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2020年10月

2020年10月31日 (土)

病気について考える

悪について、その12、「病気」について

 

人が免れない問題の中に「病気」ということがあります。仏教では四苦八苦ということを言いまして、四苦の中に、生病老死があげられ、病気がすべて生きとし生ける者の苦しみであると言われているわけです。

カトリック教会は毎年211日を「世界病者の日」と定め、病者とその家族、医療関係者のためミサと祈りをささげております。いまあらためてその時の説教を読み直してみると、結局、自分が病気について思うことで大切なことは、この中で述べられていることに尽きるように思います。説教二点を添付しますのでどうか閲覧ください。(1)

なお、病気について『カトリック教会の教え』は次のように述べています。

 

一般的に、「病気」とは各人が主観的に異常や違和感を覚えることや、それによる本人の痛みや苦しみの経験を表現します。そして、医師による診断の結果、病名がつけられて客観的に疾患が確認されます。・・・)(337㌻)

 

ここでは以下に、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みます。

まず論点を挙げます。

1)イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)

2)病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

 

1)イエス、「癒しの人」

イエスは「癒しの人」であるのか。

四福音書を読んですぐに気の付くことは、イエスが多くの人を癒し、悪霊を追放しているということです。イエスはその生涯で何をしたかと言えば、人を救うという使命を遂行した、と言えるでしょう。人を救うということの中にはもちろん、罪の赦しと贖い、罪からの解放ということが最も重要ですが、どうじに病気・障がい、疾患で苦しむ死を癒し、悪霊から人々を解放したということが非常に大切なこととして含まれています。救いと解放とは、心身の人間の贖いであります。霊魂だけを救うということないし、肉体だけをすくうということもなかったはずです。

とりあえずマルコ福音書を見ていきましょう。

イエスは40日間の誘惑に打ち勝ってガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始められました。

―まずイエスは、カファナウムで汚れた霊に憑りつかれた男を癒しました。(マルコ121-28)

―イエスはシモンの姑の熱を鎮め、多くの病人を癒し多くの悪霊を追放しました。(マルコ129-34)29-34)

―イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。(マルコ139)

イエスは重い皮膚病を患っている人を癒します。(マルコ140-45)

―イエス、中風の人を癒す。(マルコ21-12)

(イエスは中風の人を癒したがその前に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったので律法学者を躓かせ、冒瀆罪に問われる原因をつくった。)

―手の萎えた人を癒す。(アルコ31-6)

(その日は安息日であったのでファリサイ派トヘロデ派はイエスを殺す相談を始めている。)

―悪霊に憑りつかれたゲラサの人を癒す。(マルコ51-20)

―ヤイロの娘と出血症の女を癒す。(マルコ521-43)

―ゲネサレトで病人を癒す。(マルコ650-56)

―シリヤ・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出す。(マルコ724-30)

―耳が聞こえず舌が回らない人を癒す。(マルコ731-37)

―ベトサイダで盲人を癒す。(マルコ822-22)

―汚れた霊に憑りつかれた子を癒す。(マウコ914-29)

―盲人バルテマイを癒す。(マルコ10・46-52)

如何に以上で見たように多くの部分が癒しの記述に使われているかが分かります。マルコだけではなくマタイ、マルコについても同様のことが言えるでしょう。

病気や障害とは本来あるべきでないのです。神の国が到来すれば一切の病苦は消滅します。イエスが癒されたのは地上のごく少数の人々でした。彼らはやがって死を迎えたことでしょう。イエスの癒しは神の国がある、ということを示すしるしでありました。このしるしが永遠の命として結実するためには、主の復活と主の再臨を待たなければなりません。

イエスは癒す人であり、永遠の命を齎す人、であり、復活の命に人々を与らせる人であります。(2)

 

2)病気は何処から来たのか。(原罪論)

創世記1章によれば、神は人間を神にかたどり神に似た者として創造され、それを「極めて良い」とご覧になられました。しかし現実にこの世界には種々の悪が存在します。病気も悪の人です。病気は何処から入ってきたのでしょうか。教会はどのように説明しているでしょうか。

カトリック教会によれば、その原因は人間の「原罪」にあるとしています。悪の原因は神には在りません。人間の不信仰と不従順が病気を含む悪の原因であるとしています。創世記第3章によれば、最初の人間アダムとエバは神への信頼を失い、禁じられた、善悪を知る木の実を食べ、不信仰と不従順に陥り、神との親しさを失いました。この神との親しさを失っている状態が後に「原罪」と呼ばれるようになりました。

『カトリック教会のカテキズム』では次のように述べられています。

 

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。

(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

それでは他の教会では「病気」をどう説明しているでしょうか。東方正教会の見解を最近が出版された『病の神学』(ジョン=クロード・ラルシュ著、二階宗人訳、教友社)によって分かち合いましょう。

 

神が「見えるものと見えないものすべての創造主(コロ116参照)です。しかしもろもろの病気や苦痛、そして死の造り主であると考えることはできない。教父たちはそのことを明言している。聖バシレイオスは、その説教「神は災いの原因ではない」のなかで述べている。「神がわれわれの災いの造り主だと信じるのは正気の沙汰ではありません。こうした冒瀆は〔……〕神の善性を損なうものです。・・・・(15)

ニュッサの聖グレゴリオスは次のように答えている。「人間の命の現状がもつ不条理な性格は、〔神の像と結びついた〕善き事柄を人間が一度ももちあわせなかったことを立証するものではありません。〔・・・・・〕われわれの現在の条件と、そしてもっとうらやむに足る状態を奪った喪失には、他に原因があるのです。」(15-16)

『創世記』は、神の創造はその始原において完全に善きものであったことを明らかにしています。(創・31)

聖マクシモスは言っています。「神からその存在を与えられた最初の人間は、罪と腐敗を免れて生まれました。〔…・・〕。なぜなら罪も腐敗も、彼とともに創造されることはなかったからです。」(17)

多くの教父は、神は死を創造しなかったこと、始原における人間の本性は腐敗を免れていた、ということ、したがって人間の本性は不死であった、と教えています。しかし教父たち間にはこの点について微妙な相違が見いだされます。聖アウグスチヌスは、人間はその身体の本性において死すべきものであった、と述べ、アレクサンドリアのアタナシスも、原初の人間の本性は腐敗すべきものであった、と言明しています。

この不整合をどう説明できるか。

原初の人間は不死で腐敗しない存在であったのか、あるいは死すべきもの、腐敗すべきものであったのか。

そこで結論はどうなるのか。次のように説明されます。原初の人間とはどの段階の人間か。

   主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記27)

 

神が地の塵から神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形づくったとき、その最初の状態では、人間は死すべきものでした。神は人の鼻に命の息を吹き込みました。その時点で人は生きるものとなり、不死の命を生きるものとなったのです。聖アタナシオスは言っています。「人間は腐敗する本性を持っていたのですが、言への参画という恵〔によって〕「その本性をしばる条件を免れる」ことができ、「現存する言のゆえに、本性の腐敗が彼らに及ぶことがなかったのです。」

この恵みによってアダムは、いまわたしたちが置かれている人間的条件とは大幅に異なる状態に置かれていたのであり、この状態を聖書は「楽園」と呼んでいるのです。楽園における人間は天使の状態に近く、アダムは物質性や有形性を持つ者でなかった、と聖マクシモスは考えます。アダムの体はパウロが述べているような復活した体のようだったと考えるようです。

腐敗することなく死ぬことのない状態に想像された人間は神の恵みの中にとどまる限り死ぬこともなく腐敗することもありませんでした。神の恵みのうちに留まるためには、人間は与えられた自由意志を用いて、自分から神の掟を守らなければなりませんでした。

しかし神の命令に背いたために神の命という恵を喪失したのです。ではどういうべきでしょうか。

罪の落ちる前の原初の人間は、実のところ、死すべきものではなく、不死でもなかったのです。どちらになるかは、人間の自由な判断と選択にかかっている状態に置かれていたのでした。

したがって教父によれば、人間の個人意思のうちに、自由意志の誤った使い方により、あるいは楽園で犯した罪によって、人類に、病気、心身の障がい、苦痛、腐敗、死が入ってきたのです。病気などの悪淵源は父祖の罪によるのです。自ら神のようになろうとしたことによってアダムとエバは神の特別な恵みを失い、塵から造られたもともとの人間の状態に戻されたのでした。

「アダムが人類の本性の「根源」をなし、その原型であって、また第一に全人類を包摂するゆえに、彼はその状態を子孫全体に移転する。こうして死や腐敗、病気、苦痛が人類全体の定めとなる。」(同書、28ページ)

人と人とのつながりの乱れ、男女関係の葛藤、そしてアダムと自然との親和性は失われ、土は人間にとって呪われたものなり、土は茨とあざみの生える不毛の地となり、さらに、自然と人間との調和も失われました。

  神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなっ 

  た。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔 

  に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記317-18)

 

アダムとイブの罪の結果はすべての人類に及ぶだけでなく、すべての被造物に及びました。全被造物は腐敗へ隷属するとされてしまったのです。パウロはローマ書で言っています。

 

  被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持ってい 

  ます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今

  日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8・20-22)

 

さて、それでは人間は自分たちの病気に責任があるのだろうか。

人間が原初の恵みを失ったのは、アダムの罪によるのであり、自分の罪によるのではありません。アダムの違反により人間の本性は弱くも脆いものに変えられました。といっても個人の罪はアダムが犯した罪ではありません。人は自分で自分の罪を犯します。

 

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(512-14)

 

病気にかかるとはいわば「免疫」がないので病原菌を撃退できないからです。アダムの違反は人類に、病気にかかりやすい弱さを伝えました。同時に罪への抵抗力も弱くなるというマイナス効果をもたらしました。だからと言って人は自分の罪の責任をアダムの押し付けることはできません。人は自分の罪の結果を負わなければならないのです。キュロスのテオドレトスは「各人がみな死の支配に服するのは、祖先の罪によってではなく、各人自身の罪によるのです。」(同書、31) こうして、テオドレトスは、アダムの根源的な責任と人間への堕落した人間本性の継承性を否定

せずに、継承性に冒された罪あるすべての人間の共同責任を主張しています。

それではいかにしてアダムによってもたらされた人間本性の恵みの喪失の回復と治癒は可能になるのでしょうか。それは受肉した神の言(ことば)によってできるのです。

  一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一

 人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 

    一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたよう

   に、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が

  増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わ

  たしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ517-21)

 

アダムによって変質した人間の本性は、キリストにおいて復元され、楽園で享受するすべての特権を取り戻します。キリストは贖い=罪からの解放を通して、悪と悪魔の支配から人間を解放し、死と腐敗に打ち勝ちました。キリストは復活によって悪と罪を打ち滅ぼし、人間の本性を癒し、宇宙万物を治癒し、刷新します。

 

そのために神は人間がキリストに自由に同意し協力するよう求めています。

キリストは人間本性を再生しいわば神化してくださいます。そのためには人間の側の信仰と自己放棄、悪との闘い、自己獣化のためも努力が必要なのです。キリストは不死と非腐敗性を勝ち取ったがその成果を人が自由に受け取るように望んでいます。そのために地上においては、いまだ罪、悪霊の仕業、肉体の死をキリストは取り除いてはいないのです。すべての悪が消滅するのはキリストの再臨の時です。その時こそ、「義の宿る新しい天と新しい地」(ニペトロ313)が出現するのです。

聖人自身もまた、身体の痛みや病魔、そして最終的には、生物としての死を免れません。この事実は、身体の健康と霊魂の健康には必然的な関係がないこと、また病気・苦痛がその人の罪に起因するものではないことを示しています。

 

時に聖人は他の誰よりも病気の苦しみに出会います。

それは聖人本人だけでなく周りの人々の霊的成長を望む神の摂理の表れであり、聖人自身の聖徳への試練のためである、などの理由が挙げられます。

さらに考えられるのは、悪霊の働きで有ります。ヨブ記が示していますが、神は悪魔が人を試練に合わせることをおゆるしになります。しかし神は人が絶えられない以上の試練を課すことはないのです。(一コリ1013)

 

健康は健康な人に善をもたらさなければ健康が良いとは言えない。また病気から得られる善きことを喜んでいる多くの霊的な人もいることは事実である。

病気のおかげで人間は自分の脆弱性、欠陥、依存性、限界を自覚する。自分が塵であることを思い起こさせ、思い上がりを正し、人を謙虚に導く。病気は現世に対する執着を無くさせ、地上の虚しさを悟らせ、天井の世界への思いを強くさせ、心を神へと向けさせる。

病気は神が人間を罪から清めるために送ってくださる、霊的浄化の機会である。

病気とその苦しみは人間が神の国に入るために通らなければならない試練の一部であり、キリストの弟子として負うべき十字架である。

聖ヨハネ・クリュソストムスは言っている。「神は我々を苦しめれば苦しめるほど、われわれを完璧にするのです。」(同書、60㌻)

病気は忍耐という徳を学ぶ機会となる。病気は謙虚に源泉となる。

使徒パウロは言っている。「わたしは弱いときこそ強い。」(ニコリ1210

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(ニコリ51)

病魔に直面するものは何よりも忍耐を示さなければならない。悪魔の誘惑は、落胆、悲嘆、無力感、怒り、苛立ち、失望、反抗といった思いを魂に滑り込ませる。

(ルカ2119、へブ1036、詩392、マタイ1022、ロマ1212

 

病者にとって祈りは特に大切です。祈りによって必要な助けと自分を豊かにする霊的な贈り物を頂くことができる。

病床における祈りは願い事にとどまらず、感謝の祈りでなければならない。病気は神の栄光をたたえる機会となり、神の子が人類を癒し救うために遣わされたことを感謝する機会となる。

 

病気の時にとるべき心構えで最高位に置かれるのは忍耐すること、そして感謝することである。

 

次いで第三章でキリスト教的な治癒の方途を述べています。ここでは項目を挙げるに留めます。

―キリストは真の医者である。

―聖人は神の名によって癒しを行いました。

―治癒のために最も重要な手段は祈りです。

   あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

   (ヤコブ513-16)

   出血症の女へ向かってイエスが言ったことば。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ922、他に、マタイ1528、マルコ534、マルコ1052、ルカ75084817191842

院人のための祈りが推奨される。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ1819-20)

 

聖母や聖人の執り成しの祈りが大切である。

さらに以下の項目が東方正教会では行われています。

塗油と祈り

聖水の注ぎ

十字架のしるし

祓魔式(ふつましき)(悪魔祓い)

通常の世俗医療

最大主義

  キリストが唯一の医者であることを理由に世俗の医術に頼ることを拒否する立場。

神に帰することで正当化される世俗的医療の霊的な理解

治癒は神がもたらすという信仰

医学には限界があるということ

魂の治療に意を用いるべきこと

身体の治癒は人間全体の霊的治癒を象徴し告げる

魂の病気は身体より重大である

肉体の健康は相対的な価値しか持たない

将来の非腐敗性と不死性の約束

 これは《3)「癒し」はどのようにして完成するか》で改めて論じることにします。

 

3)「癒し」はどのように完成するのか。(終末論)

 

実際、わたしたちの身体が全面的に霊的な存在、いわば復活の体に変えられるのは地上の旅を終わる時であります。パウロは次のように教えている通りです。

 

     しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。死者の復活もこれと同じです。蒔かれ 

    るときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもので

    も、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体も

    あるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。わたした

   ちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。

   肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後のラッパが鳴るとともに、たちま

   ち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないも

   のを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なな

   いものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死

   よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利

   を賜る神に、感謝しよう。

(一コリント15・351542,1549-5015/52-57)

  

パウロは何を言っているのか。

まず、これは終末の出来事で個人の死の時の出来事ではないようです。しかし、死というものは時間と空間の支配の外にでることでしょうから、このパウロの記述が準用されてもよいと考えます。「体の復活を信じます」と使徒信条で唱えます。体の復活はいつ起こるのか。人は死んでから眠りにつき、世の終わりに眠りから覚めて、体を頂いて、復活するのでしょうか。それても時間・空間のない世界で受け入れられすぐに体の復活を体験するのでしょうか。(死んだら確かめます。)

さて死んだらわたしたちの体はどうなるのか。地上の体は火葬場では骨と灰になってしまします。わたしたちは遺骨を骨壺に入れて恭しく持ち帰り、何日か警戒してから遺骨を埋葬します。人間の目に見えるのはそのような現象です。しかしパウロは言っています。

 

地上では朽ちる体ですが、復活の体は朽ちない体です。

地上では卑しい体ですが、復活の体は輝かしい体です。

地上では弱い体ですが、復活の体は力強い体です。

地上では自然の命の体ですが、復活の体は霊の体です。

最初の人アダムは神から命を受けましたが最後のアダムであるキリストは命を与える霊となりました。

人は土から出来た人の似姿ですが、復活の時には天に属する人キリストの似姿となるのです。

血と肉は朽ちるものであり、朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後の時死者は復活して朽ちないものとされます。

わたしたちは変えられ、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになります。

かくてこの時死は克服されます。死は罪の欠陥、罪は律法によります。かくてわたしたちは、律法の力の支配に打ち勝ち、罪を克服し、罪の結果である死への勝利に招き入れられます。

 

ここで言われていることを整理しましょう。

人は死を経て復活の体に変えられます。復活の体は同じ自分の体ですが、不死の体、非腐敗の体、病気から解放された完全に健康な体、復活したキリストの体のように霊的な体です。キリスト教の救いは霊魂と肉体の贖いであり救いであります。体だけの救いん、あるいは霊魂のだけの救いを前提としてはいません。人間全体の救いです。

 

この項目を閉じるにわたり筆者岡田の見解を短く述べることにします。すでに述べたように、『世界病者の日』の説教で牧者としての見解を注においてお伝えしました。そしてさらに、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みました。論点を次に三点に絞りました。

  1. イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)
  2. 病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

ここで自分自身の意見を簡単に添付します。

1)についてはここで述べられている通りで異論はありません。

  1. についてです。ローマ・カトリック教会と東方正教会の教えのどこが違うのでしょうか。カトリックは「原罪」という教義で説明しております。不死性と非腐敗性の喪失は、アダムの罪が生殖によって子孫に伝えられることによるのだ、と言っています。東方正教会では、アダムの罪の影響を否定しないまま、人は自分の罪によって不死性と非腐敗性を失った、と言っています。(この点をさらに確認する必要があり。)両者とも創世記の1章、2章の教えを根拠に論じています。問題は現代において創世記をどう読み解くのかであります。進化論がとビッグバンという仮説がほぼ一般化しつつある現代、創世記の解釈も「非神話化」する必要があります。とくに二章は重要です。神が息を吹き入れた時に人は生きるものとなったわけですが、それが文字通り起こったと考えなくともよいと思います。ここでわたくしは「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説を想起します。(3) 創世記三章に出ている物語は一種の寓話です。神話的な物語に託して人類の各人に普遍的に起こる神からの働きかけを述べていると考えます。人間の肉体は塵にすぎません。しかし人間は「万物の霊長」です。神の霊を受けています。人は生をうけたときに神の霊を受けるべき状態に置かれています。カトリック教会は幼児洗礼という慣行を維持していますが、それは、目に見えない神の霊が生まれたばかりの幼児に働いており、幼児は神の霊をなんらかの形で受け取ることができる、と信じています。それは科学的には証明できないでしょう。レントゲン写真、あるいはCTで検査しても何のデーターの得られないことでしょう。しかし、人は誰でも神の霊の働きにもとにあります。地上の現実は神の霊を受け入れるには困難な状況にあります。「世の罪」が蔓延しており、人はなかなかの声に耳を傾けません。もし出生の最初に神の霊に満たされれば、悪の力を撃退する可能性に恵まれます。多くの人はいわば悪の病原菌への免疫がない状態に置かれています。それがカトリック教会が言うところに「原初の聖と義」のない状態である原罪であります。原罪という言葉は聖アウグスチヌスにはじまるのでしょうか。(要確認) 東方教会では人祖が神の背いた結果、死ぬことも、死なないこともできる状態に陥ったと考えます。堕罪の前は死ぬこともなく病むこともない楽園にいたが、堕罪の後は楽園から追放されて、死ぬことも腐敗に落ちることもある状態になりました。しかし現実に人が死にあるいは腐敗するのはその人の罪の結果です。「人は自分の罪によって死ぬのです」がが東方正教会の立場です。カトリック教会では、聖母マリアだけは原罪の汚れから免れたと考えます。人は世の罪の攻撃に対して無防備であり撃退する体力がなく免疫もできていないと考えます。キリスト教信者の霊的生活とは、霊の導きに従うことにほかなりません。『病の神学』はその視点から非常に有益な勧めを与えてくれます。
  2. カトリックと東方正教会の教えの違いには大きいものはありません。カトリックの場合は、人は自分の罪の有無に関係なく死を経験しますが、東方正教会の場合はアダムの罪の影響はあるにせよ、自分の罪によって死ぬことになるのです。

