すべきものであった、と述べ、アレクサンドリアのアタナシスも、原初の人間の本性は腐敗すべきものであった、と言明しています。
この不整合をどう説明できるか。
原初の人間は不死で腐敗しない存在であったのか、あるいは死すべきもの、腐敗すべきものであったのか。
そこで結論はどうなるのか。次のように説明されます。原初の人間とはどの段階の人間か。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2・7)
神が地の塵から神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形づくったとき、その最初の状態では、人間は死すべきものでした。神は人の鼻に命の息を吹き込みました。その時点で人は生きるものとなり、不死の命を生きるものとなったのです。聖アタナシオスは言っています。「人間は腐敗する本性を持っていたのですが、言への参画という恵〔によって〕「その本性をしばる条件を免れる」ことができ、「現存する言のゆえに、本性の腐敗が彼らに及ぶことがなかったのです。」
この恵みによってアダムは、いまわたしたちが置かれている人間的条件とは大幅に異なる状態に置かれていたのであり、この状態を聖書は「楽園」と呼んでいるのです。楽園における人間は天使の状態に近く、アダムは物質性や有形性を持つ者でなかった、と聖マクシモスは考えます。アダムの体はパウロが述べているような復活した体のようだったと考えるようです。
腐敗することなく死ぬことのない状態に想像された人間は神の恵みの中にとどまる限り死ぬこともなく腐敗することもありませんでした。神の恵みのうちに留まるためには、人間は与えられた自由意志を用いて、自分から神の掟を守らなければなりませんでした。
しかし神の命令に背いたために神の命という恵を喪失したのです。ではどういうべきでしょうか。
罪の落ちる前の原初の人間は、実のところ、死すべきものではなく、不死でもなかったのです。どちらになるかは、人間の自由な判断と選択にかかっている状態に置かれていたのでした。
したがって教父によれば、人間の個人意思のうちに、自由意志の誤った使い方により、あるいは楽園で犯した罪によって、人類に、病気、心身の障がい、苦痛、腐敗、死が入ってきたのです。病気などの悪淵源は父祖の罪によるのです。自ら神のようになろうとしたことによってアダムとエバは神の特別な恵みを失い、塵から造られたもともとの人間の状態に戻されたのでした。
「アダムが人類の本性の「根源」をなし、その原型であって、また第一に全人類を包摂するゆえに、彼はその状態を子孫全体に移転する。こうして死や腐敗、病気、苦痛が人類全体の定めとなる。」(同書、28ページ)
人と人とのつながりの乱れ、男女関係の葛藤、そしてアダムと自然との親和性は失われ、土は人間にとって呪われたものなり、土は茨とあざみの生える不毛の地となり、さらに、自然と人間との調和も失われました。
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなっ
た。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔
に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3・17-18)
アダムとイブの罪の結果はすべての人類に及ぶだけでなく、すべての被造物に及びました。全被造物は腐敗へ隷属するとされてしまったのです。パウロはローマ書で言っています。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持ってい
ます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今
日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8・20-22)
さて、それでは人間は自分たちの病気に責任があるのだろうか。
人間が原初の恵みを失ったのは、アダムの罪によるのであり、自分の罪によるのではありません。アダムの違反により人間の本性は弱くも脆いものに変えられました。といっても個人の罪はアダムが犯した罪ではありません。人は自分で自分の罪を犯します。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(5・12-14)
病気にかかるとはいわば「免疫」がないので病原菌を撃退できないからです。アダムの違反は人類に、病気にかかりやすい弱さを伝えました。同時に罪への抵抗力も弱くなるというマイナス効果をもたらしました。だからと言って人は自分の罪の責任をアダムの押し付けることはできません。人は自分の罪の結果を負わなければならないのです。キュロスのテオドレトスは「各人がみな死の支配に服するのは、祖先の罪によってではなく、各人自身の罪によるのです。」(同書、31㌻) こうして、テオドレトスは、アダムの根源的な責任と人間への堕落した人間本性の継承性を否定
せずに、継承性に冒された罪あるすべての人間の共同責任を主張しています。
それではいかにしてアダムによってもたらされた人間本性の恵みの喪失の回復と治癒は可能になるのでしょうか。それは受肉した神の言(ことば)によってできるのです。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一
