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2020年10月11日 (日)

年間第28主日A年聖書朗読

20201011日、年間第28主日A年の説教

 

主イエスは、神の国の福音を、いろいろなたとえ話によって、説明されました。

最近の主日の福音は、3回ほど続けて、『ぶどう園』に関するたとえ話です。

『ぶどう園の主人と農夫のたとえ話』が先週(年間第27主日)、その前は、『ぶどう園に招かれたふたりの息子のたとえ話』(年間第26主日)、さらに、3週間前は、『ぶどう園で働く労働者のたとえ話』(年間第25主日)でした。

ぶどう園というのは、神様が、わたしたちを派遣して、働く場所、人々を招いて、神様のみ心を行わせるための世界を表していると思われます。

わたしたちは、この世界、ぶどう園に遣わされ、そちらで、神様のみ旨に従って、良い実を結ぶようにと、期待されています。

今日は、「王が王子のために催す婚宴のたとえ話」です。

今日の話に出てくる王は、父である神様、御子イエス・キリストのために、婚宴を催すということを伝えている話であると思われます。

『婚宴』、あるいは、『宴会』という主題は、聖書を通して、たびたび登場します。

今日の第一朗読、イザヤ書では、万軍の主が、すべての民を招く祝宴が述べられています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き

すべての民に良い肉と古い酒を供される。

それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

主はこの山で・・・(省略)・・・

死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい

御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる」(イザヤ256-8)。

神様が、わたしたちを、その喜びの宴会に、招いてくださるという、喜ばしい福音が、すでにイザヤ書で、述べられています。

さらに、黙示録の中では、次のように言われています。

「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(黙示199)。

神の国が完成したときのイメージを持って、神様は、すべての人を、ご自分の宴会に招いてくださるという、喜びの便りを告げています。この言葉をわたしたちは、聖体拝領の前に唱える祈り、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」として唱えています。

さて、今日のたとえ話の後半です。

礼服を着ていない者は、外の闇に放り出されてしまう、と言うのです。

王は、家来を遣わして、いろいろな人を王子の婚宴に招きましたが、人々はいろいろな理由をつけて、招きを断ります。

そこで、王は、良い人であっても、悪い人であっても、誰でも良いから、呼んできなさいと命じます。そして、部屋がいっぱいになるほどの人が、婚宴の席に連なることになった。急に呼ばれて、身なりを整える余裕もないままに連れてこられた人に対して、礼服を着けていないことをとがめられるということであるならば、それは、よく分からない話であるということになりはしないでしょうか。

人生には、いろいろと重要な場面、例えば「死」という場面がありますが、いつ、どのようにして、その場面が自分に訪れるのかということを、わたしたちは知ることはできない。たぶん、そのことを教えているのかもしれない。いつでも準備していなければならない。いつでも、そのときが来たら、そのときを、よく迎えることができるように、心を整え、生活を整えていなければならない。わたしたちは、そのようにしなければならないのだと思います。

恐らく、この礼服というのは、文字通りの、立派な、婚宴のときに着ていく服というよりも、王の招きに、いつでも応えることができるような、準備のことを指しているのではないかと思います。準備とは、心の準備、生活の準備のことではないかと思います。

ふさわしい心、それは、神の招きに、いつでも応えようとする信仰、そして、自分が至らないものであるということを、よくわきまえる、謙遜さ、神の恵みへの感謝、そして、神の国の完成へと、自分が連なることができるという希望を表しており、そして、そのような心構えで、日々誠実に生きる、日々の愛の実行ではないかと思います。

今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどりであると言われます。

ミサというのは、主として、『ことば』の食卓と、父である神との親しい交わりを示す『感謝』の食卓から成り立っていますが、ご聖体をいただくときに、ふさわしい準備をして、主の御からだをいただきます。

それは、ちょうど、神の国に最終的に入るときのことを、あらかじめ、表していると考えることができます。

今日の主日の朗読を聞かれた皆さん、みなさんは、『福音を宣教する』という使命を授かります。福音宣教とは、すべての人を、神の国の宴会へ招くということであると、言い換えることができます。

「神様は、すべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いてくださっています。ですから、いつもふさわしい心で準備していなさい。生活も整えなさい。」

そのようなことを、人々に教え、伝えることが、福音宣教ではないかと思います。

 

 

 

 

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コメント

主イエスが説明された神の国の福音では、ぶどう園は、神様が私たちを派遣して、働く場所、神様の御心を行わせるための世界であるということ。
イザヤ書の、「・・・.主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上から拭いさってくださる・・・」という話。
聖体拝領の前の祈りのことば。
そして、王子の婚宴でのたとえ話。 どれも大切な教えだと思いながら拝読いたしました。
 ・・・私たちには、人生の重要な場面、死までもが、いつ訪れるか知ることはできないが、いつでも準備していなければならない。それは心を整えること、生活を整えることである。それは神の招きにいつでも応えようとする信仰、自分が至らないものであるということをよくわきまえる謙虚さ、神の恵みへの感謝、神の国の完成へと連なることができるという希望をもっていなければならない、ということを表している・・・
とても切実で、真剣に向かわなければならないお導きのおことばだと思いました。


神さまの招きにいつも応えようとする、応えられるように準備しているというのは、
あまり、応えねば、応えねば、応え損なわないようにせねば、といつも緊張して身構えていることより、
「自分が至らないものであるということをよくわきまえる謙遜さ、神の恵みへの感謝、神の国の完成へと自分が連なることができるという希望」が大事だと思いました。

身構えず、自然に、素直に招きに応えられる私でありたい、そういう自分であれますように。

「今日、ご一緒に献げている、このミサは、神の国の完成の宴会の前触れ、かたどり。」
「神さまはすべての人を、ご自分の幸せ、ご自分の喜びの集いに招いて下さっています」
一回一回のごミサの大切さをあらためて味わいたいと思います。

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