(注1)

2015年世界病者の日・説教

2015年211

 

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ531-5,10-11

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見

それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

彼らの罪を自ら負った。

第二朗読 ヤコブ513-16

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

福音朗読 マルコ129-34

そのとき イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

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説教

 

今日は「世界病者の日」です。カトリック教会ではルルドの聖母の日であり、聖ヨハネ・パウロ二世はこの日を「世界病者の日」と定められました。

病気は誰にとっても大きな苦悩の原因です。

わたしたちの救い主イエス・キリストは実に「癒すかた」でした。きょうの福音はイエスが宣教活動の初めの頃のある一日、カファルナウムで行った、神の国の到来を告げ知らせる働きを、簡潔に述べています。

イエスの宣教には病人の癒しと悪霊の追放を伴うのが常でした。会堂で悪霊を追い出したイエスは、その後シモンとアンデレの家に行き、シモンの姑が熱を出していると告げられと、すぐに姑のところに行って彼女を癒しました。

彼女の手を取り、彼女を起こします。ここに、イエスの悪に打ち勝つ力があらわれています。

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ134)とマルコは述べます。

イエスは病気の苦しみを担う人や体の不自由な人に深い関心を寄せ、深い共感を持っていました。イエスは言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ217

イエスが罪人に対して取った態度は、病人や体の不自由な人に対して取った態度に重なります。病人や体の不自由な人を優先させることがイエスの基本的な生き方でした。イエスは安息日のおきてを破るという非難を覚悟した上で、手の萎えた人を癒し、律法学者やファリサイ派の人々を敵に回してしまいました。(マルコ31-6) 

教会はこのイエスの癒しの働きと使命を受け継いでいます。復活したイエスは弟子たちに言われました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ1616-18)

7つの秘跡の一つの病者の塗油も、教会がキリストから受け継いだ癒しの働きです。今日の第二朗読は病者の塗油の、秘跡の制定の根拠とされる箇所です。

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ514-15

イエス・キリストが宣教活動で何をしたかといえば次の事柄にまとめられます。

「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、

ご受難において人々の苦しみ悲しむ病を背負い、

人々の贖いを成し遂げ、死を滅ぼして復活の世界に入られた。」

今日の第一朗読は、イザヤ53章の主の僕の歌です。ここで「彼が担ったのはわたしたちの病」といわれています。

この主の僕は主イエスの前触れです。イエスはわたしたちの病と罪を背負って十字架にかかられたのでした。わたしたちも兄弟姉妹の苦しみと病に寄り添い担うよう招かれています。わたしたちは自分自身から出て、病気で苦しむ兄弟姉妹のもとに赴き、寄り添いながらともに苦しみを担うようでありたいと思います。

わたしたちは、忙しさに追われているために、・・・自分自身を無償で差し出すこと、人の世話をすること、自分は他者に対して責任があることを忘れがちです。(これは今年の「世界病者の日」の教皇メッセージで教皇様が言っておられることです。(教皇メッセージ、4を参照)

神はすべての人の健康を望んでおられます。健康は神の救いの恵みであり、神の霊の賜物です。聖書の言う「平和(シャローム)」は完全な健康を意味していると思います。

人間が平和で満たされる時、それは創造の完成の状態です。それは神の霊=聖霊による癒しと贖いを受けた状態です。

わたしたちはキリストの再臨により、わたしたちは完全にすべての悪から(罪、病気などから)解放され、キリストの復活の体に与ります。そのときが、霊的にも聖霊による平和に満たされた健康に与るときであると考えます。  

すべての人の救いと健康のために祈りましょう。

 

世界病者の日ミサ説教

2017年211

第一朗読  創世記31-19
福音朗読  ヨハネ91-12

(福音本文)

[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
 
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

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説教

 

みなさん、今日は211日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858
211日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この211日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、211日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。

 

(注2) 「健康」の定義と言えば、世界保健機構の定義がよく知られています。

従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)

平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。しかしその後改正案は最終的に採択されるには至っていません。

 

(注3)生物学用語。受精卵または単為発生卵、あるいは無性的に生じた芽体、芽や胞子など未分化な細胞もしくは細胞集団から、種の一員としての生殖可能な個体が生ずることをいう。一方、これと対(つい)をなす概念に系統発生があり、生物の進化の道筋で、ある生物種が生じ系統として確立する過程をさす。個体発生は、細胞分裂により一定の数に達した細胞集団が、一定の秩序と広がりをもって配置され、同時にそれぞれの位置に応じた機能を果たすように分化することにより、独立した1個の生物体となる過程をいう。受精卵から出発した場合、この過程は胚(はい)発生の過程と、これが成長・成熟して生殖能力をもつに至る過程とに分けられる。無脊椎(むせきつい)動物では、後者は後胚発生とよばれ、1回以上の変態を経たのち成体となる。多くの脊椎動物では身体の成長と諸機能の成熟をまって成体となる。「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの動物学者EH・ヘッケルの考え方は大筋において正しく、胚発生のある時期に、その種より系統的に古い種の形態的特徴が認められる。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) [竹内重夫]

 

2020年10月26日 (月)

あなた罪人と言われてもね、何も悪いことしてないよ!

悪についてその11

――「罪」ということが分かり難いのではーー

 

キリスト教が受け入れ難いとしたらそれは何故かと言えば、いろいろあるでしょうが、「罪」という概念があげられるのではないでしょうか。「人は誰でも罪(つみ)人(びと)です。」などと言われると鼻白んで「自分は至らない欠点のある者だが罪人と言われたくはない。」と思う人のほうが多いと思います。「罪人(つみびと)」は「罪人(ざいにん)」とは違います。罪人(ざいにん)は犯罪者です。法律に違反したと裁判で判決された者が犯罪者です。犯罪者が「つみびと」とは限らないし罪人が「はんざいしゃ」とも限らない。両者は重なる部分があるが異なった範疇にあります。普通通常「罪人(つみびと)」とはどう解釈されるでしょうか。国語辞典を開くと次のように出ています。

デジタル大辞泉

1 道徳・法律などの社会規範に反する行為。「罪を犯す」

2 罰。1を犯したために受ける制裁。「罪に服する」「罪に問われる」

3 よくない結果に対する責任。「罪を他人にかぶせる」

4 宗教上の教義に背く行為。

        ㋐仏教で、仏法や戒律に背く行為。罪業 (ざいごう) 。

        ㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

       [形動]無慈悲なさま。残酷なさま。「罪なことをする」「罪な人」

 

新明解国語辞典

      道徳(宗教・法律)上してはならない行為。「-罪深い人間の子」

      道徳(宗教・法律)にそむいた不正行為に対する処罰

 

「デジタル大辞泉」の4 宗教上の教義に背く行為。――㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

はキリスト教の立場から言えば妥当な定義だと言えるでしょう。

「罪」とはまず神に背くことです。

カトリック教会で権威のある教理書は次のように定義しています。

 

罪とは、「永遠の法に背くことばや行い、あるいは望み」です。神に対する侮辱です。キリストの従順とは反対に、不従順によって神に逆らい、高慢になることです。(『カトリック教会のカテキズム』557㌻)

 

「永遠の法」とは神の定めと考えられます。罪とは神に背くことです。ミサの開祭にあたり信者は『告白の祈り』をしますが、その中で言います。

「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。・・・・」

罪とは神に対する違反であります。そして同時に罪は神に対する侮辱であります。

 

紀元前1000年ころのイスラエルの英雄であるダビデは大きな罪を犯しました。それは姦通と殺人という重大な罪です。殺人はもちろん犯罪です。ダビデは預言者ナタンの叱責を受けて神への謝罪の祈りをささげました。その祈りが詩編51です。その中で彼は言っています。(1)

 

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し

御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく

あなたの裁きに誤りはありません。(詩編51・6)

 

ダビデは神である主に向かって「あなたに、あなたのみに罪を犯した」と言っているのです。この「あなたのみ」という言い方に注意したいです。

日本人の感覚から言えば、ダビデは、殺された姦通の相手の夫ウリヤの家族、親族、そして戦場の部下や兵士に対して謝罪すべきではないでしょうか。彼らは戦場で王の命令によって野宿しながら食うや食わずの悲惨な状態で、安心してやすむことのできない危険な日々を送っているのです。それなのに、当の命令を下した王の方はのんびりと昼寝をし、戦場の部下の妻を寝取り、さらに姦計を弄してその夫ある部下ウリヤをも殺害したのですから、到底許さるべき行為ではないのです。王は辞任どころが、殺人罪の刑罰を受けるべきです。しかしその王を裁く権威は神しかいないのが当時のイスラエルの社会の通念でした。あるいは場合によっては民が反乱を起こすことも在り得たでしょう。後にダビデの息子アブサロムが父王に謀反を起こしていますが、しかしその理由、原因はババト・シェバの事件には関係がないようです。

 

『カトリック教会のカテキズム』では、罪とは神に対する侮辱であると言っています。

そして神に対する侮辱が「冒瀆罪」と呼ばれます。イスラム教では特に厳しく罰せられている罪です。ところで、皮肉なことに神の御子、神に等しい方イエス自身が、冒瀆罪に問われて処刑されました。(マタイ2665、マルコ164、レビ2416参照) イエスの処刑の理由は冒瀆罪でした。

神に対する冒瀆罪という、この感覚をわたしたちは持っているだろうか。人間関係では、侮辱、その償い慰藉料、という感覚はあります。侮辱されると言う体験があり、また侮辱するということもしていることは理解します。ナザレのイエスは侮辱される受難に際して侮辱されると苦しみをつぶさに体験しています。しかし見えない神である父に向かってわたしたちは侮辱するという意識を持つことが難しいと言えましょう。ですから自分が神に加えた侮辱を償うという意識は持ちにくいわけです。聖アンセルムスの贖罪論の受け入れ難い理由もそのあたりにあると思います。(2)

 

わたしたちの罪責感は人と社会に対する意識です。それは人に対して「申し訳ない」とか「悪いことをした」という意識であるさらに「恥ずべきことをした」「するべきことをしなかった」という気持ちです。また世間に対して「お騒がしました」「ご心配をかけました」「迷惑をかけました」という意識であり、会社の責任者たちが記者会見でそろって頭を下げる場面がたびたび報道されています。日本の社会では、人からどう見られるかが問題であり、人に知られなければ話は別なのです。

 

2020年1025日、年間第30主日の福音朗読はマタイによる福音書(2234-40節)でした。

 

(そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

この福音は教えています。

目に見える兄弟を愛さない人がどうして目に見えない神を愛することができるか。神を愛するとは兄弟・隣人を愛するということであり、神の戒めを守ることであります。

 

旧約聖書には、神様が、イスラエルの民に与えた掟が記されております。神の掟は、いろいろな律法に、細かく分かれていました。

そこで律法の専門家がイエスに、「どの掟がもっとも大切か」という質問をしたところ、イエスはお答えになりました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。

さらにイエスは続けて言われました。

「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。

「神を愛すること」、そして、「隣人を愛すること」。このふたつには、切っても切れないつながりがあります。

そこで、わたくしの心に浮かんでくる、新約聖書の教えがあります。

「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。

「目に見える兄弟を愛さない、憎む者がいれば、それは、偽り者である」と、ヨハネの手紙が述べています。

「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、「兄弟を愛する」ということは、ひとつに結びついています。神様のお望み、それは、わたしたちが、互いに愛し合うということです。

主イエスは、弟子たちにお命じになりました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 

「愛」という言葉は、非常に多義的であり、その意味は曖昧ですがとりあえず、師とパウロの教えが想起されます。

それは、「愛の賛歌」と呼ばれています、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章、大変有名な教えです。「愛は忍耐強く」という言葉から始まっています。

数えてみると、15カ条が述べられています。

「愛」という言葉のギリシャ語のもとの言葉は「アガペー」という言葉です。この「アガペー」には15の項目が含まれていると、使徒パウロが教えています。この15のことを見てみますと、「忍耐」ということに関する教えが、非常に目立つ。最初に出てくる教えが、「愛は忍耐強く」という言葉です。

さらに、見ていきますと、「(愛は)いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてに耐える」とあります。

愛という言葉は、忍耐という言葉に深く関わっているようです。言い換えれば、恨んだり、怒ったり、憎んだりするという、人間の心の状態から解放されていることではないだろうか、と思います。

自分のことを振り返ってみますと、いろいろなことで、苛々したり、不快に感じたり、場合によっては、人を攻撃する、ということになります。あるいはそこまでは行かないまでも、陰で人の悪口を言う。そのようなわたしたちではないだろうか。

生きるということは大変なことで、人生とは、困難なものであります。「ストレスが多い。」

仏教では「四苦八苦」と言います。4つの苦しみ、8つの苦しみ、非常に、生きるということは大変なことです。苦しみが伴う。現代の言葉で言えば、ストレスが多い。この「ストレス」に、どのように立ち向かうか、あるいは、どのように発散するか、が課題です。ストレスを発散するために、近くにいる人に矛先を向けて、自分の不満や怒りを向けてしまうということが、ありはしないだろうか。

みな、欠点のある人間です。こちらが望むように、相手がしてくれるわけではない。「こうして欲しい。こうであるはずだ」と思っても、ほとんどの場合、そうは行きません。

家族関係、あるいは、仕事関係、あるいは、われわれの教会の中でもそうです。お互いに、多少とも、傷つけてしまう。あるいは、相手のことがよく分からない。分からないから、その人を温かく、赦し、受け入れるということが、なかなかできない現実が、あるのではないでしょうか。

分からなくとも、自分が望むようなことをしてくれなくとも、その人を大切にするということが、聖書の教える「愛」、「アガペー」です。

「(愛は)すべてに耐える」。

 

隣人を愛するとは、社会的に弱い立場に置かれている人々、寡婦と孤児、寄留の外国人を大切にするということであり、年間第30主日の第一朗読、出エジプト記がそのことを明確に述べています。2220-26節です。(注3

 

ところでわたしたちは神の愛に応えるためには神の愛を経験しなければなりません。このことについて、非常に心に響いて、良い言葉だと思う聖書の言葉はたくさんありますが、その中のひとつが、旧約聖書の続編にある、「知恵の書」にあります。

 

「あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し

あなたが呼び出されないのに存在するものが

果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

あなたはすべてをいとおしまれる」。(知恵1124-26

 

「わたしがこの世に存在するのは、神様のお望みによるのである。自分が、人と比べて、どんなに劣っていても、どんなに問題があっても、神様は、このわたしという存在を、愛おしく思ってくださる」。この信仰が大切ではないでしょうか。

 

日本は、非常に自殺者の多い国です。カトリック教会では、最近、自死という言葉を使っておりますが、自死する人が多い。毎年、年間3万人を超える人が自殺していましたが、最近、3万人を下回った。政府も一生懸命対策を立てて、努力した結果、自殺者は減っている。

しかし、青年の自殺は、相変わらず多い。若い世代の人の死因の第1位は自殺です。

(注4

 

自分の存在の意味が見いだせない、あるいは、よく分からない。現実の困難の中で、生きていくための動機が、非常に弱くなってしまう。そのような現実があるのではないでしょうか。

 

神は、あなたを大切な存在として造り、そして、いまも恵みをくださっています。それは、人間関係の中で培われます。まずは、家庭で、そして、友達の中で、大切であるということを、お互いに教え合い、そして、そのように行動することによって、人は、自分が大切な存在であると実感することができる。

「愛する」ということは、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」、そして、「自分を大切にすること」と結びついていないといけない。世界中に独りしかいない、このわたしを、神様は造ってくださった。そして、わたしに使命を与えてくださっている。失敗したり、嫌なことがあったりしても、自分自身をもう一度見て、そして、自分は大切な存在なのだという信仰を、新たにしたいものです。

そのためにも「神の愛」の再解釈と文化の福音化が必須です。前回第10回の「イサクの犠牲」の再解釈はそのために非常に大切であります。

 

日本の社会の無言の圧力と通念があります。人はその基準に合わないと感じると生きづらいと感じるのではないでしょうか。圧力とは世間の目のようなものです。無言で人を追い詰める全体主義支配・管理の力です。人はその圧力の中で自分の場を見いだせないと感じるのではないかと思う。その思いが自殺に通じる。自分自身に自信を持つこと、自分の価値信じることです。

 

あなたの価値を保証するものはあなたをこの世に送った存在です。

 

 

(注1) 詩編51

51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。

51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。

51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。

51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。

51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。

51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。

51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。

51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。

51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。

51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。

51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。

51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

サムエル記下

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。

12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。

12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。

12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」

12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。

12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」

12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、

12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。

12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。

12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。

12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」

12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。

12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。

12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。

12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

12:18 七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」

12:19 ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」

12:20 ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。

12:21 家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」

12:22 彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。

12:23 だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

 

(注2) 『神はなぜ人間になられたか」で以下のように彼は説明している。

アンセルムスの前には次のように説明されていた。

人間は罪を犯した結果、魂を悪魔に売り渡したことになった。神は御子キリストの命を賠償として支払うことによって人間を神から買い戻した。これを悪魔の権利説という。

アンセルムスはこの説を否定した。この説によれば、神と悪魔との関係は対等になるので神の絶対性に反する。そこで以下のように説明する。罪は神に対する無限の侮辱、栄誉の侵害である。神は慈愛によって一方的に人間を赦すことはできない。なぜならそれでは正義が回復しない。他方人間には負債を神に返す義務があるが有限の人間には無限の負債を神に返済することができない。そこで無限の神が人となって有限な人間となり、人間として無限の侮辱の罪を償うことにしたのである。無限の負債は無限の神であり同時に人間であるイエス・キリストによってしか償うことができない。人類の罪を償いために神は人となったのである。

『新カトリック大事典、アンセルムスの項より。』

 

(注3

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

 

(注4)以下の記事等が参考になります。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66433

2020年10月25日 (日)

人は正しく神のみ心を知ることが出来るか

人は正しく神のみ心を知ることが出来るか。

 

10月25日 年間第30主日の福音は次の通りです。

福音朗読  マタイによる福音書 22:34-40
(そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

キリスト教をどのように宣べ伝えたらよいでしょうか。キリスト教の掟は何でしょうか。

旧約聖書は613の掟を伝えているそうです。その中でどの掟が重要であるか、律法の専門家はイエスに訊ねました。

 

   「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

隣人を自分のように愛する、とはどれにでも分かりやすい教えです。信者でない人の一応納得するでしょう。もっとも実行するのは難しいとは思うでしょうが。

問題は

   「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

「主を愛する」とはどうすることですか。どうしてはいけないのでしょうか。これは俄かには分かりません。神は人と同じように何かを必要としている、「欠乏を抱えている」ものではないでしょう。それとみ神は何を望んでいるのでしょうか。聖書によれば神は確かに人間に種々のことを望んでいます。それが掟であります。単純に言って神の命じることを行うことが神を愛することでしょう。(前回第10回、で述べたとおりです。)アブラハムの苦悩は如何ばかりだったでしょうか。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、やっとさずかったいとし子イサクを燔祭(焼き尽くすいけにえ)として献げる用に神から命じられたのです。彼は誰にも神の命令をあかさず黙々として実行しようとしました。そのアブラハムの心中を想像して記述した論文が有名なキエルケゴールの「おそれとおののき」であります。

さて、ここで問題です。神は本当にそのような非道な無慈悲で非常理で無体は命令をアブラハムにくださたのでしょうか。わたしには理解できません。しかし、信仰とは理解できないことを受け入れるという理解があります。キルケゴールは、神の絶対性を人間の思いに優先します。

これは創世記に出て来る物語ですが、福音書ルカでは、おとめマリアがやみくもに救い主の母になることを求められます。こちらはアブラハムとイサクの物語とかなり、あるいは全然違う物語でしょうが、天使は命令ではなくお告げを伝えるのです。マリアは承諾します。理解できないまま神の計らいを信じて従いました。

マリアのように信じて受諾できればいいのですがわたしたちの場合はどうでしょうか。

まず、本当に神からの命令あるいはお告げであるのかが、問題です。次にその言葉が何を意味しているのかが問題です。第10回で申し上げたように、寓意的意味に解釈することが出来ます。アブラハムが命じられたのは、文字通りイサクをいけにえにして殺すということではなかったのだと思います。わたしたちは「み心が行われますように」と「主の祈り」で嘆願しますが、神のみ心とは何であるのかが問題です。「隣人を自分自身のように愛する」とは具体的に何を意味するのかが問題です。

イエスの復活の後教会が設立されました。教会は地上のイエスに替わってイエスの事業を継続し発展させます。教会はイエスの心に替わって日々どこにおいてもイエスのみ心を実行すべく期待されています。とはいえ、神のみ心あるいは主イエスのみ心はそう容易にはわかりません。かつて教会は神の名によって決定し命令しました、いわゆる異端審問、十字軍結成はそのような事例ではないでしょうか。後の時代になると非常に不可解な行動でありました。聖ヨハネ・パウロ二世は『紀元二千年の到来』という文書でそのことを示唆しています。教皇フランシスコは神の名による戦争・暴力を断固否定していると思います。裁くということは非常に難しいことです。わたしたち罪人が罪人を裁くということは非常に困難です。しかし、見て見ぬふりをして悪をはびこらせて良いでしょうか。そうではない。謙虚と寛容、併せて賢慮と正義が求められます。

2020年10月22日 (木)

神はアブラハムに何を命じたか?