人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたよう
に、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が
増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わ
たしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ5・17-21)
アダムによって変質した人間の本性は、キリストにおいて復元され、楽園で享受するすべての特権を取り戻します。キリストは贖い=罪からの解放を通して、悪と悪魔の支配から人間を解放し、死と腐敗に打ち勝ちました。キリストは復活によって悪と罪を打ち滅ぼし、人間の本性を癒し、宇宙万物を治癒し、刷新します。
そのために神は人間がキリストに自由に同意し協力するよう求めています。
キリストは人間本性を再生しいわば神化してくださいます。そのためには人間の側の信仰と自己放棄、悪との闘い、自己獣化のためも努力が必要なのです。キリストは不死と非腐敗性を勝ち取ったがその成果を人が自由に受け取るように望んでいます。そのために地上においては、いまだ罪、悪霊の仕業、肉体の死をキリストは取り除いてはいないのです。すべての悪が消滅するのはキリストの再臨の時です。その時こそ、「義の宿る新しい天と新しい地」(ニペトロ3・13)が出現するのです。
聖人自身もまた、身体の痛みや病魔、そして最終的には、生物としての死を免れません。この事実は、身体の健康と霊魂の健康には必然的な関係がないこと、また病気・苦痛がその人の罪に起因するものではないことを示しています。
時に聖人は他の誰よりも病気の苦しみに出会います。
それは聖人本人だけでなく周りの人々の霊的成長を望む神の摂理の表れであり、聖人自身の聖徳への試練のためである、などの理由が挙げられます。
さらに考えられるのは、悪霊の働きで有ります。ヨブ記が示していますが、神は悪魔が人を試練に合わせることをおゆるしになります。しかし神は人が絶えられない以上の試練を課すことはないのです。(一コリ10・13)
健康は健康な人に善をもたらさなければ健康が良いとは言えない。また病気から得られる善きことを喜んでいる多くの霊的な人もいることは事実である。
病気のおかげで人間は自分の脆弱性、欠陥、依存性、限界を自覚する。自分が塵であることを思い起こさせ、思い上がりを正し、人を謙虚に導く。病気は現世に対する執着を無くさせ、地上の虚しさを悟らせ、天井の世界への思いを強くさせ、心を神へと向けさせる。
病気は神が人間を罪から清めるために送ってくださる、霊的浄化の機会である。
病気とその苦しみは人間が神の国に入るために通らなければならない試練の一部であり、キリストの弟子として負うべき十字架である。
聖ヨハネ・クリュソストムスは言っている。「神は我々を苦しめれば苦しめるほど、われわれを完璧にするのです。」(同書、60㌻)
病気は忍耐という徳を学ぶ機会となる。病気は謙虚に源泉となる。
使徒パウロは言っている。「わたしは弱いときこそ強い。」(ニコリ12・10)
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(ニコリ5・1)
病魔に直面するものは何よりも忍耐を示さなければならない。悪魔の誘惑は、落胆、悲嘆、無力感、怒り、苛立ち、失望、反抗といった思いを魂に滑り込ませる。
(ルカ21・19、へブ10・36、詩39・2、マタイ10・22、ロマ12・12)
病者にとって祈りは特に大切です。祈りによって必要な助けと自分を豊かにする霊的な贈り物を頂くことができる。
病床における祈りは願い事にとどまらず、感謝の祈りでなければならない。病気は神の栄光をたたえる機会となり、神の子が人類を癒し救うために遣わされたことを感謝する機会となる。
病気の時にとるべき心構えで最高位に置かれるのは忍耐すること、そして感謝することである。
次いで第三章でキリスト教的な治癒の方途を述べています。ここでは項目を挙げるに留めます。
―キリストは真の医者である。
―聖人は神の名によって癒しを行いました。
―治癒のために最も重要な手段は祈りです。
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
(ヤコブ5・13-16)
出血症の女へ向かってイエスが言ったことば。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9・22、他に、マタイ15・28、マルコ5・34、マルコ10・52、ルカ7・50、8・48、17・19、18・42)
院人のための祈りが推奨される。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・19-20)
聖母や聖人の執り成しの祈りが大切である。
さらに以下の項目が東方正教会では行われています。
塗油と祈り
聖水の注ぎ
十字架のしるし
祓魔式(ふつましき)(悪魔祓い)
通常の世俗医療
最大主義
キリストが唯一の医者であることを理由に世俗の医術に頼ることを拒否する立場。
神に帰することで正当化される世俗的医療の霊的な理解
治癒は神がもたらすという信仰
医学には限界があるということ
魂の治療に意を用いるべきこと
身体の治癒は人間全体の霊的治癒を象徴し告げる
魂の病気は身体より重大である
肉体の健康は相対的な価値しか持たない
将来の非腐敗性と不死性の約束