悪についての小考察その10

――神はアブラハムに何を命じたか。「イサクの犠牲」という躓きについて

 

キリスト教がなぜ日本の地でなかなか受け入れられないのは何故か?教会の宣教の仕方に問題があるからか?教会自体の在り方に問題があるからか?あるいはキリスト教の内容、教理、教えが、人々にとって理解を阻んでいるのか?

聖書の教えが難しいからか?

 

今回は「躓きの石」かもしれない創世記で述べられている「イサクの犠牲」の物語を取り上げます。この個所はカトリック教会で最も大切にしている典礼の復活徹夜祭の朗読の選択肢に挙がられています。まず以下に本文を引用します。

 

アブラハム、イサクをささげる

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(創世記221-18

 

アブラハムは多くの人々から信仰の模範とされています。ユダヤ教はもちろんですが、キリスト教、イスラム教でも信仰の父として尊敬されています。

アブラハムは生涯にわたり数々の試練を受けました。特に本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に深刻で辛い試練でありました。神はアブラハムに独り子イサクを与えたにもかかわらず、イサクを焼き尽くすいけにえ(かつては燔祭と訳されていた。)として神にささげるよう命じました。すでに神は、アブラハムの子孫が増えて、空の星のようになるだろうといわれたのです。イサクをささげるとは文字通り息子を殺す、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。でもアブラハムは黙々と神の命に従い、早速出発して、いけにえをささげるべき山へ向かいます。途中の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。13歳という説があります。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天の見使いのこえがしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」主はイサクの替わりにお羊を用意し、お羊をささげるように準備してくださったので、危うくイサクの命は助かったのでした。

それではわたしたちはこの話をどのように受け止めることができるでしょうか?
従順に父の従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験しタアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で惨殺されるに任せた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだに違いないのです。

父である神はご自分のもっとも大切な人イエスを犠牲にしました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、』(ヨハネ316)

復活徹夜祭で行われる洗礼は、人々をイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導くための恵みを与える秘跡であります。(ローマ63-11参照)

 

「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」の犠牲のことです。息子を燔祭の犠牲にするということは、はっきり言えば、焼き殺しなさい、という意味です。神は本当にそう命じたのでしょうか。

かつて聖書の分かち合いにこの個所を取り上げて、この神の命令をどう思うかと訊ねたところ、「とんでもない、正気の沙汰ではない」という感想が返ってきました。そうです、正に、父親が罪もない子供を焼き殺すとは、あってはならない以上な出来事なのです。この時イサク何歳だったのか、はっきりしませんが、唯々諾々と父親がなすがままに任せていたのでしょうか。それても暴れて抵抗したのでしょうか。100歳を超えた高齢者のアブラハムと少年あるいは青年だったかもしれないイサクが肉体で争えば、イサクの方が勝つでしょう。これは本当にあった出来事でしょうか。何等かに似たような出来事がこのように内用が変えられたのでしょうか。当時は確かに子どもを犠牲として神に献げて神の怒りを宥めるという悪しき習慣が行われていたとも考えられます。聖書自体はこの創世記の記述をどう解釈しているかといえば、ヘブライ書がこの出来事を取り上げています。

 

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

   (ヘブライ1117-19)

ヘブライ書によれば、アブラハムは自分の子を殺すことに疑念を抱いていないようです。たとえイエスを殺しても神はイサクを生き返らせてくださると信じていたからでした。

使徒ヤコブもイサクの犠牲に言及して言っています。

神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

(ヤコブ221-24)

ヤコブによれば、アブラハムがイサクを屠った行為は何ら非難すべきことではなく、むしろ称賛されるべきことである、と言っているように見えます。

人間社会の法律・道徳から言えば犯罪であり非道な残虐行為ですが、神の目から言えば、称賛に値する従順な信仰の行為である、ということになり、ここに、倫理と信仰の対立という現象が生じるのです。(この点については、キエルケゴールの『おそれとおののき』を取り上げて一緒に論じることにします。(注1)

 

一体、わたしたちはこの創世記の記述をどう解釈したらいいのでしょうか。旧約聖書は新約聖書の光ももとに解釈しなければなりません。イエス・キリストの復活の光のもとにイサクのいけにえを読み直す必要があります。今日訳聖書の解釈については第二バチカン公会議の啓示憲章を見なければなりません。(2)

 

ここで考えてみるに、神は本当にアブラハムにイサクを殺すように命じたのか、という疑問があります。「イサクを神に献げなさい」という命令ならわかります。「献げる」=「殺す」と解釈されるところが問題です。「殺してはならない」と命じられた神がアブラハムには息子を殺すようにと命じられたのでしょうか。人間は神の命令に服するが、神自身はその義務はないということだろうか。法の制定者自身が法を遵守しなければその方は向こうではないだろうか。

アブラハムは「神が息子を燔祭にするように命じた」と理解しました。それは間違いないと思われます。しかしその理解は間違っていたと考えるべきです。

人間の啓示の理解は徐々に発展してきました。神は六日間にわたって天地を創造したと創世記一章が伝えていますが、六日間という時間は、人間の考える時間ではない、ということは、今日、多くの人が諒解しています。

旧約聖書に出て来る記述で今日受け取りにくいことは他にも縷々あります。例えば「聖絶」(ヘレム)という問題です。

紀元前十三世紀、モーセに率いられたイスラエル群はエジプトからカナンの地に移住しましたがその際起こった理解しがたい現象が聖絶(ヘレム)と呼ばれる、カナン先住民殲滅事件でした。旧約聖書の専門家H・クルーゼ師によれば「神の裁きによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義されています。申命記によればこの死刑は神の意思に基づいて行われます。(4)

あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

   (申命記71-5)

この聖絶の思想は今に続くパレスチナ紛争の原因の一つになっています。この思想に「一神教」の危うさを指摘する者がいたとしたらそれは無理もないことだと思います。「聖絶」は形を変えて十字軍となり、さらにナチスの虐殺へとつながってきたと考えるのは行き過ぎでしょうか。

さて、神はアブラハムにイサクを殺すようにとへ命じなかったとして(仮説ですが)もう一つの問題があります。それは神がアブラハムを「試された」、ということです。

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

つまり、アグラハムが神に忠実であるか、神を真に信じているかを知るためにテストした、という意味です。この「試された」という動詞の名詞は、「試み」となりこれは「試練」とも訳されています。「試練」はヘブライ書が

 

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(1117)

 

でいうところに「試練」であります。そして「試練」のギリシャ語原文はペイラスモスpeirasumosρειρασμο(′)ςです。そしてpeirasumosは「主の祈り」出て来る「誘惑」なのです。おなじことばpeirasmosが「試練」となり「誘惑」となります。

日本語で試練と誘惑は明白に意味が違います。試練は人が人生で出会う、克服すべき困難。辞典によれば「心も強さや力の程度を試すために苦難」(新明解国語辞典)「信仰・決心など強さをきびしく試すこと。またその時に受ける苦難」(広辞林)となっています。どうも「試す」という要素が入っているようです。「誘惑」はどうかと言えば「相手を、その本来の意図に反する方向に(置かるべき状況とは異なった状況に)誘い込むこと。」

(新明解国語辞典)「人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと。相手の心をひきつけて、自分の思い通りにすること。」(広辞苑第七版)とあり、誘惑者が自分の求める方向に人の心を引き寄せることを言うようです。(注3

さて、「主の祈り」では、現在の口語訳では「わたしたちを誘惑におちいらせず悪からお救いください」となっていますが、かつての文語の文言では「われらを試みに引き給わざれ」となっていました。明らかに,peirasmosの解釈が「試み」から「誘惑」並行しています。

人は誘惑に遭います。誘惑に遭っても誘惑に負けて罪に陥らせないように助けてください、がこの祈りの意味であります。試みに遭わせないようにとは祈ってはいないのです。神は人を決して誘惑はしませんが試みには遭わせるわけです。「神は人を誘惑しない」ということは神の神性(神の本来の在り方)から行って必然であります。ヤコブは言います。

 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。(ヤコブ113

神が人を罪・悪に誘うなら、それは神ではないということになります。

それでは誘惑は何処から来るのか。ヤコブは、誘惑は人間の欲望から来ると言います。

  むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ114-15)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(一ペトロ5・7)

そして、誘惑は「悪いもの」つまり悪魔から来るのです。主の祈りの出典であるマタイによる福音で次のように祈っています。

わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。(マタイ6・13)

 

またペトロの手紙は言っています。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

(一ペトロ5・8-9)

(「悪魔」については稿をあらためて考察したい。)

そこで「ペイラスモス」である「誘惑」は、悪魔ないし人の欲望から来るということになります。それでは「ペイラスモス」である「試練」=「試み」は何処から来るのでしょうか。アブラハムの受けた試みは神からの直接のものでした。アブラハムは息子イサクを燔祭にすると解釈しましたが、果たしてそうなのか、という疑問を筆者は提出しています。使徒パウロの次の言葉は有名です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(一コリント1013)

人は試練に遭います。「試練に遭わせる」という言い方は何を意味しているのでしょうか。試練は神から来る、神の意向である、神が原因である、という意味でしょうか。

 使徒パウロの受けた試練は数えきれないものでした。その中に「とげ」があります。

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント127-10

「とげ」はパウロにとって非常に辛いものでした。それが何であったか明らかではありません。人間パウロの弱さ、疾病にかかわる重大な欠陥であったようです。

の弟子たちは必然的に「多くの苦しみを経なければならない」のです。師イエスが苦しみを受けたのなら、その弟子が同じく苦しみを受けるのは必然であります。弟子たちの受ける苦しみは、神から来るのではなく「世」から、神の支配を拒否するこの世の罪から来るのであります。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚なさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(ヨハネ1518-25)

「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネ1633)

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録1421-22

主イエスも人間として誘惑を受けられました。その誘惑はもちろん神から来たのではなく、またイエスご自身の欲望か来たのでもなく、それは、悪霊から来たのであり、イエスは人間の有限性をもって、悪霊の誘惑をその身に受け、そして退けたのでした。神がイエスを試みに遭わせたとは思えません。イエスは自ら苦しみを見に受け、父である神はイエスが試みと誘惑に遭うのを忍び、ゆるし、そして一緒に戦ったのだと考えます。

 

「試みる」というとき、主語が神である場合と主語が民である場合があります。

Theoligical Dictioanry of the New Testament,peiraoなどの項を参照してください。)

神は人を心に合わせます。アブラハムの受けた「試み」ですが、神がアブラハムにイサクをいけにえにするように命じた、とは考え難いです。聖書解釈について(2)で説明していますように、寓意的解釈という方法があります。神がアブラハムに命じたのでは、イサクを文字通り燔祭の生贄にするようにという意味でなく、愛する息子であった執着せずに、神の計らいにゆだねるように、老い意味であると思われます。神はアブラハムが自分に従うかどうか、忠実であるかどうか知るために、イサクの生贄を命じたとは考え難いのです。神は人に試験をして、合格するどうか探り、合格したたらその人を祝福する、というような神でしょうか。そのようには思えません。神が人に試練をゆるすのは、おのれを捨て己が十字架を担うという人の生き方を教え導き助ける為であります。人をイエスの十字架の神父に与らせ過ぎ越しの神秘の恵みに与らせるためであります。決して、人の品定めをするという意地悪い意図をもって人を苦しめるわけではありません。

イサクはイエスの前表と考えられます。あらかじめイエスを指し示すしるしとしての役割を担いました。イサクの信仰も多いに評価されるべきです。旧約の生贄、血を流す動物の生贄はイエスの十字架によって廃止され、今は、パントぶどう酒による献げものがミサで献げられているのです。

ところで神が人を試練に遭わせることがあるとして、その逆、つまり、人が神を試みることは信仰者としてあってはならないことです。『教会の祈り』で毎日次のように唱えています。

  今日、神の声を聞くなら、

   メリバのあの日のように、

  マッサの荒れ野の時のように、

   神に心を閉じてはならない。

  「あのとき、あなたがたの先祖たちは、

  わたしのわざを見ていながら、

   わたしをためし、試みた。」

主なる神を試し試みる、とは、不信仰の態度であり、神の愛と力を疑い、神の命令に不従順中であることを示しています。旧約聖書はイスラルの民が荒れ野で神に不平を言った神の愛を疑ったことを告げています。(出173、明20132024,2714、申3251,338、詩818,958,10632

 

―――

(注1) 『おそれとおののき』はデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールが1943年発表した作品で、婚約者レギーネ・オルセンとの婚約破棄という劇的事件を背景にして、キルケゴールがその苦悩を綴った論文であります。婚約破棄は一方的にキルケゴールの方から行われ、その理由は誰にも説明されませんでした。等の相手のレギーネにとっても全く意外な納得の行かない出来事であったと思われます。この事件がイサクの犠牲の物語とどのような関係あるのか、必ずしも、読者には明確ではないのです。イサクの犠牲の話はイサクの信仰を主題にしています。婚約破棄の原因はキルケゴールの信仰の問題にあるようであります。「信仰」ということが重要な主題であり、「神を信じるとはどういうことか」が論じられているのが『おそれとおののき』であります。

アブラハムは愛する息子、たった一人の息子を燔祭の生贄とするように神から求められました。アブラハムは即座に応諾し、朝早く発ってモリヤの山に向かいました。その際、彼は当のイサク、そしてその母であり自分の妻であるサラに、神のお告げの説明は一切しないのです。父子の間には何の会話もなかったようですが、ただ一回の会話、つまり次のような言葉が記録されています。

22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

真に涙なしには語れない物語です。アブラハムは息子をささげるようにと命令されたのですが、息子の方はそれを知りません。何か気付いていたかもしれませんが、あえて確かめる事態には至りませんでした。アブラハムの答えは、ヘブライ書にあるように、実際に息子を手にかけることは起こらないだろうという意味か、あるいは、たとえ燔祭にささげられても神はイサクを蘇らせてくれると信じていた、という意味か、判然とはしません。実際のところ、アブラハムは刃物を手にして息子を屠ろうとしたのです。ここで問題は、果たしてアブラハムの判断と行動は正しかったのかどうか、ということです。彼は神の命令にしたがったのですから、彼には何ら誤りはない、と言うべきでしょうか。神の命令は絶対です。地上のいかなる倫理・道徳も、法律も、神の命令の下に置かれているのですから、たとえ、道徳や法律に反しても、神の命令は絶対であり、神の命令で行ったことはすべて義とされるのです。「殺すなかれ」は神の十戒の一つですが、神が命令する場合はその限りではありません。実際、国家による死刑、あるいは戦争は「十戒の適用外」とされてきました。(やっと最近問題とされるに至ったのですが。) 愛するわが子、その子孫は空の星のように増えるという祝福を受けたイサクをわが手にかけなければならない父アブラハムの苦悩は如何ばかりであったでしょうか。問題は神の命令であれば神の掟に反する重罪を起こしてもよいのか、あるいは例外として、その責任は問われないのか、ということです。キルケゴールはその論点を詳細に論じています。信仰の世界、超自然の世界では、地上の論理、道徳は無効である、というのが彼の見解です。ここに信仰の逆説があります。「信仰の逆説は、(信仰者である)個別者が普遍的なものよりも高くあるということであり、いまではかなり稀になっている教義上の差別を思い起こしてもらえば、個別者が絶対的なもの()に対する彼の関係によって、普遍的なもの(例えば、殺す勿れという掟)に対する彼の関係を規定するということであって、普遍的なものに対する彼の関係によって、絶対的なものに対する彼の関係を規定するということではない。この逆接は、神に対する絶対的義務が存在する、というふうに言い表すことが出来る。なぜなら、この義務関係においては、個別者は個別者として、絶対者に対し絶対的に関係するからである。」(世界の大思想24、キエルケゴール、『おそれとおののき』、63㌻。カッコ内の説明は筆者の解釈による。)

アブラハムが神の命令を誰にも打ち明けなかったのも、アブラハムの沈黙は信仰者の行為として是認されるだけでなく、称賛に値します。誰かに話しての到底理解してもらえないだろう、いや説明すべき言葉を彼は持たなかったのだ、とキルケオールは言います。言葉にはならない信仰の世界の出来事なのです。またキルケゴールはイエスの言葉を引用してアブラハムを弁護し称賛します。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

貴方がたのうち、等を立てようとするとき、作り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

     (ルカ1425-33)

14章25節の「これを憎むmiseou」ですが、当時のデンマークではこの言葉を文字通りには受け取らないで、弱めて解釈し、「あまり愛さない」「ないがしろにする」「気にかけない」「無視する」などの意味にとっていたそうです。それは誤りだとキルケゴールは断言します。(しかし、アブラハムがイサクを憎むと言っても、燔祭にして殺すという意味だったかは、多いに問題です。)ともかく、イエスの従う者は一切を投げうって従わなければならない、同様に、主なる神の呼びかけには無条件に従わなければならないわけで、アブラハムはその模範であります。

 

 

(注2

啓示については第二バチカン公会議の『啓示憲章』に学ばなければなりません。(以下、『カトリック教会のカテキズム』34㌻―38㌻によって説明します。)

神は愛によってご自分を人類に掲示しました。啓示の源泉は聖伝と聖書です。聖書の作者は神です。何故なら聖書は神の霊感によって書かれたからです。神は人間である聖書記者に霊感を授けました。聖書記者は人間的な表現で神の言葉を伝えています。ですから聖書を正しく理解するためには、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時の人々のものの感じ方、話し方、物語の方法を考慮する必要があります。そして、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するために荷は次の三つの基準に従わなければなりません。

① 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと。受難の後の復活の光に照らして解釈すること。

② 教会全体の生きた伝承にしたがって聖書を読むこと。教父の教え方に従い、霊が教会に与えた霊的意味に従って聖書を霊的に解釈しなければなりません。

③ 信仰の類比に留意しなければなりません。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。

聖書の意味には文字通りの意味と霊的な意味との二つの意味があります。後者は寓意的な意味、道徳的な意味、天上的な意味とに分けられます。これらの四つの意味は根本的には一致し、聖書の解釈をより豊かにしてくれます。

霊的な意味。 

1)寓意的意味。寓意に託して表現される啓示の真理。例えば紅海を渡るのはキリストの勝利と洗礼を意味する。

 寓意とは、「他の物事に託して、それとなく真意をほのめかすこと。また、その裏に隠れた意味。(広辞林)。 「アレゴリー(英: Allegory)とは、抽象的なことがらを具体化する表現技法の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。」(ウイキペディア)

2) 道徳的意味。正しい行動に導くための表現

3) 天上的意味。永遠の意味を示す。例えば地上の境界は天上のエルサレムのしるしです。

 

(3) ちなみに英英辞典では次のように説明しています。

Temptation/tempting or being tempted tempt/(try to)persuade (sb)to do sth wrong or foolish/ Attract (sb) to have or do sth./(old use,biblical) test

Temptation とtestとの区別は必ずしも明確ではないような印象です。

 

(注4) 岡田武夫『現代の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、III-4、ねたむ神と聖絶、を参照。)ならびに『神言』H.クルーゼ、南窓社、16㌻、参照。

以下、「クリスチャントゥデイ」(2019214日付け)より引用。

羽生選手が引用した「試練は乗り越えられる者にしか与えられない」や、池江選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」は、新約聖書の言葉「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10章13節)に基づくものだとみられる。

(中略) 一方、ここで言われている「試練」という言葉は、日本語では「逆境」や「苦難」といったニュアンスで捉えられる場合が多いが、原語のギリシャ語「ペイラスモス」は「試み」や「誘惑」とも訳せる言葉だ。またこの箇所は、主に偶像礼拝に対する警告が書かれているところで、13節の後には「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」(14節)と続く。そのため、13節で触れられている「試練」は、一般的にイメージされる「逆境」や「苦難」よりも、偶像礼拝やみだらなこと、神を試みること、不平を言うこと(8〜10節)との戦いという、信仰上の「試練」と捉えた方がよいのかもしれない。ちなみに、イエス・キリストが荒野で40日間断食し、悪魔から誘惑を受けたとされる新約聖書の別の箇所(マタイ4章1〜11節)で、「誘惑」と訳されている言葉も、ペイラスモスの語源となる言葉だ。また「主の祈り」の「われらを試みに会わせず」の「試み」もペイラスモスが使われている。

 

2020年10月18日 (日)

年間第29主日A年、神のものは神に

年間第29主日A年説教「神のものは神に」

第一朗読  イザヤ書 45:1、4-6

主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。

わたしの僕ヤコブのためにわたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたがあなたは知らなかった。

わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。

 日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

 

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 1:1-5b

パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

 

福音朗読  マタイによる福音書 22:15-21

(そのとき、)ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」説教―殉教者に学びながら」

2020年10月18日、本郷教会司祭館にて

 

今日の第一朗読はイザヤ書45章です。ここで繰り返し述べられていることがあります。

「わたしが主、ほかにはいない。」という言葉です。

すなわち、

「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」

「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる

わたしのほかは、むなしいものだ、と。

わたしが主、ほかにはいない。」

と繰り返し主張されているのです。

イスラエルの歴史は、この信仰の歴史です。イスラエルは何度もほかの神を神とし、バールを礼拝したりして神を怒らせます。

主なる神だけを礼拝するということは、他のもの、他の価値、存在を神として礼拝しない、ということです。

信仰を捨てるよう、日本の殉教者たちは強要されたが、「ほかのことならともかく、それだけは捨てることはできない、いのちにかけても」といってそれを拒否し、信仰を守り宣言した人たちです。

今日のイザヤの預言で繰り替えし強調されている「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない」という、この信仰を守った人々が殉教者です。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」はよく引用されるイエスのことばです。政教分離をめぐる議論のときに使われ、政治と宗教は別な次元に属するから、政治問題を宗教に持ち込んではならない、という主張の根拠とされます。地上の権力者への服従の根拠とされるのです。

殉教者は信仰を捨てるようにとの時の権力の命令に従わなかったので処刑されました。信仰の自由は基本的人権であり、皇帝の任務の範囲の問題ではありません。信仰の問題はまさに神の問題、領域なのです。それなのに400年前の為政者は信仰を理由にキリシタンを処刑しました。信仰は皇帝の管轄でないのに皇帝のものとしたのです。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。ですから皇帝のものは皇帝に返しなさい、とイエスは言われました。

確かに神は地上に権威者を立て、人が権威者に従うよう定められました。権威者は神によって建てられるのですから、権威者は神の御心によって民を治めなければなりません。弱い人、貧しい人を守り保護しなければならないのです。正しく治める限る人は権威者に従わなければなりません。もし為政者がそうしないのなら人は服従する義務はないのです。

それでは人には何が刻まれているのでしょうか。人は神の似姿として創造されています。(創世記1・27参照) だれにでも神の像が刻まれているのです。ですから人は神のものであり、神のものは神へ返さなければなりません。殉教者は神のものを皇帝に返すことに反対して殉教者となりました。殉教とは神のものを神のものとすることだと思います。

いまわたしたちは、いのちにかえても守るべきものをもっているでしょうか。それを知っているでしょうか?

神の愛を知り信じた人はもはや神を否定することはできません。それは自分自身を否定することになるからです。

400年前、数々の困難のなかで不屈の勇気をもって司祭の職を全うし殉教したペトロ岐部神父、障害者となり病者と共に生きて、神の贖いの愛をより信じ、処刑に際して信仰を告白して神の愛の証人となったヨハネ原 主水。この二人の東京教区の殉教者に学びながら、「神のものは神に」とは、現代のこの状況において何を意味するのか、考えてみなければなりません。

現代はある意味で非人間化の時代ではないでしょうか。

わたしは、「神のものは神に」とは、現代において、神が一人ひとりを掛け替えのない存在としてくださるという神の愛への信仰を生きること、その信仰を強くしていただくことだと思います。

わたしたちがそのあかしをたてることができるように、殉教者の取次ぎによって祈りましょう。

 

2020年10月17日 (土)

悪についての小考察その9 「さびしさ」と「かなしさ」の中で

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2020年10月15日 (木)

「はかなさ」と「さびしさ」 悪についてその7

悪についての小考察その8

――「はかなさ」と「さびしさ」ついて

 

はかなさ

「悪」であるかどうかは別にして、人間がであう重要な問題の中に、人生の「はかなさと「さびしさ」という問題があります。仏教の深い洞察は「人生の諸行無常」という真理でした。キリスト教ではその点は何でしょうか。聖アウグスチヌスが言っています。

「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。(注1)

「はかない」とはどういうことでしょうか。キリスト教では、人は神の被造物です。神によって造られ神によって導かれ神のもとに招かれ神に向かって旅をしている「旅人」であります。「旅人である被造物性」。これは「はかなさ」に通うものがあるにせよ、同じではないでしょう。むしら「偶有性」のほうが人間存在を言い表すには適しているかもしれません、「偶有性」については小考察その6の注1で触れています。偶有性はラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じて来ないもの」と定義されています。なんともはかない感じの存在です。存在することは必然ではないがあってもよい、そういう存在なのでしょうか。いわば偶然の存在です。

キリスト者にとって「偶然」ということをどう考えたらよいのでしょうか。「偶然」は信仰と深くかかわります。この世界の存在、そして自分という者の存在。これらは偶然でしょうか。無ければならないものではないがあってもよい、というものでしょうか。

信仰者にとって自分の存在は神の意思によるのです。自分はあってもなくてもよいものではない。神の御心に従ってこの世に生まれてきたのです。たとえ悲惨な状況の中に生まれてきたとしても、それは神の御手の中にあるのです。しかし、極端な話、強姦によって身籠って生を受けて者があったとして、そのような生は神の祝福のうちに置かれているのでしょうか。あるいはいったん受胎しても堕胎によって抹殺された胎児も神の御心によって受胎されたのでしょうか。まさか、強姦、あるいは堕胎は神の御心にかなっているとは言わないでしょう。強姦、あるいは堕胎は「偶然」の出来事であり、神のあずかり知らないことなのか。

エレミヤ書で言われています。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」(15)

また詩編作者は言います。

わたしはあなたに感謝をささげる。

わたしは恐ろしい力によって

驚くべきものに造り上げられている。

御業がどんなに驚くべきものか

わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ

深い地の底で織りなされた。

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。(13914-16

聖書においては誰一人「あってもなくてもよいもの」ではありません。誰にも替わってもらえない唯一の存在、かけがえのない存在、ユニークな価値のある存在です。

但し、哲学の考察によってこの真理を論証できるでしょうか。いうまでもなく哲学は啓示を援用できない、啓示を論拠にはできないのです。あくまでも人間理性の考察により結論でなければならないのです。かけがえのない価値の根拠に神を持ち出すことは哲学者の禁じ手ではないでしょうか。

 

偶然性

さて、この偶然性ということを哲学の重要な課題として取り上げた人が『いきの構造』の作者である九鬼周造でした。(『偶然性の問題』(1935年、岩波書店)。彼は偶然とは何か、について非常に緻密な考察を展開しています。彼は「偶然性」に、ラテン語のcontingentiaを当てています。つまり「偶然性」は「偶有性」であります。

それでは、九鬼周造による「偶然性」とはいかなる意味かを、九鬼周造研究者の説明に従って学んで行きます。

九鬼周造は本書の序説で次のように述べています。

偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。即ち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然(し)か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を持っていないことである。即ち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根差している状態、無が有を侵している形象である。(同書、13㌻。)

 

冒頭のことことばは本書のまとめであり結論でもあります。九鬼周造の研究者、田中文久氏は次のように言っています。

「九鬼周造によれば、人間は本質的に「偶然性」というものに貫かれた存在であるという。」そして、九鬼は「偶然性」の本質は「無」であるとしています。九鬼にとって「無」とは「同一性」の裂け目としての「無」において成立する、という。「同一性」の裂け目とは、分裂や対立を意味しています。(同書119-120㌻。)

九鬼周三の著書『偶然性の問題』は、人生とは如何に偶然性に満ちたものであるかを説きます。人間は自ら選び取れない状況の中で生まれ日々その中で生きて行かなければならない。人生で遭遇する出来事は不条理で無意味なものに満ちている。偶然性が人生の営みを無化する。九鬼周造は『偶然性の問題』の中で言っています。

「偶然は無概念的である。無関連的である。無法的、無秩序、無頓着、無関心である。偶然には目的がない。意図が無い。ゆかりが無い。偶然はあてにならない。」

このように「無い、無い尽くし」を並べており、田中文久『日本の「哲学」を読み解く』によれば、九鬼周造の哲学はまさに「無」の哲学であります。

さて、さらに筆者は、〈「個物」の抱える「偶然性」〉という見出しのもとで論議を展開しています。(同書134㌻以下。)

ライプニッツが言っているそうですが、宇宙には完全に同じものは存在しない。同じ雨粒はない。すべての事物は何らかの意味で孤立性や例外性を持っている、と言います。そしてこの孤立性や例外性を最も切実に自覚するのが人間である、と言います。

 

しかしここで筆者(岡田)が理解しがたいと思うのは、どうして、人間の個物性(個人性)を自覚することがマイナスになるのか、ということです。これは、同じ人間でありながら、一人ひとりの人間が負わされている「偶然性」を否定的に解釈するが故の評価ではないでしょうか。人間には個人差があります。健康な人、病気の人、富んだ人、貧しい人、賢い人、愚かな人、頭のよい人、悪い人、美しい人、醜い人、明るい人、暗い人、敬虔な人、冒瀆的な人、親切な人、勝手な人…など(切りがありませんが)、この個人差は場合によっては個性と呼べるものであり、その人をその人たらしめている特徴であります。四葉のクローバーが例外であるように、人間にも例外がある、という論議でしょうか。障がい者の存在はこの例外に該当するのでしょうか。障がい者は人間の一般概念から漏れる「偶然性」をもった例外であるのでしょうか。第7章で紹介した「世界に一つだけの花」というSMAPのうたで言っている「ただ一つしかない存在」の価値を貶めることにはならないでしょうか。

「くせに」という言葉があります。「女のくせに」などという表現に使われ、差別を意味する言い方になっています。「くせ毛」などと言いますが、本来の有るべき毛があって、くせ毛はその基準に該当しなし毛であるという言い方ではないでしょうか。

「偶然性」という言葉の意味が「個別性」「例外性」と結びき、それが否定的差別的な意味に結び付くことに大きな懸念をおぼえます。

人間はそれぞれ個別な存在であり、これ以上分解できない個人であり、そこに不可譲かつ不代替の価値を認めるのです。

この問題を鋭く意識して論じている哲学者がいます。(注2) それは宮野真生子氏で、宮野氏は、「である」と「「がある」の違いと意味を通してこの問題を論じています。「である」は普遍性・一般概念を表わし、「がある」は「個別性・偶然性」を表していると宮野氏は分析します。人は誰でも「〇〇××さん」であり、「人」さんという人はいません。まず人間であって次に具体的に誰それという在り方を取るわけです。もし「わたしは教師である」として、教師である自分が、他の教師でもよい存在になってしまうということを感じることがあります。つまり「別にこれはわたしでなくともよいのではないか」という交換可能性の問題です。実際多くの職務は、たぶんすべて職務というべきでしょうか、交代が可能です。AさんのしていたことはAさんにしかできない、ということはありません。もしそうなら組織は継続しないし社会が成り立たなくなります。首相が辞任すれば後継者が任命されます。司教が辞めれば次の人が司教に任命されます。組織は何の支障なく存続します。大切なのは普遍性を維持しながら唯一性を尊重することです。これは個人の間でも団体の間でも国家の間でも適用される法則ではないでしょうか。

 

三つの偶然性

さて、九鬼周造は偶然の諸相として「定言的偶然」「仮説的偶然」「隣接的偶然」の三つの

様態に分けています。(以下、『偶然性の問題』の解説(小浜善信)によるところが多い。)

「定言的偶然」とは、定言的必然性の外に枠にある偶然の場合を言います。例えば「人間は理性的動物である」という命題のように、主語概念と述語概念との間に同一性の関係、必然的な関係があります。しかし、「人間は黄色である」という命題の場合、人間は必ずしも黄色であるわけではないので、黄色であるという属性は偶然であります。しかし皮膚の色の違いの場合、その違いを説明できる原因があって説明できる場合は皮膚の色の違いは偶然ではない、ということになります。

「仮現的偶然」とはどういう場合の偶然か。

「クローバーのなかには四葉がある。」「ある人々は黄色である。」と言った場合、クローバーにとって四葉であること、人類にとって黄色であることは、その概念から必然的ではありませんので、「四つ葉」「黄色」は偶然となります。しかし個物を、「この」という限定の言葉が着く「この四葉のクローバー」や「この黄色の人間」、つまり「具体的個物そのものとして見れば、個のクローバーにとって四葉であること、この人間にとって黄色であることは、無くても良いもの、切り離して考えられる属性ではなく、むしろそれらは不可分の関係を持って結びついています。論理的次元では偶然的な関係しか持たないと見做される属性も、具体的・経験的次元では不可分の関係を持って主体(個物)に属しているのです。これらの偶有が個物をその個物たらしめているのです。

それでは「隣接的偶然」とは何か。

隣接とは隣り合って存在すること。XYZ、・・・などが隣り合って存在している場合に,偶々Xとなっていて、Yでもなく、Zでもない場合に言われる偶然です。敷衍すれば、物事には原因と理由があると考えます。有限の存在である人間には分からないが、全能の存在が見れば、そのような結果が生じている原因あるいは理由が見通しであるとします。例えば、なぜこの「私」が地上に生を受けたか。それは父・母がいるからである。その父母はどのようにして知り合い結婚したのか。聞いてみればわかることでしょう。それではそれぞれの父母のそのまた父母はどうして結婚したのか。これもある程度わかるかもしれません。しかしそれ以前のそれぞれの両親のことになると事情を知ることは難しくなります。それはともかく、どんどん先祖に遡及していくとその最初はどうであったか、という問題に遭遇します。それは生命の始まりということになるのでしょうか。どのようにして生命が発生したのか。科学はその点を実証しようとしています。この議論は無限遡及に陥ります。九鬼周造はその、因果律の始まりを「原始偶然」となずけました。「はじめに原始遡及があった。」ということです。この原始遡及の主体は自らのうちにその存在の根拠を持つものでなければなりません。それは絶対者であり、自因性の存在であり不動の動者と言われる神であります。九鬼周造は「神」という言い方は避けています。原始偶然は因果律の届かない世界にいます。次のように言われています。

「原始偶然は絶対者の中にある他在である。絶対的形而上的必然を心的実在と考え、原始偶然を世界の端初または墜落(Zufall=abfall)と考えることの可能性もここに起因している。絶対的必然は絶対者の静的側面であり、原始偶然は動的側面であると考えて差し支えない。(本書261262㌻より。)

 

わたしという存在は結局原始偶然に遡り、原始偶然は絶対者の動的側面であり、それは絶対者の働きであります。九鬼周造は晩年次のように述懐したと伝えられています。

「…やがて私の父も死に、母も死んだ。(中略) 思い出のすべては美しい。明かりも美しい。陰も美しい。誰も悪いのではない。すべてが死のように美しい。」(『偶然性の問題』の解説(小浜善信)441㌻よりの引用。)

 

「九鬼が言いたいのは、偶然した実存としてのわれわれと他者・世界との出会いの中で、無意味に過ぎ去るものは何一つないのだということだろう。・・・すべてが意味あるものとして立ち現れるか、それとも無意味なものとして過ぎ去るか、それはひとえに偶然した実存としての主体の意志に懸かっているということであろう。」(小浜善信、同書440㌻。)

 

ここで再確認したいことは、本原稿執筆の動機と目的です。それは日本における福福音を宣べ伝え証し実践するか、ということです。

 

「いき」とは

『「いき」の構造』の「いき」とは何か。『広辞苑』第七版によると次のようになります。

いき【粋】(「意気」から転じた語)①気持ちや身なりがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること。②人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること。また、遊里・遊興のこと。

他の辞典も大同小異の説明です。『「いき」の構造』は、この辞典の説明とは矛盾しないが、日本民族としての「いき」の理解をさらに哲学的に深く分析し、さらに「いき」に周辺にある関係の深い概念である上品と下品、派手と地味、甘味と渋味、意気と野暮などの分析を行っています。さらに言葉遣い、姿勢、身振り、表情、着付け、髪形、着物の色彩や模様、建物の造作等、人々の生活と文化全般に及ぶ課題として詳しい言及をしており、その薀蓄の深さに驚かされます。

九鬼は「いき」の三つの徴表として、「媚態」「意気地」「諦め」を挙げ、「いき」」とは「垢ぬけして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義しています。(『いき』の構造)講談社学術文庫、51㌻) この定義は分かりやすい説明です。九鬼はこの内容をさらに深く説明します。

三つの徴表のなかで「媚態」が原本的な存在を形成しています。これは要するに異性との関係にかかわる特徴です。色っぽさとは「なまめかしさ」「つやぽっさ「「色気」などの言葉と重なる内容であり、九鬼はこのことを哲学的に次のように表現しています。

「一元的な自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」(同書、39㌻)

この場合、「上品」とは両立しない。上品には敢えて異性に働きかける態度が欠落しているはずです。また一元的な自己が実現した時、つまり相手へのアプローチが功を征してお身を遂げた時には、この「媚態」は消滅する運命にあります。故に「媚態」とは異性間の二元的動的可能性が可能性のまま絶対的に維持されていなければならないのです。

次いで第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」です。「意気地」には江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている、と言います。(同書、41-42㌻。)「いき」には「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品気格が無ければならないと言います。「意気」の対極にあるのが「野暮」であり、江戸っ子が軽蔑して生き方でした。(同書、41-41㌻参照。)

第三の徴表が「諦め」。執着を離脱した、垢抜けして、あっさち、すっきる、瀟洒たる心持ちをいう。「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻) この「諦め」はおそらく仏教の人生観、無常と解脱の教えを背景にしているだろうと思われます。