これは《3)「癒し」はどのようにして完成するか》で改めて論じることにします。
3)「癒し」はどのように完成するのか。(終末論)
実際、わたしたちの身体が全面的に霊的な存在、いわば復活の体に変えられるのは地上の旅を終わる時であります。パウロは次のように教えている通りです。
しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。死者の復活もこれと同じです。蒔かれ
るときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもので
も、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体も
あるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。わたした
ちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。
肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後のラッパが鳴るとともに、たちま
ち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないも
のを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なな
いものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死
よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利
を賜る神に、感謝しよう。
(一コリント15・35、15・42,15・49-50、15/52-57)
パウロは何を言っているのか。
まず、これは終末の出来事で個人の死の時の出来事ではないようです。しかし、死というものは時間と空間の支配の外にでることでしょうから、このパウロの記述が準用されてもよいと考えます。「体の復活を信じます」と使徒信条で唱えます。体の復活はいつ起こるのか。人は死んでから眠りにつき、世の終わりに眠りから覚めて、体を頂いて、復活するのでしょうか。それても時間・空間のない世界で受け入れられすぐに体の復活を体験するのでしょうか。(死んだら確かめます。)
さて死んだらわたしたちの体はどうなるのか。地上の体は火葬場では骨と灰になってしまします。わたしたちは遺骨を骨壺に入れて恭しく持ち帰り、何日か警戒してから遺骨を埋葬します。人間の目に見えるのはそのような現象です。しかしパウロは言っています。
地上では朽ちる体ですが、復活の体は朽ちない体です。
地上では卑しい体ですが、復活の体は輝かしい体です。
地上では弱い体ですが、復活の体は力強い体です。
地上では自然の命の体ですが、復活の体は霊の体です。
最初の人アダムは神から命を受けましたが最後のアダムであるキリストは命を与える霊となりました。
人は土から出来た人の似姿ですが、復活の時には天に属する人キリストの似姿となるのです。
血と肉は朽ちるものであり、朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後の時死者は復活して朽ちないものとされます。
わたしたちは変えられ、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになります。
かくてこの時死は克服されます。死は罪の欠陥、罪は律法によります。かくてわたしたちは、律法の力の支配に打ち勝ち、罪を克服し、罪の結果である死への勝利に招き入れられます。
ここで言われていることを整理しましょう。
人は死を経て復活の体に変えられます。復活の体は同じ自分の体ですが、不死の体、非腐敗の体、病気から解放された完全に健康な体、復活したキリストの体のように霊的な体です。キリスト教の救いは霊魂と肉体の贖いであり救いであります。体だけの救いん、あるいは霊魂のだけの救いを前提としてはいません。人間全体の救いです。
この項目を閉じるにわたり筆者岡田の見解を短く述べることにします。すでに述べたように、『世界病者の日』の説教で牧者としての見解を注においてお伝えしました。そしてさらに、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みました。論点を次に三点に絞りました。
- イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)
- 病気は何処から来たのか。(原罪論から)
3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)
ここで自分自身の意見を簡単に添付します。
1)についてはここで述べられている通りで異論はありません。