「媚態」と「意気地」と「諦め」の三者のバランスの上に「いき」が成立しています。これは非常に危ういバランスです。「媚態」は異性を求めるといういわば本能的な欲求に基づいています。人は特定の異性を自分の方へ向かわせるために秘術を尽くす。その際、自分の自主性と誇りを忘れてはならない。自分を失うほど夢中になってはならないのです。さらに相手の自由を尊重しなければならないのです。人は他者を自由にはできないものです。「媚態」と言わずとも、他者を自分の思い通りにしたいという思いの集合が仏教のいうとことの煩悩であります。「諦め」は煩悩にストップをかけるストッパーの機能を果たします。

人が異性を想うこと自体を否定しないどころかむしろ評価します。その際、「意気地」と「諦め」という付帯条件が付きます。

恋と媚態はその始まりにおいて異性を慕いもとめるという点において共通しています。ですから、「いき」はたやすく「恋」に転ぶことができます。「いき」の場所である吉原でさえ、遊女がひそかに恋人をつくり、心中に追いつめられるという事件が起きています。そのような危険をさけるための「意気地」と「諦め」でした。それは繰り返しになりますが、「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻)のであります。しかし、宮野真生子氏が指摘していることですが、問題は残ります。それは、なかなか人はいったん心に入れた異性の相手を諦めきれないものであり、またそれでもなお人を想い求める心はなくなるものではないだろう、それは何故だろうか、という問題です。

なお、「いき」は遊里を背景にして発達した人間関係の在り方です。遊離は「苦界」と呼ばれます。だましたりだまされたりする世界で在り「傾城に誠なし」と言います。「遊女が客に誠意をもって接するはずがない。遊女の言うことを信頼できない。」という意味ですが、それではあまりに寂しい。人間の真実の美しさへのあこがれが人にはいつも残っています。この問題に関して参考になるかもしれない例話、苦界である吉原を舞台にした落語の例が残っていますので参考までに紹介します。落語のなかには遊里を背景にしたものがいくつかあり、醜い欲望の世界が垣間見られますが、そのなかに、いわば泥沼の蓮の花のような清々しい落語が伝えられています。(注3)

 

「エロース」について

カトリック教会では求める愛「エロース」についてどう考えているのでしょうか。ここでは優れた神学者であった先の教皇ベネディクト十六世の考え方の一端を紹介します。(以下、教皇ベネディクト十六世、回勅『神は愛』、8-40㌻による。)

「愛」ということばは様々な意味を持っています。愛国心、友への愛、両親と子ども愛、隣人愛、神への愛などと言いますが、一つの意味が際立って使われます。それは男女の間の愛です。

これらの愛は基本的には一つであって、それぞれの場面で様々な現れ方をしているのであり、愛は究極的にはただ一つであると言えないでしょうか。あるいはそれぞれ質的に根本的な相違をもっているのでしょうか。神の愛アガペーと男女に愛エロースはどんな関係にあるのでしょうか。

確かに新約聖書ではアガペーという言葉が使われており、エロースという言葉の使用は皆無です。キリスト教は「エロース」に対して否定的であると思われていました。フリードリヒ・ニーチェは厳しくキリスト教を批判し、キリスト教は「エロース」に毒を飲ませ、教会は掟と禁令を通して、人生におけるもっとも貴重な事柄を台無しにした、と言って今師。しかしキリスト教は本当に「エロース」を破壊したのでしょうか。ベネディクト十六世はそうではない、と言っています。

キリスト教以前の世界のギリシャにおいては、「エロース」は人間を有限な人生の現実から引き離し、陶酔状態に引き上げ、エクスタシーの幸福を与えてくれる神的な力であると考えられました。旧約聖書では、神殿娼婦などに見られた歪んだ破壊的な形の「エロース」には反対していますが、「エロース。」そのものを拒絶することはありませんでした。

「エロース」という愛は人を永遠で無限の幸福へ、現実を超えた光と喜びの世界へと招いています。ただし、その目的地に到達するためには自己抑制、自己放棄、浄めと成熟が必要です。それは「エロース」自体を否定することではありません。それは人間が身体と精神からなる存在であることに基づいています。人間が真の意味で自分自身となることが出来るのは、自分の身体と精神が緊密に一致しているときです。人間は、精神だけを愛するのでもないし、身体だけをあいするのでもありません。身体と精神の結合した被造物である人間、人格を愛するのです。身体と精神が本当に意味で一致した時人は初めて完全に自分自身となり、その時「エロース」は成熟し、真の意味で偉大なものとなります。そうなるために、「エロース」は上昇と自己放棄、浄めと癒しの道を必要としています。

そのための示唆を旧約聖書に雅歌に見出します。雅歌は本来恋愛の歌だったと考えられます。なぜ聖書の正典として認められているのでしょうか。

雅歌では「愛」をあらわすために二つのヘブライ語がつかわれています。一つは「ドディム」です。これは、まだ不確かな、はっきりしない状態で求める愛を意味します。つで「アハバー」ということばが用いられています。「アハバー」がギリシャ語に訳される時に「アガペー」となりました。「アハバー」は他者への関心と配慮を意味しています。自分の幸福に酔いしれるのではなく、自分が愛する者の善を求めています。愛は自己放棄となり犠牲を厭いません。この愛は特定の人を排他的に愛するとともに、神へと向かう永遠の愛を目指すようになります。愛は自己を献げることを通して真の自己の発見へ、神との出会いへと導かれます。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。(ルカ1733)(マタイ10391625、マルコ835、ルカ924、ヨハネ1225参照。) ここに十字架を経て復活に至る過ぎ越しの神秘が示されています。

世俗的な愛である「エロース」と信仰による愛を表す「アガペー」はしばしば「求める愛」と「与える愛」というように対立的に考えられました。「エロース」を欲望の愛、非キリスト教的な愛であり、「アガペー」を与える愛、キリスト教的愛であるとして、この両者を極端に対立させると、キリスト教は人間の生活と現実に無縁なものに成りかねません。実際のところ、人はこの二つの愛を全く別な愛として分離することは出来ません。人は他者の幸福を求めるとき次第に自分自身を相手に与え、相手と共にいたいと望み、相手に自己のすべを献げたいと強く望みます。求める愛は与える愛に変えられます。しかし他方、相手に与えるためには、与えられなければ与える力が萎えてしまいます。求めることと与えることの間の境界は非常に流動的です。

人を愛する力は神から来ます。聖グレゴリオが言っているように、牧者たるものは人を愛するためには自分が愛されていることを知り確かめなければならないのです。それは観想の道であります。

イスラエルの民に自らをあらわした神は存在するもの全ても者の創造主であり唯一の神です。この神はイスラルに愛することを求める神です。この愛は「エロース」の愛でであります。しかし同時に「アガペー」の愛です。神はイスラエルの幸福を望み、真の意味で人として正しい道を歩むように導き、そのためにイスラエルに掟を与え、イスラエルと契約を結びます。この神とイスラエルとの関係は男女の愛の関係にたとえられます。しかしイスラエルはしばしば神との契約を破ります。それでも神はイスラエルを愛することをやめません。神は背信のイスラエルを愛し裏切りを赦します。神の愛「アガペ―」は赦す愛として示されます。預言者ホセアはこの神の愛をいわば絶叫のような表現で伝えているのです。

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

(ホセア118-9)

ここには激しく葛藤する神の心が如実に表現されています。神はギリシャ哲学では「不動の動者」と呼ばれており、神が人間の態度のゆえに心を動かし苦しみ葛藤することは、「絶対者」という概念の中には含まれてはいないのです。しかしここでは非常に人間的な神の姿が描かれています。神は悲しみ怒りますが赦します。神が人間の罪ゆえに心に痛みを抱くという啓示に基づいて日本人の神学者北森喜蔵は『神の痛みの神学』を創出したのでした。(注4)

 

神になかに「エロース」の愛と「アガペ―」の愛があり、両者は一つに融合しています。「エロース」と「アガペ―」は愛のそれぞれの面を示している、といえます。あるいは「アガペー」ということばのなかに「エロース」の面が含まれているといえないでしょうか。雅歌が聖書正典に加えられたのはこのような根拠があったからでした。愛は一致を目指します。神と人間は、それぞれ自分自身でありながら完全に一つとなる事ができると聖書は教えます。

神は人間を男と女に創造しました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記224) 男女が互いに惹かれ合い求めあうのは神の創造に結果であり、人間の本性に基づいています。そのような人間の本性は絶えずエゴイズムの危険に瀕しています。互いに求めあう愛は自らすすんで与える愛とならなければならないのです。本性上惹かれ合う相手にだけではなく、人間の偶有的属性を超え、自分を必要とするすべての人の隣人となるよう招かれています。その道は受肉した神の愛であるナザレのイエスが生涯をかけて自ら実行してその基準をしめしました。「アガペ―」の愛は、飢えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に拘束されている人に及びます。(マタイ福音2531-41参照) 飢え渇き裸であるなどの偶有的状態にある人々のなかにかけがえのなさという価値が隠されています。そのような人にしたのはイエス・キリストにしたのであり、しなかったのはイエス・キリストにしなかったことになるとイエスは言っているのです。一人ひとりの偶有性に絶対的な意味と価値を与えるのは、キリスト者にとって、受肉した愛であり神であるナザレのイエスにほかなりません。このに「エロース」と「アガペ―」の融合と一致をみることができるのではないでしょうか。

 

  1. 聖アウグスチヌスについては教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(三)が非常に有益ですので以下に長い引用をします。

親愛なる友人の皆様。

 キリスト教一致祈祷週間の後、今日わたしたちは偉大な人物である聖アウグスチヌスに戻ります。わたしの敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世は、アウグスチヌスの回心1600周年である1986年に、使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』という、アウグスチヌスに関する長く詳細な文書を発布しました。教皇自身、この文書が「神への感謝」だと述べます。この感謝は「神がアウグスチヌスのすばらしい回心をもって、教会に向けてまた教会を通して、全人類に与えられた恵み」(使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』序文)のゆえにささげられます。わたしは回心というテーマに別の謁見で戻ります。回心は、アウグスチヌス個人の生涯にとってだけでなく、わたしたちの生涯にとっても根本的なテーマです。先日の主日の福音の中で、主ご自身がご自分の宣教を「悔い改めよ」(マタイ417)ということばでまとめました。わたしたちは聖アウグスチヌスの歩みをたどることによって、回心とはいかなることであるかを考察することができます。回心ははっきりとした決定的なことがらです。しかし、わたしたちはこの根本的な決断を成長させなければなりません。すなわち、わたしたちの生涯全体を通してそれを実現しなければなりません。

 しかし、今日の講話は信仰と理性というテーマを扱います。これは聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマの一つです。さらにいえば、これこそが聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマだといえます。アウグスチヌスは幼いときから母モニカからカトリック信仰を学びました。しかし彼は青年時代になるとこの信仰から離れました。彼はこの信仰を理性にかなったものと認めることができなかったからです。また彼は、自分にとって理性すなわち真理を表現していないと思われる宗教を望まなかったからです。アウグスチヌスの真理への渇望は徹底的なものでした。それゆえ、この渇望がアウグスチヌスをカトリック信仰から遠ざけることになりました。けれどもアウグスチヌスはその徹底的な性格により、真理そのものに到達しておらず、したがって神に到達していないさまざまな哲学を受け入れることもできませんでした。神は、たんなる宇宙の究極的な理念ではなく、真の神でなければなりません。いのちを与え、わたしたちの人生の中に入ってくる神でなければなりません。それゆえ聖アウグスチヌスの知的・霊的な歩みの全体は、現代にも通用する、信仰と理性の関係における模範となります。このテーマは信仰者のものだけでなく、真理を求めるすべての人のテーマです。それはすべての人の判断と運命にとって中心的なテーマなのです。わたしたちはこの信仰と理性という2つの領域を、分離させても、対立させてもいけません。むしろ両者を常に同時に歩ませなければなりません。回心の後にアウグスチヌス自身が述べているように、信仰と理性は「わたしたちを認識へと導く二つの強い力」(『アカデミア派駁論』:Contra Academicos III, 20, 43)です。そのためアウグスチヌスの有名な二つの定式(『説教集』:Sermones 43, 9)はこの信仰と理性の不可分の統合を表現します。すなわち、「理解するために信じなさい(crede ut intelligas)」――信仰は真理への扉を通る道を開くからです――。しかし同時に、これと切り離すことができないのがこれです。「信じるために理解しなさい(intellige ut credas)」。すなわち、神を見いだし、信じることができるようになるために真理を究めなさい。

 アウグスチヌスの二つのことばは、2つの問題の統合をきわめて直接に、またこの上なく深いしかたで表現しています。カトリック教会はこの統合のうちに自らの道を見いだしてきました。歴史的にいえば、このような統合は、すでにキリストの到来以前から、ヘレニズム化したユダヤ教におけるユダヤ教信仰とギリシア思想の出会いによって行われました。その後、歴史の中で、この統合は多くのキリスト教思想家によって受け入れられ、発展させられました。信仰と理性の一致は、何よりも神が遠くにおられるかたではないことを意味します。神はわたしたちの理性、わたしたちの生活から離れたところにいるかたではありません。神は人間の近くにおられます。わたしたちの心の近くにおられます。わたしたちの理性の近くにおられます。しかしそのためにわたしたちは真実に道を歩まなければなりません。

 アウグスチヌスは、まさにこのように神が人間の近くにおられるということをきわめて強烈に体験しました。神は深く神秘的なしかたで人間のうちにおられます。しかしわたしたちはこのことを自らの内面においてあらためて認識し、見いださなければなりません。回心者アウグスチヌスはいいます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる。そして、あなたの本性が可変的であることを見いだすなら、あなた自身をも超えなさい。しかし、記憶しなさい、あなたが超えてゆくときには理性的魂をもあなたが超えてゆくことを。それゆえ、理性の光そのものが点火されるそのところへと、向かって行きなさい」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスチヌス著作集2』教文館、1979年、359360頁〕)。アウグスチヌス自身、このことを『告白』冒頭の有名なことばで強調しています。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの霊的自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。

 ですから、神から離れているとは、自分自身から離れていることにほかなりません。アウグスチヌスは直接神に向かっていいます(『告白』:Confessiones III, 6, 11)。「あなたは、わたしのもっとも内なるところよりももっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(前掲山田晶訳、116117頁)。別の箇所で、アウグスチヌスは回心前の時期を思い起こしながらさらにいいます。「たしかに御身はわたしの眼前にましました。しかるにわたしは、自分自身からはなれさり、自分を見いだしていなかった。まして御身を見いだすことなどは、思いもよらなかった・・・・」(『告白』:Confessiones V, 2, 2〔前掲山田晶訳、160頁〕)。アウグスチヌスは自らこの知的・霊的旅路を歩んだからこそ、自らの著作の中で、直接に、深く、知恵をもってそれを表現することができました。アウグスチヌスは『告白』の別の2つの有名な箇所で(『告白』:Confessiones IV, 4, 9; 14, 22)、人間が「大きな謎(magna quaestio)」(前掲山田晶訳、138頁)であり、「大きな深淵(grande profundum)」(同150頁)であることを認めます。すなわち人間は、キリストのみが照らし、救うことのできる謎であり、深淵です。このことは重要です。神から離れた人間は、自分自身からも離れ、自分自身から疎外されています。だから彼は、神と出会うことによって初めて自分を見いだすことができます。このようにして彼は自分自身に、すなわち真の自分、真の自分のあり方へと導かれます。

 アウグスチヌスが後に『神の国』(De civitate Dei XII, 28)の中で強調するように、人間は本性的に社会的な存在ですが、悪徳によって反社会的なものとなっています。人間を救うことができるのはキリストだけです。キリストは神と人類の間の唯一の仲介者であり、「自由と救いをもたらす普遍的な道」(『ヒッポのアウグスチヌス』21)です。わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が繰り返して述べたとおりです。同じ著作の中でアウグスチヌスはまたいいます。人類に与えられたこの普遍的な道を通ることなしに「誰も救われたことはなく、誰も救われることはなく、誰も救われるだろうこともないのである」(『神の国』:De civitate Dei X, 32, 2〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスチヌス著作集12』教文館、1982年、382頁〕)。救いのための唯一の仲介者であるキリストは、教会の頭(かしら)であり、教会と神秘的なしかたで結ばれています。だからアウグスチヌスはいいます。「わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは『全き一人の人』なのである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 21, 8〔泉治典・水落健治訳、『アウグスチヌス著作集23』教文館、1993年、381頁〕)。

 神の民は神の家です。それゆえ、アウグスチヌスの考えでは、教会は「キリストのからだ」という思想と密接に関連づけられます。この「キリストのからだ」という思想は、キリストの観点から見た旧約聖書の新たな読み方と、聖体を中心とした秘跡の生活に基づきます。主は聖体によってわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだへと造り変えてくださるからです。ですから根本的なことはこれです。社会的な意味ではなくキリスト的な意味で神の民である教会は、まことにキリストと一つに結ばれています。アウグスチヌスがきわめて美しいことばで述べるように、「キリストはわたしたちのために祈り、わたしたちの内で祈っておられるとともに、わたしたちもわたしたちの神であるキリストに祈っている。キリストはわたしたちの祭司としてわたしたちのために祈り、わたしたちの頭としてわたしたちの内で祈り、わたしたちはわたしたちの神であるこのかたに祈っている。それゆえわたしたちはキリストの内にわたしたちの声を認め、わたしたちの内にキリストの声を認めるのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 85, 1)。

 使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』の終わりに、ヨハネ・パウロ二世は聖アウグスチヌスに対して、現代の人々に何を語っているかを尋ねます。そしてヨハネ・パウロ二世は、何よりもアウグスチヌスが回心の直後に書いた手紙の中で述べたことばでこたえます。「人間は真理を見いだすことへの希望へと導かれなければならないと、わたしは思います」(『書簡集』:Epistulae 1, 1)。この真理とは、まことの神であるキリスト自身です。『告白』のもっとも美しく、またもっとも有名な祈りの一つは(『告白』:Confessiones X, 27, 38)、このキリストにささげられます。

 「古くして新しき美よ、おそかりしかな、

 御身を愛することのあまりにもおそかりし。

 御身は内にありしにわれ外にあり、

 むなしく御身を外に追いもとめいたり。

 御身に造られしみめよきものにいざなわれ、

 堕(お)ちゆきつつわが姿醜くなれり。

 御身はわれとともにいたまいし、

 されどわれ、御身とともにいず。 

 御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、

 わが心御身を遠くはなれたり。

 御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、

 わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり。

 ほのかに光りさらにまぶしく輝きて、

 わが盲目の闇をはらいたり。

 御身のよき香りをすいたれば、

 わが心は御身をもとめてあえぐ。

 御身のよき味を味わいたれば、

 わが心は御身をもとめて飢え渇く。

 御身はわれにふれたまいたれば、

 御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり」(前掲山田晶訳、365366頁)。

 ご覧のように、アウグスチヌスは神と出会い、その全生涯を通じてこの出会いを体験し続けました。こうしてこの現実――それは何よりもまずイエスという人格との出会いでした――はアウグスチヌスの人生を変えました。イエスと出会う恵みを与えられたあらゆる時代の人々の人生を変えたのと同じように。祈りたいと思います。主がこの恵みをわたしたちにも与え、そこから、わたしたちが主の平和を見いだすことができますように。

 

(注2) 宮野真生子氏は、『日常・間柄・偶然』(九鬼周造と和辻哲郎)、現代思想、『九鬼周造』(青土社)所載、でこの問題を詳細に論じており、非常に的確な分析を行っています。是非参照ください。以下にはこの論文からほんの一部を引用します。

九鬼によれば、「実存の意味を明確にするためには、一方に普遍的抽象を対し、他方に生命に対して、実存の限界を立てることが肝要」である。普遍的抽象とは、「人間とは理性的存在「である」というような一般化を指す。これにたいし、実存は、意志を持って「わたしは~である」と行為することで、「私がある」ことの意味を作り出したところに成立する。いわば九鬼の考える実存は、「がある」を起点として、その手前には人間を一般化する抽象的な「である」があり、その先には、人間の行為を規定する和辻的な間柄の「である」が控える所で可能となるものである。(宮野真生子『日常・間柄・偶然』、97㌻より引用。)

(注3)

「紺屋高尾」という落語があります。YouTubeで鑑賞可能です。あらすじは以下の通り。

神田にある紺屋に勤めている染物職人、久蔵の物語です。11歳の子どものときから奉公して、遊び一つ知らず、まじめ一途に働く。何時の元気なその久蔵が、なぜか患って寝込んでしまっている。心配になった親方が竹内蘭石という医師に診てもらったところ、「恋患い」であることが判明した。いやいやながら吉原に行った時高尾太夫の「花魁道中」を初めて目にして以来、高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、何も手が使い病人になり、高尾太夫の錦絵を布団の下に敷いて寝込んでいました。そこで親方は久蔵が何とかして高尾太夫に会えるようにしてあげようと考える。高尾を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金の三年分でも足りない。不足分は自分が足してやるから三年間しっかり働いていためるようにと励ます。三年たったところで九両がたまった。親方は自分が一両足してあげて、医師の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てる。いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれない。そこで、久蔵さんを流山のお大尽に仕立てて、医師はその取り巻きということで一芝居打ちましょうということになる。竹内医師は「下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『あいよ、あいよ』で通してください」と久蔵さんを指導。帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出るとなんと偶然その日に限って予約がキャンセル、高尾に空きができた。

やがて夢のようなご対面が実現した。高尾太夫が煙管で煙草を一服つけると「お大尽、一服のみなんし」と言ってくれる。花魁が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。

「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度といったらまた三年後。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。

大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。純真な久蔵に高尾は多いに感動して言った。

「源・平・藤・橘の四姓の人と、お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人だろう。自分は来年の二月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますか」言われ、久蔵、感激のあまり泣きだした。

金をそっくり返され、夢うつつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。

「花魁の言葉なんか信じるな」なんていう仲間の苦言も何のその、執念で働き通していよいよ二月十五日が到来。お籠に載った高尾がやってきたのでした。親方が仲人になって久蔵と高尾太夫は夫婦となったという物語です。

 

(注4) 北森喜蔵師は有名な著書『神の痛みの神学』を著しました。神が痛みを覚えたり、悲しんだりということはギリシャ人の考える神では考えられません。神にはありえないことです。神は完全な存在であり、悲しんだり、怒ったりするというのは、足りない点とか、満たされないことがあるからそうなるので、神はいつも満たされておりますので、怒ったり、悲しんだりするはずないと考えるわけですが、聖書の神はそうではない。わたしたちのために、怒ったり、悲しんだりする、心に強い、激しい痛みを覚える、そういう神様であるということをわたしたちに告げております。カトリックの聖心の信心は、そのような聖書の神理解を更に具体化したものであると言えましょう。一時、大変多くの人に受け入れられ、聖心という名前を付けた修道会や学校などが多数造られたのであります。

 

喜びなさい!

悪についての小考察その7

――「主において常に喜びなさい」と言われてもね・・・

 

カトリック教会の2020104日のミサの朗読は使徒パウロのフィリピへの手紙です。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主において常に喜びなさい」(フィリッピ44)と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

 

ヒンドゥー教の偉大な聖者シャンカラの教えを学んでいます。

人は本来の自己、真の自己であるアートマンに出会い知り、自分がアートマンであることを悟るならばそこに無明からの解脱があり、吉祥(喜び)がある、という教えだと思われます。たとえ身体に苦痛があっても真の自己であるアートマンは命と光の喜びに満たされているのです。何か上述の使徒パウロの述べている喜びの体験に似ているような気がします。

パウロは言っています。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテア220)

 

さて、悪についての考察を行ってきました。アートマンによれば、「私」という意識が悪の根源であるとされています。「私」という意識が無明の所産であるとシャンカラは述べています。「これがわたしである。」「これがわたしのものである。」という思い込みが無明であり、輪廻、迷いの原因です。(『シャンカラ』島岩著、清水書院、113㌻より。)

この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。ズバリ結論を言えば、

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

ということと思われます。(『真理のことば ブッダ』佐々木閑著、NHK出版、76㌻より引用。)

人間とは色々な要素の集合体に過ぎない。ブッダの『真理の言葉』(ダンマパダ)で次のように言われています。

見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろなものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住しない。(147、ブッダの真理の言葉 感興のことば 中村 元訳、岩波文庫、30㌻より引用。)

以下にこの結論へ至る説明を要約して敷衍します。

この状態は車輪にたとえられます。車輪は回転して物を運ぶという独自の働きをしているが、種々の部品、外枠、スポーク、軸受けなどから構成されており、仮の存在として「車輪」と呼ばれているに過ぎません。もし部品の結合が解けてバラバラになってしまえば、もはや「車輪」は存在せず、回転して物を運ぶという機能も消滅します。人間も車輪と同じで、肉体をつくる種々の物質的要素と精神を担当する種々の心的要素が集まって「私」という仮の存在を形成しています。これらの構成要素が分解されるならば、「私」という存在は消滅し、私の世界も消え失せてしまいます。これが「私」の正体です。自分とは種々の要素が組み合わさって出来た「自己認識機能」「意思機能」であります。しかし人には「意思機能」があるので、自分の意思で輪廻の世界から脱出して涅槃に入る可能性は残されています。ブッダは輪廻思想を信じていたが、ブッダにとって輪廻とは、何か「絶対的な自己」というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり、死に変わりを繰り返すというものではありません。ブッダにとって「不滅の霊魂」は存在しません。すべては要素の集合体です。

「あらゆる生き物は要素の集合体として存在している」のであり、わたしという存在も要素の集合体であり、自分にとって愛しい人々も要素の集合体であります。そして私という集合体と他の人々の集合体とは因果の法則によって相互に影響し合っています。お互いに影響し合っているのです。それは人間同士に限らずあらゆる生き物に間に成り立つ関係です。ですから、たとえ「霊魂不滅」を信じていなくとも、人が亡くなった場合でも、その人が生きていた時に周りの人々に与えた影響はそのまま人々の集合要素の中に残ります。子を亡くした親は悲しみに心が引き裂かれる思いをします。

親は子がどこかに生き続けているのではないかと考えるのは親の情として当然ですが、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。このように考えれば、死んだ子は今の生きている、といえるでしょう。このように考えれば、亡くなった人の残す遺物や遺骨はさほど重要ではない、ということになります。

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

究極の自己という存在はない、というのがブッダの考えです。「すべてのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。すべてのものはその関係性において存在している」と考えます。この考え方を「諸法無我」といいます。)

さらにブッダは、世界で最も古いと言われているスッタニバータというお教で《空》という教えを説いています。すなわち、「自分というものがある」という思いを取り除きなさい、と言っています。つまり自分というものが永遠に存在するのではない、ということです。「私」はいろいろな要素の集合体に過ぎない。そこにある「私」は《空》であり、形はあっても実体のない仮の姿にすぎない、というのです。そのことを悟ってそのような自分に執著しなければ苦しみから解放される、と教えます。実にすべては諸行無常であり、「私」はたえず移り変わっています。人は記憶によって同じ自分が存続していると錯覚しているが、不変の自分は存在しないのです。本当の自分あり方を心が誤って認識しているにすぎません。

「すべてのものごとに永遠の実体はない」ことを教える「諸行無常」が永遠の真理であり、この真理を自分について当てはめれば、それは「諸法無我」であり、「私」という認識も幻に過ぎないと教えています。

 

いまわたしは、シャンカラからブッダに遡るという逆のコースを辿っています。

ブッダは紀元前500年頃に人(生・没年は不詳)です。イエスより500年も前に人です。ヒマラヤ山脈の南麓にあってカピラヴァットゥ国の王子として生まれ29歳で出家し、苦行の修行を経て只管の瞑想に入り、菩提樹のもとで涅槃の悟りを開いたと伝えられています。

ブッダをして現世を捨てさせ、修行に道に入らせるよう駆り立てた者は人生の苦悩でした。ブッダは、人生とは「一切皆苦」であると悟ります。「一切皆苦」は輪廻と結びついています。当時の人々は、人は生まれ変わり死に変わり「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」「阿修羅」の六つの世界を経めぐりながら果てしなく苦しまなければならないと信じていました。(既述のように、シャンカラは、輪廻は無明の結果であり、無明からの解放されるためにはアートマンを知ることが必要であると説きました。)

ブッダは、輪廻の世界からの脱出は人の心の悪、つまり煩悩を完全に断ち切ることであると考えたのです。一切皆苦は自分自身の煩悩が作り出している。煩悩を断ち切ることが真の幸福への道であるとブッダは悟ったのでした。

ブッダが悟ったこの真理の道を「四諦」と言います。(以下に、佐々木閑『真理のことば』32㌻以下によって説明します。)

苦諦:この世はひたすら苦しみの世である。

集諦:この苦しみの原因は心の中の煩悩である。

減諦:煩悩を消滅させれば苦悩が消える。

道諦:煩悩を消滅させるためには具体的に八つの道がある。 

 これは八正道(はちしょうどうしょうどう)と言います。八は以下の通り。

一 正見(しょうけん)  正しいものの見方

二 正思惟(しょうしゆいい) 正見にもとづいた正しい考えを持つ。

三 正語(しょうご)  正見にもとづいた正しい言葉を語る。

四 正業(しょうごう)  正見にもとづいた正しい行いをする。

五 正命(しょうみょう)  正見にもとづいた正しい生活を送る。

六 正精進(しょうしょうじん) 正見にもとづいた正しい努力をする。

七 正念(しょうねん)  正見にもとづいた正しい自覚をする。

八 正定(しょうじょう)  正見にもとづいた正しい瞑想をする。

『ダンマパダ』では、四諦八正道について次のように言っています。

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、

正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(しゅうめつ)におもむく八つの尊い道(八正道)とを見る。(以上の訳文は,『ブッダの真理の言葉 感興のことば』 中村 元訳、岩波文庫、36㌻より引用。)

「仏と法と僧」は仏教の三つの重要な要素であわせて「仏法僧」と呼び、聖徳太子が「十七条憲法」で、「厚く三宝を敬え」といっている、あの三宝をさしています。

 

このように、ブッダは八正道という修行を通して、自分の努力により、悟りに達する生き方を貫きました。(構成の大乗仏教はこのブッダの生き方とはかなり離れてきたそうです。) 

キリスト教徒仏教の違いはどこにあるかと言えば、イエスとブッダの違い,それも、そもそもの両者の現れ方の違いにあると言います。(以下、佐々木閑『真理のことば』39-41㌻参照。)

イエスは神の国の福音を宣べ伝え人々を福音へ導くために登場しましたが、ブッダは自分の問題の解決のために修行したのであり、人を助けるためではありませんでした。ブッダは、よりどころはあくまでも自分であると遺言しています。

このブッダの生き方は従来のバラモンの教えに真っ向から背くことになったそうです。

シャンカラの教えでのべたように、ヒンドゥー教の教えでは、自己の本性はアートマンであり、そのアートマンはブラフマンに他ならないということを悟ることが幸福への道でありました。この梵我一如という伝統的なバラモン教の教えをブッダは取り上げなかったようです。

仏教はどのようにして成立したのか。ブッダはバラモン教とヒンドゥー教をどう考えていたのか。本当にアートマンの存在を否定したのか。

この難しい問題に正確に答えることは困難です。ここでは仏教学・インド学の日本での権威野中村 元博士の入門書「中村 元の仏教入門」(春秋社、2014年第一刷、2020年第7,59-70㌻より。)に基づいてささやかに考察をしてみたいと思います。(注1)をご覧ください。

 

さて、ここ、第8章でわたしたちは立ち止まり問題点の整理をする必要を感じます。

わたしたちは悪についての小考察を行ってきました。

善とは真の自己を知ること、から、ヒンドゥー教の有名な教師シャンカラの教え、――「私」という意識が悪の根源、「私」という意識が無明の所産であるので、本来の自己出るアートマン手の出会いにより無明を克服せよ――から原始仏教の教えに遡りました。この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。釈迦の教えでは、「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもない。この世界も自己という存在も実在ではない、見えるのは仮の姿に過ぎない。」だったと理解します。

しかし他方、「人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている。」とも言っています。(注1参照)

アートマン=ブラフマンについての複雑な議論はここで棚上げにします。両者とも「私」を否定することが真の自己との出会いないし解脱であると言っているように理解しました。

 

「自分探し」という課題の設定は、その課題の措定そのものが問題であるのかもしれません。間違った問題の立て方をすれば、いくら頑張ってもその問題の解決には至らないのです。例えばカントが挙げている例ですが、

世界は空間・時間的に有限であるのか、無限であるのか

という問題はアンチノミーと呼ばれる二律背反の問題です。時間・空間という次元が有効な世界で初めて意味のある問題ですが、時間・空間という次元が無い世界では無意味な質問になるというのです。(『カント入門』石川文康、ちくま新書参照)

そもそも自分とは存在しないという世界では自分探しは意味がありません。あるいは、わたしたちが「自分」と考える自分は本当の自分ではないというなら、本当の自分と偽物の自分がいることになります。

話は振り出しに戻ったような気がします。

 

他の誰でもない自分、世界中に一人しかいない人間、かつていなかったしこれからも現れない人間である自分(あるいは太郎さん、花子さん)を如何に認識するのか、という問題です。この世の中では種々の機会に「自己証明」を要求されます。例えば本人限定郵便を受け取る場合、運転免許証などの自己証明の書類の提示が求められます。日本ではマイナバーという制度が導入され、国民は誰でもその人だけの番号が付けられます。このような自己証明は、もっぱら事務的・機械的に、行政的・経済的・金融的…な必要から、つまり管理的な意図をもって実行されているわけです。交通違反をして拘束された者が免許証の提示を求められるのは、その人固有の人格的な価値に関係なく行われることです。

人がその人として尊重されるということは何を意味しているでしょうか。人はそれぞれ違いを持っています。違うからこそ個性があり、人格の価値があります。もし能力が数量化されて評価され数値によって個別化が行われるとしたらその個人のかけがえのなさは何処で、何によって評価されるのでしょうか。もし人の価値が、「どれだけ社会で役に立つかどうか」によって決められるとしたら、役に立たないどころか負担をかける人は、存在の価値がないものとして抹殺されるということになりかねません。ナチスの優性思想は実際、障害者を抹殺する挙に走らせたのでした。

この世でまことに不完全ながら、一時的にせよ、そのようなかけがえのなさという価値が実感されるのは、親子の間、そして異性間の恋愛であります。(まことに脆弱な関係ではありますが、それでも人はそこに自他のかけがえのなさを感じます。) 人は「自部はこの瞬間のために生まれ生きてきたのだ」という体験をすることがあります。もちろん宗教の世界でそれは起こっています。いわゆる神秘家と呼ばれる人々の体験はそうしたものでしょう。(後日取り上げたい。) ヒンドゥー教の聖者(例えばシャンカラ)、仏教の徹底した信奉者(例えば妙己人たち)の中にそのような体験があるのだろうと思います。とはいえ、それは特別な場合であり、一般的ではありません。

わたくしはこの「善と悪の問題」を取り上げているのは福音宣教の視点からなのです。誰でも経験しうる体験の中に、神の愛への接点がないだろうか、と考えます。実際あるのですが、それが神体験と結びついて受け取られることは少ないのではないでしょうか。

 

ところで「恋愛」と言いますが、「恋」と「愛」とは違います。関係はあり、それもかなり深いものですが、恋は愛ではない。もちろん「恋」とは何か、「愛」とは何か、を論じればきりのない議論になります。キリスト教でも、アガペーとエロースとの比較が行われてきました。最近では教皇ベネディクト十六世が回勅『神は愛』を著わしています。これは両者を厳格に峻別する手法を取っていない点、大いに裨益されます。

(注2)

西田幾多郎と同時代のカトリック信徒で九鬼周造という有名な哲学者がいて、『いきの構造』という有名な論文で、人間の異性への欲求とその自制、この求める愛,エロスと神の愛、アガペーの関係を論じているように見えます。

この九鬼周三の思想を取り上げて学問的かつ詳細に、そして興味深く論じたのは、夭折した若き哲学者、宮野真生子氏でした。そこで次回、第8回は宮野真生子『なぜ、わたしたちは恋をして生きるのか』を軸に、『神は愛』を参照しつつ、恋と愛、エロースとアガペーという課題を見ていきたいと思います。

 

 

(注1) インド哲学では自己をアートマンと言います。もとは呼吸を意味する言葉で、ドイツ語のアートメンにあたります。もとは呼吸を意味し、息をしている人間は生きており、生きている人間にはその基本にアートマンという自己がいる、という素朴な考えに基づいているように思われます。

ところで仏教では次のように考えます。

「およそ自分の所有とみなされているものは常に滅するから、永久に自己に属しているものではない。またわれわれは何ものかをわれわれと考えてはならない。」

「われわれ人間を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己であると解することはできない。」

ウパニシャッド哲学では認識主体としてのアートマンというものがあり、それを霊魂であり実態であると考えています。しかし仏教では実体としてのアートマンを否定しました。無我説とはこういう意味でした。

人間には霊魂が宿っており、霊魂は不死であるなら、人間が殺されても霊魂は死なないわけだから、人を殺しても問題ない、と考えることができる。(そうなるべきではない。)だから霊魂という実体があって不死であるという考えは倫理上不都合である、と仏教は考えました。霊魂が存在しなければ、人間の生命ははかなく消滅する、だからこそ生命を大事にしなければならない、と考えたのです。

但し後代になると無我説は、人間はいかなる実体も持っていない、という意味であると解せられるようになりました。「我という実体はない」だから我欲、我執を捨てなさい、という方便としての勧めのために無我説が説かれたのでした。当時のバラモン教やジャイナ教は何らかの意味での普遍で恒久的な自我、あるいは実態である霊魂の存在を想定していました。その霊魂が輪廻によって六つの世界を生まれ変わり死に変わって廻ると信じていました。ところが仏教は実体としてのアートマンを認めませんでした。その代わりに、人間を「五蘊」という五つの構成要素で成り立っている集合体と考えました。五つ(五蘊)とは、

(しき)・受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき) です。

「色」とは感覚的・物質的なもの一般を意味します。

「受」とは意識のうちほぼ感覚と感情とを含めた作用

「想」とはこころの内部を構成する知覚や表象を含めた作用

「行」とは能動性または潜在的形成力

「識」とは対象それぞれを区別して認識する作用

であり、個人はこのこれらの五蘊から構成されていると考えます。この五つはわれわれの存在の特殊な在り方を示しており、それをダンマと呼びます。あれわれの存在はこれらの五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され成立しています。このすべてものものの集まりを世俗的に仮に「われ」「自己」と呼んでいるが、われわれに中心主体はそのいずれの法の領域のうちにも認めることが出来ない、と教えています。

例えば、物質的な構成要素は色である。色は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我、われならざるものである。非我はわがものではない。これはわがアートマンではない。このように説明します。色色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき)のうちのどれ一つもアートマン、本当に自己であるとは言えない、となります。

さらに、六根、六境という説明もあります。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、と思考器官のために六つの器官があります。すなわち

(げん)・耳(じ)鼻(び)・(・)舌(ぜつ)・(・)身(しん)・(・)意(い)

の六つの場があります。この六つに対応している領域が六境で、次のようになります。

(しき)・声(しょう)香(こう)味(み)・(・)触(そく)法(ほう)

触は身体で触れられるもののこと、法は考えられるもの、思考器官で考えられるもの、思考器官の相手となるものです。

仏教はこれらの六根、六境のうちのどこにも真の自己は認められないとし、形而上学的原理としてのアートマンを否定しました。そのためこの思想的立場は無我説と呼ばれていますが、アートマンそのものを否定したわけではありません。もし自己を否定しただけなら「我がない」「自己がない」とそれだけを言えばよかったわけです。ところが説いていることは、客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない、自己ではない、と言っている。一方で「アートマンが実在するかどうか」という問いについては、仏教は沈黙しています。「むしろ仏教は人間の行為のよりどころとしてのアートマンである自己を承認していました。」ブッダの臨終の説法は「自己(アートマン)に頼れ、法に頼れ、自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」という者でした。「自己の頼るということがどういうことかというと、人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている、自己の頼るということは法に頼ることとおなじであるということです。」(同書、中村、66㌻からの引用。)