- についてです。ローマ・カトリック教会と東方正教会の教えのどこが違うのでしょうか。カトリックは「原罪」という教義で説明しております。不死性と非腐敗性の喪失は、アダムの罪が生殖によって子孫に伝えられることによるのだ、と言っています。東方正教会では、アダムの罪の影響を否定しないまま、人は自分の罪によって不死性と非腐敗性を失った、と言っています。(この点をさらに確認する必要があり。)両者とも創世記の1章、2章の教えを根拠に論じています。問題は現代において創世記をどう読み解くのかであります。進化論がとビッグバンという仮説がほぼ一般化しつつある現代、創世記の解釈も「非神話化」する必要があります。とくに二章は重要です。神が息を吹き入れた時に人は生きるものとなったわけですが、それが文字通り起こったと考えなくともよいと思います。ここでわたくしは「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説を想起します。(注3) 創世記三章に出ている物語は一種の寓話です。神話的な物語に託して人類の各人に普遍的に起こる神からの働きかけを述べていると考えます。人間の肉体は塵にすぎません。しかし人間は「万物の霊長」です。神の霊を受けています。人は生をうけたときに神の霊を受けるべき状態に置かれています。カトリック教会は幼児洗礼という慣行を維持していますが、それは、目に見えない神の霊が生まれたばかりの幼児に働いており、幼児は神の霊をなんらかの形で受け取ることができる、と信じています。それは科学的には証明できないでしょう。レントゲン写真、あるいはCTで検査しても何のデーターの得られないことでしょう。しかし、人は誰でも神の霊の働きにもとにあります。地上の現実は神の霊を受け入れるには困難な状況にあります。「世の罪」が蔓延しており、人はなかなかの声に耳を傾けません。もし出生の最初に神の霊に満たされれば、悪の力を撃退する可能性に恵まれます。多くの人はいわば悪の病原菌への免疫がない状態に置かれています。それがカトリック教会が言うところに「原初の聖と義」のない状態である原罪であります。原罪という言葉は聖アウグスチヌスにはじまるのでしょうか。(要確認) 東方教会では人祖が神の背いた結果、死ぬことも、死なないこともできる状態に陥ったと考えます。堕罪の前は死ぬこともなく病むこともない楽園にいたが、堕罪の後は楽園から追放されて、死ぬことも腐敗に落ちることもある状態になりました。しかし現実に人が死にあるいは腐敗するのはその人の罪の結果です。「人は自分の罪によって死ぬのです」がが東方正教会の立場です。カトリック教会では、聖母マリアだけは原罪の汚れから免れたと考えます。人は世の罪の攻撃に対して無防備であり撃退する体力がなく免疫もできていないと考えます。キリスト教信者の霊的生活とは、霊の導きに従うことにほかなりません。『病の神学』はその視点から非常に有益な勧めを与えてくれます。
- カトリックと東方正教会の教えの違いには大きいものはありません。カトリックの場合は、人は自分の罪の有無に関係なく死を経験しますが、東方正教会の場合はアダムの罪の影響はあるにせよ、自分の罪によって死ぬことになるのです。
(注1)
2015年世界病者の日・説教
2015年2月11日
聖書朗読箇所
第一朗読 イザヤ53・1-5,10-11
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
第二朗読 ヤコブ5・13-16
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
福音朗読 マルコ1・29-34
そのとき イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
===
説教
今日は「世界病者の日」です。カトリック教会ではルルドの聖母の日であり、聖ヨハネ・パウロ二世はこの日を「世界病者の日」と定められました。
病気は誰にとっても大きな苦悩の原因です。
わたしたちの救い主イエス・キリストは実に「癒すかた」でした。きょうの福音はイエスが宣教活動の初めの頃のある一日、カファルナウムで行った、神の国の到来を告げ知らせる働きを、簡潔に述べています。
イエスの宣教には病人の癒しと悪霊の追放を伴うのが常でした。会堂で悪霊を追い出したイエスは、その後シモンとアンデレの家に行き、シモンの姑が熱を出していると告げられと、すぐに姑のところに行って彼女を癒しました。
彼女の手を取り、彼女を起こします。ここに、イエスの悪に打ち勝つ力があらわれています。
「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ1・34)とマルコは述べます。
イエスは病気の苦しみを担う人や体の不自由な人に深い関心を寄せ、深い共感を持っていました。イエスは言われました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2・17)
イエスが罪人に対して取った態度は、病人や体の不自由な人に対して取った態度に重なります。病人や体の不自由な人を優先させることがイエスの基本的な生き方でした。イエスは安息日のおきてを破るという非難を覚悟した上で、手の萎えた人を癒し、律法学者やファリサイ派の人々を敵に回してしまいました。(マルコ3・1-6)
教会はこのイエスの癒しの働きと使命を受け継いでいます。復活したイエスは弟子たちに言われました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16・16-18)
7つの秘跡の一つの病者の塗油も、教会がキリストから受け継いだ癒しの働きです。今日の第二朗読は病者の塗油の、秘跡の制定の根拠とされる箇所です。
「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5・14-15)
イエス・キリストが宣教活動で何をしたかといえば次の事柄にまとめられます。