中村 元師のこのような説明を聞くと混乱します。仏教はアートマンを否定したのか、しなかったのか。形而上学の実在としてのアートマンは認めなかったが、法としてのアートンを認めていた、という意味になります。では実在としてのアートマンと法としてのアートマンはどう違うのでしょうか。

「仏教では実体的な我、アートマンを想定することはありませんでしたが、ダンマというものは認めています。これは、法と訳されますが、われわれを現にかくのごとくあらしめている、現実に成り立たせて決まりとか規範のことです。」(同書、69㌻)

 

(注2) 回勅『神は愛』は「エロース」と「アガペー」の関係に言及しています。(特に9㌻以降。次回にとりあげたい。

個々の人間の唯一性という価値を述べている福音は数々あるが特にルカによる福音書が重要です。読者の労を省くためにも、煩を厭わず以下に本文を引用します。

◆「見失った羊」のたとえ

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

◆「無くした銀貨」のたとえ

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

◆「放蕩息子」のたとえ

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

三つのたとえ話のなかで、見失った羊のたとえ、と無くした銀貨のたとえは、なくてはならない固有の価値、代替の利かない価値ある存在について語ります。有名な「放蕩息子のたとえ」は、

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。…』

とあり、「我に返った」とあります。「本来の自分に帰った」という意味でしょうか。普通は「回心」という意味に解釈されています。本来いるべきところへ向かって生きる方向を転換する、という意味です。

「世界に一つだけの花」というSMAPのうたあります。その歌詞はいくらか、個の唯一性の価値を述べていると思います。

歌詞

No.1にならなくてもいい
もともと特別な only one

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

困ったように笑いながら
ずっと迷っている人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
そうさ 僕らも

世界に一つだけの花
一人一人違う種をもつ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1
にならなくてもいい
もともと特別な only one

ラララララ

提供元LyricFind

ソングライター: 敬之 槇原

世界に一つだけの花 歌詞 © O/B/O Jasrac

 

 

2020年10月11日 (日)

年間第28主日A年聖書朗読

20201011日、年間第28主日A年の説教

 

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。

最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。

『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。

わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。

今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。

『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。

今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き

すべての民に良い肉と古い酒を供される。

それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

主はこの山で・・・(省略)・・・

死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい

御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ256-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。

「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示199)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。

礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。

王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。

そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは知ることはできない。たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。

ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。

ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。

それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

今日の主日の朗読を聞かれた皆さん、みなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」

そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

 

 

 

 

2020年10月 4日 (日)

喜んでいなさい、と言われてもね---

年間第27主日A年の説教

第一朗読 イザヤ5・1-7

第二朗読 フィリピ4・6-9

福音朗読 マタイ21・33-43

本日の第二朗読で使徒パウロはやむにやまれない思いを抱いて次のように述べています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主にあって喜びなさい」と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

先週、先々週の主日の福音に引き続き、今日、年間第27主日の福音も、ぶどう園のたとえ話です。

ぶどう園の主人は農夫たちにぶどう園を貸し与え、収穫を受け取るために農夫たちのところに僕たちを遣わしました。しかし農夫たちは僕たちを拒否します。そこで主人は最後に跡取り息子を派遣しますが、農夫たちは息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。その結果、主人はぶどう園をほかの農夫たちに貸すことになります。

主人は、主なる神、農夫たちはイスラエルの指導者たち、僕たちは 預言者たち、息子はイエス・キリストを指しています。

主なる神はイスラエルの民をエジプトにおける隷属から解放し、カナンの地に導きそこに定住させました。本日の答唱詩篇はそのことを次のように言っています。

   あなたはぶどうの木をエジプトから移し、

    ほかの民を退けてそこに飢えられた。

   まわりが耕され、その木は根を張り、おい茂った。

しかし、第一朗読イザヤ書ではまた次のように言っています。

   わたしがぶどう畑のためになすべきことで

   何か、しなかったことがまだあるというのか。

   わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

   なぜ、酸いぶどうが実ったのか。(イザヤ54)

 

ユダヤ人はイエスの招きを拒みイエスを十字架につけて殺させてしまいました。その結果、神の国の福音は異邦人にのべ伝えられました。使徒パウロは異邦人の使徒でした。パウロはローマ書において、異邦人がイスラエル人より先に救いにあずかる次第を語ります。そのパウロがフィリピの教会宛に手紙を出しています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ46)

人生は心配の連続です。思い煩わないように、といわれても実行は難しいと感じます。しかし、思い煩いではなく、冷静、賢明、勇気、そして神への信頼が何より大切なのだと思います。パウロはいかなる場合であっても神への信頼を説いています。しかも、この手紙を出したときパウロ自身は牢獄につながれていました。そのような状況でフィリピの教会の人々へこのような勧めを与えることができたとは実にすばらしいことです。

パウロはまた次のようにも言っています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ44-5

毎年、待降節第3主日の入祭唱で唱えられるパウロのことばです。パウロは牢獄でこの言葉を述べたと言われています。

牢獄の中でパウロがこのような勧めを送ったとは実に驚くべきことではないでしょうか。

ところでこのようにパウロが書き送ったフィリピの教会に実は問題があったようです。信徒の間に深刻な抗争があったという考えがあるのです。

パウロはフィリピの教会を特に愛していました。フィリピの教会はパウロが創設した教会でした。(創設の次第は、使徒言行録16章に記されています。)

****

第一朗読  イザヤ書 5:1-7

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。

よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よわたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのになぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに見よ、叫喚(ツェアカ)。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

福音朗読  マタイによる福音書 21:33-43

(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

2020年10月 1日 (木)

悪についての小考察、その6、(アートマン)

悪についての小考察、その6

――「如何にして真の自己を知るか」の続き

 

人は如何にして真の自己と出会うことが出来るでしょうか。真の自己とは何でしょうか。難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。それは『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。(1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行)。

著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、あまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

 

「自己を知る」というときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamcha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 

さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るかー認識できるか、という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームという哲学者が居ました。(1711-1776)

(以下、『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトという哲学者(1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない」という命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と考結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」という存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がエマヌエル・カント(1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合した哲学者であると言われています。カントは合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きる人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。ここが分かりにくいところです。人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。)

難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」という目的にどのように貢献しているのか、正直に言って理解できていないのです。「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか」という問題にどのようにカントの思想が関わっているのでしょうか。

人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実をどう受け止めるか。ヒュームのいう経験論の中に、このわたしたち人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がしますが、しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りを思い起こす。)

カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を持つでしょうか。

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

(しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。稿をあらためて、ヒンドゥー教と仏教の考え方を学んでみたいと思います。

 

インド最大の哲学者と呼ばれるシャンカラ(700-750)の教えは次のように要約されます。

「人が輪廻から解脱する道は、本来の自己であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるという真理(梵我一如)を悟ることである。悟りを妨げているのは「無明」であるので無明を克服する修行がしなければならない。」(『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求),前田専学訳、岩波文庫、の訳者前書き、による。)

何となく西田幾多郎の『善の研究』に似通った内容ですが、ここに四つの理解困難な概念があります。

輪廻

アートマン

ブラフマン

無明

 

そこでできうる限りにおいてこの四つの考え方を追求してみたいと思います。

 

アートマンとブラフマンは宇宙の根本原理であるといわれています。宇宙の根本原理とは何でしょうか。

宇宙には秩序があることを認めるには吝かではありません。宇宙は規則正しく運行しています。その規則は基本的な原理で統括されている。それをヒンドゥー教ではブラフマンと言います。

このように理解すればいいのでしょうか。

しかし、あまりにも抽象的で内容が判然とはしません。宇宙の根本原理と言えば、天体の運行、時間の推移、生物の消滅,気候の変動などを指しているのでしょうか。アートマンとブラフマンとは同一であると言いますが、本来の自己というなら、本来でない自己があるのでしょうか。本来でない自己と本来の自己とはどう違うのでしょうか。

「本来」と「本来でない」という概念の分け方はスコラ哲学の本質essentiaと偶有accidentiaという区別distinctioを想起させます。スコラでは、本質と偶有とを分けて考え、物には、そのモノをそのモノたらしめている、本質、あるいは本性があると考え、それ以外の属性はたまたまそのモノに付属してものにすぎないと考えます。例えば、ここにパソコンがあるとして、そのパソコンがどこの会社の製品であるのかは偶有にすぎないと考えます。同じように、人間にも本来の要素と偶有的な要素があるのでしょうか。

 

ちなみに「偶有性」と「偶有」について、以下のような説明があります。一方は偶有性のラテン語がcontingens である場合、他方がaccidensである場合です。参考までに注として要旨を引用しておきます。(注1)

 

何が人を人としているのでしょうか。その本来の自己と宇宙の原理とは同じものであると言われてもにわかには納得できません。人間を人間としている原理は宇宙の原理である、という意味でしょうか。それならある程度は理解可能です。人間には尊厳があります。人間の尊厳は神に由来します。創世記にあるように、人間は神の似姿であり神に似たもの,写しです。その点において、人間は、人間の起源であり創造主である神と共通の特色を持ち、その限りにおいて人間は尊厳を持ち、かけがえのない存在であると言えましょう。

宇宙の根本原理であるブラフマンがアートマンと同一であると言っても、いかにして、個々の人間の本質であるアートマンを認識できるでしょうか。人間の肉体は時間と空間の中に置かれ、食べ、排泄し、疲れ病み、身体は朽ちてしまいます。アートマンと身体の関係はどんなものでしょうか。

以下、シャンカラの教説集『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求)により理解できた、あるいは関心を引いた内容をメモとして(注2)で紹介しますので確かめてください。ここでは、複雑で難解なシャンカラの見解をまとめてみたいとおもいます。

(以下に、島岩師の『シャンカラ』で述べられている同師による結論を、多少言い換えながら、引用してみます。)

シャンカラが一貫して目指したものは、自己の本質であるアートマンと絶対者ブラフマンのとの同一を知るということだった。自己という小宇宙の本質と大宇宙の本質であるブラフマンとの同一性の認識である。それは異なる二つのものの合一という形の合一性でなかった。自己の本質と宇宙の本質は本来的に同一だと考えられるということである。つまり、自己の本質に目覚めた時がすなわち、宇宙の本質に目覚めた時なのである。そして、両者の同一性は、我々が気付いていないだけで、本当はすでに実現されているのである。それにもかかわらず我々はなぜそれに気づかないのかといえば、無明がその妨げの原因となっているからである。

無明とは、主客の対立に基づいた言語や概念によって世界を分節化して捉えてしまうという、我々の生得的な認識の在り方のことを指している。したがって無明を滅することが必要である。しかし人間にとって先天的といえるこの人間の傾向を滅することは非常に困難である。

シャンカラの提示する方法は瞑想である。瞑想によって、意識を内なる自己の本質に向け、身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させることによってそれは可能となる。すなわち、身体的・言語的・心的行為をすべて消滅させるのである。すると世界は消滅し、身体は消滅し、最後に「私」という意識も消滅する。そして、そのときの輝きであるものこそ自己の本質であるアートマンであり、すなわちブラフマンである。これが悟りであり解脱である。そのとき我々は存在そのものであり、精神その者であって、至福に包まれるのである。

とはいえ、この状態は人間にとっての「死」である。それは生存活動そのものの停止に他ならないからである。(『シャンカラ』、島岩著、清水書院、206-207㌻)

 

このまとめに対して、自分としていかなる意見を持つことが出来るでしょうか。以下に自分としては十分には受容しがたい留意点、あるいは疑問点を列挙します・

1、自己の本質と自己の本性とは同じ意味でしょうか。自己の本質を意義が強調されていますが、自己に固有の部分の認識・評価はどうなるのでしょうか。いわば偶有的な自己の特色を評価しないのでしょうか。真の自己とはアートマンであり、アートマンは宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると気づくことがどんな意味があるのでしょうか。そうなると、自分というものがブラフマンの中に吸収されて消滅されてしまいます。そのことが無明を克服ことになる、と言っているようですが。そうなると各自の固有の存在の意味、価値はどうなるのでしょうか。各自の自己同一性identityはどうなるのでしょうか。そもそもそのような考え方が無明であると言っているようです。そうだとすればとてもついてはいけないという気がします。

2.シャンカラによれば、「私」という意識や存在は、無明すなわち誤った認識が生み出したものです。そればかりでなく、この世界は実は実在しないと言います。アートマン=ブラフマン以外のものは虚無にすぎない、見えるのは仮象、仮の姿、幻に過ぎないと言っているようです。シャンカラによれば、無明こそ人間にとって根源的・先天的な悪のであります。(島岩『シャンカラ』161-162㌻参照。)

3.無明の目に映る世界は仮象であり、真の実在ではない、というのでしょうか。これはこの世界に対して著しく否定的な態度です。我々は幻の世界に置かれているのであり、すべては仮の姿であるというのでしょうか。「行為」ということに対する否定的な態度は、この世で生きることに対する否定、あるいは無意味さに通じます。現代人が求めているのは、自己の存在の意味、価値ではないでしょうか。しかし他方、すべての存在にアートマンが充満しているというような言い方を散見します。無明の世界とアートマンの世界との対比がわれわれを混乱させます。

4.身体に対する否定的な見方に当惑します。島氏がいうように、「身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させる」ということは、人間にとっての「死」の状態であると言えないこともありません。このような考え方はキリスト教の十字架の教えにかようものがあると感じます。キリスト教は過ぎ越しの神秘の宗教です。死を過ぎ越して復活へ至る道を教えています。アートマンの悟り、自分の本性がアートマンであるという悟りは、自分は復活のキリストの兄弟・姉妹であるという神学と同じ底辺を持つ思想でしょうか。この辺をもっと深く追求してみたいと思います。しかし、アートマンという「共通項」の発見は真の自己、他の誰でもない自分の発見とはどうしても思えないのです。この辺が東洋と西洋の思想の対立点でしょうか。あるは実は底辺は同じ考え方であると言えるのでしょうか。

 

5.シャンカラの思想を理解するカギは「無明」です。無明とは「付託」であります。付託とは次のように説明されます。

例えば真珠貝を見て、依然見た銀を想起し、真珠貝を銀であると誤認することです。アートンと非アートマンの間にも相互に付託が起こる、と言います。アートマンに人間の経験を付託してそれをアートマンの見做す、あるいはその逆に、人間の身体にアートマンを付託して、身体をもってアートマンとみなすことが起こります。アートマンを人間の肉体で表現し、それをアートマンとして礼拝する、あるいは特定の人間を生き仏にように考えて神格化することなどがそれにあたると思われます。

6.仏教では三毒という思想があり、その中に、無知すなわち無明が入っています。無明とは真理を知らない、知ろうとしない人間の愚かさを指しています。杉谷義純師によれば、無明とは人間の心を犯している三毒の一つです。三毒とは、貪・瞋/・癡(とんじんち)の三つで、癡が無明にあたります。「無知であること、相手や相手に関することに対して知識を持とうとしない、目を開こうとしない、相手の立場に立てものを考えようとしない、自分がよければそれですんでしまう」ということです。(『平和のための宗教者の使命』-2015年シンポジューム記録、日本カトリック司教協議会 諸宗教部門 編集、カトリック中央協議会発行、35㌻より。)

7.なお「付託」については以下のように説明されています。

 「付託とは以前に知覚されたXが、想起の姿で別の場所Yに顕現することである。」(島岩著『シャンカラ』127㌻)

人間とは思いこみの動物です。わたしたちの認識は、既に獲得している経験と知識、認識の枠組みによって成立します。スコラ哲学がいうように「認識されるものはすべて認識する側の認識の様式によって認識されるのです。」(注3)

「付託」もこの格言の解釈に含めることが出来るかもしれません。人間には「思い込み」があります。縄をみて蛇と思い込むのが「付託」の例ですが、人は先入観をもっているので、その判断に惑わされてしまいます。「人を見たら泥棒と思え」ということわざがありますが。人間とは信用できない存在だという思い込みがある。他方、「渡る世間に鬼はない」とみい、人間とは親切で正直だ、という人間観があります。経験則の上で、どちらのも真実が含まれており、どちらだけに断定出来ないように思います。人は純粋に、間違いのない認識と判断をすることが出来るでしょうか。人の心は欲と歪みで汚されているので、それを拭い去らなければ正しく公正な判断はできないでしょう。それは地上の人間にはほとんど不可能なことです。

8.真の自己との出会いはアートマンとの出会い、あるイアートマンの発見であるとして、あるいは、自分がアートマンであることを悟ることだとして、それではすべての人間が同じアートマンであるのでしょうか。無数のアートマンが存在するのでしょうか。いやアートマン=ブラフマンで、唯一であると言われる。そうなると、人間の唯一性の存在価値はどうなるのでしょうか。そのような概念自体が無明の結果であり、幻に過ぎないのでしょうか。アートマンと個人の唯一性の価値。このパラドックスをどう解けばいいのでしょうか。

9.「輪廻」についてですが、「輪廻」とは無明のことです。すなわち、無明から解脱できない状態のことだと思われます。なぜなら以下のように言われているからです。

「ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的世界は、我々の載身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように実在しない。したがってブラフマンとアートマンとは全く同一である、とシャンクラは説いている。彼の立場は不二一元論(Advaita)と呼ばれている。一般の人間は、無明のために、真実を知らず、アートマンと、統覚機能などのような非アートマンとを明確に識別していないために、輪廻しているのである。輪廻とは、結局この無明のことであり、この無明を滅することが解脱である、とシャンカラは教えている。(『ウパーデーシャ・サーハスリー』―-真実の自己の探求、シャンカラ著、の訳者、前田専学による、前書きより。7㌻。)

 

(注1)     偶有性 contingens

アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方である。質料は偶有性を本性とするからである。この偶有なる個物にかかわることによって、行為とすべての実践的知識が成り立つ。行為は、存在することもしないこともありうる存在事物のうちに、或()る目的を実現することであり、実践的知識はこの行為を導くものだからである。中世の形而上(けいじじょう)学は、創造者である神を必然存在とし、すべての被造物を偶有存在とする存在把握を根幹とする。偶有存在の現存の事実から、その存在の原因として必然存在である神の現存を推論する道は、トマス・アクィナスの神の現存証明の第三の道である。(加藤信朗]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

――

偶有性

ラテン語ではaccidens.

【一般概念と定義】アリストテレスが列挙した10個のカテゴリー(範疇、ラテン語のpraedicamenta)のうち、第一実体(ギリシャ語のousia、「ものが何であるか」)以外の9個のカテゴリーを中世のスコラ学者は偶有性(ラテン語でaccidentia[複数]と呼んだ。この言葉はギリシャ語のシュンベベーコスsynbebekos を訳したものであるが、アリストテレス自身は「付帯性」ないし「偶然性」の意味で用いた。スコラ学者はこの言葉をaccidentiaと訳し、主要な「有」(ens)である実体(substantia)に対して、第二次的な有を意味する語として用いた。これは、「どれほど」「どのようにして」「どこにあるのか」などの存在する様相(modus)を説明する概念であり、第一次的有である実体に依存する有である。

実体は「それ自体において在るもの」(ens per se)であり、偶有性はそのような実体において、つまり「他者において在るもの」(ens in alio)と解される。「有」は「類」に属さないから、厳密な「偶有性」の定義は次のようになる。

「他者において在ることがそれの本質に適合するところのもの」となる。

これと関連して『偶性』という用語がある。これも同じaccidens の訳語であるが、これはある存在の本質に属さない属性(偶有的)を述べるときに用いられる。たとえば、人間について述べるときにその人が「肥っている」「痩せている」がどうかという特徴は人間の本質に属さない特色であるので、それは遇性である、と言われる。(新カトリック大事典、稲垣良典 より。)

 

注2 韻文篇

第一章 純粋精神

・アートマンは純粋精神であり、一切に偏在し、一切の存在物の心臓のうちに宿っており、一切の認識を超えている。(同書、第一章、一、17㌻より。)

・人間の善悪の行為の結果は業として身体に結び付き、貪欲と嫌悪による行為の原因となる。(同書、第一章、三、18㌻より。)

・善行と悪業により無知な人は再び同じように身体と結合して輪廻として繰り返す。(同書、第一章、四、18㌻。)

・輪廻の根源は無知にある。無知をすてるためには宇宙の根本原理であるブラフマンを知らなければならない。(同書、第一章、五、18㌻より。)

・知識のみが無知を滅することが出来る。行為は〔無知と〕矛盾しないから、〔無知を滅することが〕できない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。(同書、第一章、六、18㌻。)

・貪欲と嫌悪が滅していなければ、かならず行為が〔貪欲と嫌悪という〕欠点から生ずる。それゆえ至福のために〔ウパニシャッドにおいてブラフマンの〕知識のみが述べられている。(同書、第一章、七、18㌻より。)

・行為はブラフマンの知識と両立しない。行為はアートマンに関する誤った理解を伴っているからである。ブラフマンの知識とはアートマンは不変であるという知識である。

・ブラフマンの知識は行為の要因を破壊する。(同書、第一章、十四、18㌻より。)

・人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体などと区別のないものと理解しているが、この理解は無明に由来している。この理解がある限り、行為を行えという聖典の命令は有効である。(第一章、一六,20㌻より。)

・無明をいったん除去すれば、「わたしは有(ブラフマン)である」という認識があるのに「(私)は行為主体である」「〔私は〕経験主体である」という観念を持たないはずである。

第四章 「私」という観念

・身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識を持ち、かつ、その知識が、身体はアートマンであると考える一般の人の観念と同じように強固な人は、望まなくとも解脱する。(同書、第四章、五、27㌻より。)

第六章 切断

・認識対象を捨て、つねにアートマンを[あらゆる限定を]離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれるものもすでに捨てられた[身体]の一部であると理解すべきである。(同書、第六章、四、30㌻より。)

第七章 統覚機能にのぼったもの

・アートマンは変化することなく,不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、その認識は限定されたものではない。一切万物はアートマンの統覚機能の中で見えるようになる。(同書、第七章、三、四、32㌻より。)。だ

第八章 純粋精神の本質

・アートマンは純粋精神を本性としている。虚空のように、一切に遍満し、不壊であり、吉祥、中断することなく、分割されず、行為しない最高(ブラフマン)である。(同書、第八章、一、三、3334㌻より。)

第一〇章 見(=純粋精神)

・アートマンは虚空であり、常に輝き、生まれず、唯一者であり、不滅であり、無垢,不二である最高者[ブラフマン]、本性上不変、いかなる対象もなく、不老・不死、原因でもなく結果でもなく、常に満足しており、ゆえに解脱している。(同書、第一〇章、一、二、三、37㌻より))

・身体・感覚器官から起こる一連の苦痛は、アートマンのものではなく、アートマンでもない。不変であるから苦痛は実在しない。(同書、第一〇章、五、38㌻より。)

・アートマンには始めも属性もない。行為も結果もない。(同書、第一〇章、七、38㌻より。)

第一二章 光に照らされて

・身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は熟睡状態にあるときと同じく、覚醒状態において本来苦しむことはない。(同書、第一二章、五、47㌻より。)

・「アートマンは行為の主体である」「経験の主体である」という認識は誤りである。(同書、第一二章,一七、50㌻より、)

・「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって想定されて者である。アートマンが唯一である、という知識がある場合には、この観念は存在しない。(同書、第一四章、一九、61㌻。)

・アートマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知る者は、まさしく[真実に]アートマンを知っているものではない。それとは別用に知っている者が、[真実に]アートマンを知っている者である。(同書、第一四章、二四、62㌻より。)

・「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを知っていることになる。(同書、一四章、二九、63㌻より。)

・自己の本性は、何の原因の持たないものであるが、その他のものは原因を有するものである。自分自身によっても〔あるいは他のものによっても〕取られることも、捨てられることもない。(同書、第一六章、四一、83㌻より。)

・〔アートマンは〕一切万有の本性であるから、捨てることも、取ることもできない。なぜなら〔アートマンは、一切万有とは〕別のものではないからである。それゆえ永遠の存在である。(同書、一六章、四二、93㌻より。)

・〔アートマンとブラフマンとは〕別のものであるとする見解は、無明である。無明からの途絶が解脱である。この止息は、知識によってのみ得られる。(同書、一七章、七、104㌻)

・一切のものは無明から生じる。それゆえ、この世界は非存在である。世界は無明を持っている人に見られるが、熟睡状態において知覚されないから。(同書、一七章、二十、108㌻より。)

・実に心が、鏡のように、清らかとなるとき、明智が輝き出るから、心は清められるべきで

 

・身体などの非アートマンに対する、「私のもの」「私」という観念は、無明である。〔無明は〕アートマンの知識によって捨てられるべき出る。(同書,17勝、45114㌻より。)

・無明のために、〔アートマンは〕身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に〔映る〕月などのように、身体の属性をもつもののように見られる。(同書、一七章、五五,117㌻より。)

・「私は不生であり、不滅であり、不死であり、不畏であり、一切智者であり、一切見者であり、清浄である」と悟った者は、〔再び〕生まれることはない。(同書、一七章、五八、118㌻。)

・天啓聖典を無視する人々は、アートマンと[その映像]について、ありのまま十分に知らないために、迷わされており、「私」という観念の主体をアートマンであると考えている。(同書、一八章、四八、138㌻。)

・人々は鏡の中の顔が「顔」と同一であると考える。それは顔の映像が顔の形相をもっているからである。同じように、人はアートマンに自分の影像を映して、統覚機能による認識をアートマンとし、逆に自己の統覚機能に純粋精神性を付託して、統覚機能が認識の主体であるとする。しかし、認識はアートマンの本性であり、永遠の光であるから、統覚機能によっても、アートマンによっても、他のものによっても、決して造られることはない。しかるに、一般の人々は身体に関して「私」という観念を持ち、身体が認識の主体であると考える。(一八章、64-67142㌻より。)

・心(=統覚機能)が精神的なものである、ということは、聖典によっても理論によっても支持されていない。もしそうなら、身体や目なども同じく精神的なものであるという欠陥が付随するであろう。(一八章、八八、148頁。)

・天啓聖句を聞いたときに、「私は有である」と理解されるか、それとも「私は別のものである」と理解されるであろうか。もし「私は有そのものである」と理解されるならば、「私」という言葉の意味は「有」であると承認されるべきである。(一八章、一〇五、152㌻。)

・「(私は)苦しい」という観念は身体などを「私」であると誤って考えることから確実に生じる。「私は内我である」と考える、識別智によって、識別智を持たない観念が否認される。(一八章、一六〇、一六一,166㌻より。)

・私(=アートマン)は触覚も身体もないから、決して焼かれることはない。それゆえ、「私は苦しみを受けている、という観念は、自分の息子が〕が死んだときに、〔私は〕死んだという〔観念が起こる〕ように、〔アートマンに関する〕誤った理解から生じる。(一八章、一六三,167㌻より。)

 

散文篇 第一章 弟子を悟らせる方法

アートマンは虚空と呼ばれ、・・・身体を持たず、粗大でない、などの特徴を持ち、悪を離れていることを特色とし、一切の輪廻の性質に触れることがない。・・・他に見られることなくして、自ら見るものである。他に聞かれることなくして、自ら聞くものである。他に思考されることなくして、自ら思考するものである。他に認識されることなく、自ら認識するものである。(第一章 一八 206-208㌻)

もし弟子が「先生、私は身体が焼かれたり、切られたりするときには、はっきりと苦痛を知覚します。また、飢餓などによって起こる苦しみをはっきりと知覚します。しかし最高のアートマンは、すべての天啓聖典および古伝書の中で『悪なく、老いることなく、不死であり、憂いなく、飢餓から自由である。』と言って一切の輪廻の属性を持たないと述べられています。わたしは最高のアートマンと本質を異にし、多数の輪廻の属性を備えているのにかかわらず、どうして最高のアートマン自身と理解することが出来るでしょうか。」というなら、師は次のように答えるべきである。「君が…苦痛をはっきりと知覚します」と言ったのは正しくない。何故なら、確かに焼かれたり、切られたりしている木と同様に、身体は知覚主体によって知覚される対象である。その対象である身体において焼かれたり、切られたりする苦痛が知覚されるのであるから、その苦痛は焼かれ、切られたりしている場所と同じ場所にある。人が苦痛を知覚するのは苦痛の原因となっている場所であり、苦痛の主体に苦痛があるとは指摘しない。「どこが痛いか」と訊ねられたら、『頭が痛い』『胸が痛い』などと答え、知覚主体を苦痛の場所と指摘することはない。もし苦痛の原因が知覚主体にあるならば人は苦痛の場所を知覚主体として指摘するだろう。しかし苦痛そのものは目の色・形がそうであるように、知覚されない。

苦痛及び苦痛の原因に対する嫌悪もまた苦痛の印象と同じよりどころをもっている。

貪欲と嫌悪は色・形の印象と共通のよりどころ(=統覚機能)を持っている。また知覚される恐怖も統覚機能をよりどころとしている。それゆえ認識主体は常に清浄であり恐怖を持たない。

では一体,色・形などの印象は何をよりどころにしているのか。

(師は答える。) 欲望のある場所である。

欲望は何処にあるのか。欲望・思惟・疑惑〔信仰・不信仰・堅固・不堅固・恥・思慮・恐怖、これら一切は意に他ならない〕は統覚機能にある。色・形は心にある。欲望は心に宿る。欲望・憎悪は対象である身体の属性であり、アートマンの属性ではない。

アートマンは一切であり部分を持たない。内も外も含み、不生である。叡智の名称である。一切万有の中に隠されている。身体の中にあって身体を持たない。生まれることも死ぬこともない。

一切万有の中に平等に住む。

一切の種類の形態を離れ、虚空のように等質であるのに、行為の目的・行為の手段・行為の主体が実際に経験され、あるいは天啓聖典で述べられており、見解の相違を引き起こすのは何故か。

それは無明の結果である。変化物はただ言葉による把捉であり名称にすぎない。

無明を持っているものは身体などの差別を得てアートマンが望ましいものと望ましくないものと結合していると考える。この差別こそ輪廻の性質である。

最高の真理の認識を得たい者は、自分の階級・生活期などがアートマンに属するという誤った見解を捨てて、息子・財富・三界などに対する願望を捨て去るべきである。

それゆえ一切の祭式および聖紐などの祭式の手段は無明の結果であるから、最高の真理の直観に安住している者によって捨て去られるべきである。

散文遍第二章 理解

弟子:どうすれば輪廻から解脱できますか。わたしは身体と感覚器官とその対象を意識します。覚醒状態で苦しみ、夢眠状態で苦しみます。熟睡状態に入れば中断するが、その後再び苦しみを感じます。これがわたしの本性でしょうか。別のものが本性でしょうか。別に本性があるなら何が原因で苦しむのでしょうか。自分の本性なら本性から逃れられないので解脱の望みはありません。何かの原因があるならその原因を取り除けるならば解脱できると思うがどうすればいいでしょうか。

:それはあなたの本性ではない。あなたの苦しみはある原因によるのです。

弟子:その原因とは何ですか。その原因を取り除くにはどうしたらいいですか。病人はその原因が取り除かれるならわたしは健康になるでしょう。

師の答え:その原因は無明であり、それを取り除くのは明智です。無明が亡くなれば輪廻から解放され苦しみを感じなくなります。

弟子:無明とは何ですか。

:君は最高我であり輪廻しないのです。しかし君は正反対に理解しています。また行為主体でないのに「わたしは経験の主体である」「私は永遠には存在しない」と考えています。これが無明です。

弟子:そういわれても、私は最高我ではありません。わたしの本性は行為したり経験したりする輪廻です。このことは直接知覚などの知識根拠によって認識されるからです。また無明を原因としてはいません。無明は自分のアートマンを対象とすることができないからです。無明とはAの性質をBに付託することです。例えばよく知られている銀をよく知られている真珠貝に付託し、あるいはよく知られている人間を木の幹に付託し、あるいはよく知られている木の幹を人間に付託することです。しかしよく知られていないものをよく知っているものに、またよく知られているものをよく知られていないものに、付託することはありません。アートマンは良く知られていないので、アートマンでないものをアートマンに付託することはありません。またアートマンをアートマンでないものに付託することもないと思います。

:それは正しくない。例外があります。必ずしも良く知られているものがよく知られているものにだけ付託されるとは限らない。「わたしは色が白い」「わたしは色が黒い」という場合は、身体の性質が「わたし」という観念の対象であるアートマンに付託されているし、「私はこれです」という場合は、「私」という観念の対象であるアートマンが身体に付託されているのです。

弟子:その場合、アートマンは「私」という観念の対象としてよく知られているものです。身体もまた「これ」としてよく知られているものです。よく知られている身体とアートマンとの相互委託にすぎません。何故「両者ともよく知られているものだけが相互に委託されるとは限らない」と先生は仰るのですか。

:聞きなさい。確かに身体とアートマンとはよく知られている。しかし、樹の幹と人間の場合互いによく知られている場合とは異なって、すべての人にはっきりと区別される観念の対象としてよく知られているわけではありません。

弟子:ではどのように知られているのでしょうか。

:常に全く区別のない観念の対象として知られているのです。誰も「これは身体、これはアートマン」というように、はっきりと区別された観念の対象として、身体とアートマンとを把握していないから、人々は、「アートマンとはこのようなものである」「アートマンとはこのようなものではない」と考えて、アートマンとアートマンでない者に関して、非常な混迷に陥っている。

弟子の反論:無明によって、A に付託されたBAには実在しません。縄に付託された蛇は縄には実在しないように。虚空に付託された地上の塵埃は虚空には実在しないように。それと同様に、身体とアートマンもまた、お互いに区別のない観念として相互に付託されるなら、身体はアートマンに実在しないし、アートマンは身体に実在しないということになります。身体もアートマンも無明によって相互に付託されるなら、身体もアートマンも実在しないという結論に至ります。(しかし、それは仏教徒の主張だから承認できない。) 身体だけが無明によってアートマンに付託されるというのであれば、アートマンは実在するが身体はアートマンに実在しないという結果になります。しかしそれは直接知覚などの知識根拠に矛盾するので承認できません。従って身体とアートマンとは相互に付託されるということはありません。

 

:では身体とアートマンとはいかなる関係にあるのか。

弟子:身体とアートマンは、家屋の竹と柱のように、つねに結合しています。

師:それは正しくない。もしそうなら、アートマンは無常であって、他のために存在するということになる。アートマンは身体とは結合しない。身体とは別なものである。

弟子の反論:アートマンは結合しないとしても、身体にすぎないとされ、身体に付託されてしまうので、アートマンは実在せず、無常であるということになります。その場合、身体はアートマンを持たないとする教務論者(仏教徒)の主張に帰着します。

:それは正しくない。アートマンは虚空のように本性上何ものとも結合しない。だからと言って身体など一切のものがアートマンをもたいないとは言えない。虚空が一切のものと結合していなくとも、一切のものが虚空を持たないということにはならないと同様です。また身体にアートマンが実在するということは直接感覚で認識されることではない。

弟子:知覚されないアートマンがどのようにして身体に付託され、アートマンに身体が付託されるのでしょうか。

:それは問題ない。

弟子:身体とアートマンとの相互付託は身体の集まりによってなされるのでしょうか。それともアートマンによってですか。

師:そのときにはどういうことになりますか。

弟子:もし私が身体などの集まりにすぎないのならわたしは非精神的なものであるということになり、他のために存在していることになります。したがってわたしが身体とアートマンを相互に付託することはありません。もしわたしが最高我であり、身体の集まりとは異なるものであれば、わたしは精神的なものですから、自己を目的とします。従って精神的な私がアートマンに対して付託を行います。

:もし君が、誤った付託が禍の種子であると知っているならば、それをしてはなりません。

弟子:私は他のものによって付託させられるのです。

師:そのとき君は非精神的なものですから、自己を目的とするのではありません。非独立的な君に誤った付託をさせるのは自己を目的とする精神的なものです。君は身体の集まりにすぎないのです。

弟子:もし私が非精神的なものであるならば、苦楽の感覚や先生の仰ったことをわたしはどのように認識するのでしょうか。

 

:君は、苦楽の感覚と私の言った事とは別のものですか、同一のものですか。

弟子:同一ではありません。

:何故か。

弟子:わたしは両者を壺のように認識の対象とします。もしわたしが両者と同一なら両者を認識できません。わたしが両者と同一なら苦楽の感覚の変化が自己を目的とするものとなり、先生の仰ったこともそのようになるでしょう。しかし両者が自己を目的とするものであることは合理的ではありません。

:その場合君は精神的なものであるから、自己を目的とするものであり、他の物によって誤った付託をさせられることはない。精神的なものが他のものに依存し、あるいは他のものによって付託させられることはない。

弟子:召使と主人は精神的なものであるのに、両者は互いのために存在するということが経験されるのではないですか。

師:そうではない。

弟子:観念は外界の対象の形相を持つものとして確立されます。わたしは外界の形相を持った諸観念を知覚する主体です。この主体は変化します。それゆえ私が不変であるということには疑問があります。

師:君の疑問は理に会わない。君はこれらの観念を必ず残りなく知覚するのであるから君は変化しない。それゆえ君は不変である。

弟子:知覚とは変化にほかなりません。

師:知覚と知覚主体の間に区別があれば君のいうことが正しい。しかし知覚と知覚主体は別のものではない。統覚機能の観念はアートマンの知覚が知覚主体であるかのように現れるとわたしは言った。

弟子:私が不変であるならば、わたしは私の対象である統覚機能の働きを余すことなく知覚する主体である、と何故仰ったのですか。

師:私は真理だけを話した。まさしく君は統覚機能を余すことなく知覚する主体であるという真理に基づいて君が不変であると言ったのです。

弟子:わたしは不変・恒常的な知覚を本性としており、音声など外界の形相を持った統覚機能の観念が生じ、かつそれは私の本性である知覚が知覚主体であるかのように現れるという結果で終わります。その場合、一体私にはどんな誤りがあるのでしょうか。

師:君のいうことは正しい。何の誤りもない。しかし私は無明だけが誤りであると言ったのだ。夢眠状態と覚醒状態は君の本性ではない。衣服のように離れ去る。偶然的であり、可滅性と非存在性を持っている。

弟子:もしそうなら、熟睡状態においてわたしは何も知覚しませんから、私の本性は精神性の無い、偶然的なものになってしまうのではありませんか。

 

師:熟睡状態においても、君は見ている。君は見られる対象の存在を否定しているだけであって、君が見ていることを否定しているのではない。君が見ること、それが精神性です。

もし君が、「知識主体に関する理解が生じない場合には、知識主体が理解されることはないでしょう」というならばそれは正しくない。理解する主体の対象が理解されるべき対象であるなら、無限遡及に陥る。しかしアートマンにある理解は、普遍で恒常的な光であり、太陽の光のように、他の物に依存しないで確立されている。そして、アートマンにある理解すなわち精神性の光は無常ではない。

質問者:理解が知識根拠の結果であり、かつ、不変・恒常であって、アートマンの光を本性としているということは矛盾しています。

師:矛盾していない。

質問者:どのように、矛盾していないのでしょうか。

師:理解は不変・恒常であっても、直接理解などの知識根拠に基づく観念形成過程の終わりに現れる。観念形成過程はそれを目的としているからである。直接知覚による観念が無常である場合は、理解は知識根拠の結果であると言われる。

弟子:もしそうであれば、理解は不変・恒常であり、アートマンの光を本性として確立しております。アートマンでないものは本性上、苦・楽・混迷を起こす観念によって理解されるので、他のためにのみ存在しています。従ってアートマンでないものは絶対真理の立場から見れば実在していません。覚醒状態と夢眠状態において経験される二元性もまた、その理解を離れては存在しないというのが合理的です。ちょうど夢眠状態において、青・黄などという種々の形相を有する諸観念はその理解から離れ去るので、本性上実在しないはずです。そして、この理解を理解する別の主体は存在しません。それゆえ、〔理解〕は、自己の本性上、自ら取ったり捨てたりすることは出来ません。他の何ものも存在しないからです。

師:「まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くものが明智である。このようにして君は無畏に達したのです。君は今後、覚醒状態と夢眠状態において、苦しみを知覚することはない。君は輪廻の苦しみから解脱したのです。」

 

注3.ラテン語の格言:Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur which means, whatever is received is received in the manner of the

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