「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、
ご受難において人々の苦しみ悲しむ病を背負い、
人々の贖いを成し遂げ、死を滅ぼして復活の世界に入られた。」
今日の第一朗読は、イザヤ53章の主の僕の歌です。ここで「彼が担ったのはわたしたちの病」といわれています。
この主の僕は主イエスの前触れです。イエスはわたしたちの病と罪を背負って十字架にかかられたのでした。わたしたちも兄弟姉妹の苦しみと病に寄り添い担うよう招かれています。わたしたちは自分自身から出て、病気で苦しむ兄弟姉妹のもとに赴き、寄り添いながらともに苦しみを担うようでありたいと思います。
わたしたちは、忙しさに追われているために、・・・自分自身を無償で差し出すこと、人の世話をすること、自分は他者に対して責任があることを忘れがちです。(これは今年の「世界病者の日」の教皇メッセージで教皇様が言っておられることです。(教皇メッセージ、4を参照)
神はすべての人の健康を望んでおられます。健康は神の救いの恵みであり、神の霊の賜物です。聖書の言う「平和(シャローム)」は完全な健康を意味していると思います。
人間が平和で満たされる時、それは創造の完成の状態です。それは神の霊=聖霊による癒しと贖いを受けた状態です。
わたしたちはキリストの再臨により、わたしたちは完全にすべての悪から(罪、病気などから)解放され、キリストの復活の体に与ります。そのときが、霊的にも聖霊による平和に満たされた健康に与るときであると考えます。
すべての人の救いと健康のために祈りましょう。
世界病者の日ミサ説教
2017年2月11日
第一朗読 創世記3・1-19
福音朗読 ヨハネ9・1-12
(福音本文)
[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
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説教
みなさん、今日は2月11日、ルルドの聖母の祝日となっています。
1858年2月11日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。
さて、この2月11日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。
いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。
「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。
12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。
さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。
今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。
今日、2月11日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。
弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。
(注2) 「健康」の定義と言えば、世界保健機構の定義がよく知られています。
従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."
と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)
平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、
"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."
と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。しかしその後改正案は最終的に採択されるには至っていません。
(注3)生物学用語。受精卵または単為発生卵、あるいは無性的に生じた芽体、芽や胞子など未分化な細胞もしくは細胞集団から、種の一員としての生殖可能な個体が生ずることをいう。一方、これと対(つい)をなす概念に系統発生があり、生物の進化の道筋で、ある生物種が生じ系統として確立する過程をさす。個体発生は、細胞分裂により一定の数に達した細胞集団が、一定の秩序と広がりをもって配置され、同時にそれぞれの位置に応じた機能を果たすように分化することにより、独立した1個の生物体となる過程をいう。受精卵から出発した場合、この過程は胚(はい)発生の過程と、これが成長・成熟して生殖能力をもつに至る過程とに分けられる。無脊椎(むせきつい)動物では、後者は後胚発生とよばれ、1回以上の変態を経たのち成体となる。多くの脊椎動物では身体の成長と諸機能の成熟をまって成体となる。「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの動物学者E・H・ヘッケルの考え方は大筋において正しく、胚発生のある時期に、その種より系統的に古い種の形態的特徴が認められる。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) [竹内重夫]
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