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2020年10月22日 (木)

神はアブラハムに何を命じたか?

悪についての小考察その10

――神はアブラハムに何を命じたか。「イサクの犠牲」という躓きについて

 

キリスト教がなぜ日本の地でなかなか受け入れられないのは何故か?教会の宣教の仕方に問題があるからか?教会自体の在り方に問題があるからか?あるいはキリスト教の内容、教理、教えが、人々にとって理解を阻んでいるのか?

聖書の教えが難しいからか?

 

今回は「躓きの石」かもしれない創世記で述べられている「イサクの犠牲」の物語を取り上げます。この個所はカトリック教会で最も大切にしている典礼の復活徹夜祭の朗読の選択肢に挙がられています。まず以下に本文を引用します。

 

アブラハム、イサクをささげる

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(創世記221-18

 

アブラハムは多くの人々から信仰の模範とされています。ユダヤ教はもちろんですが、キリスト教、イスラム教でも信仰の父として尊敬されています。

アブラハムは生涯にわたり数々の試練を受けました。特に本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に深刻で辛い試練でありました。神はアブラハムに独り子イサクを与えたにもかかわらず、イサクを焼き尽くすいけにえ(かつては燔祭と訳されていた。)として神にささげるよう命じました。すでに神は、アブラハムの子孫が増えて、空の星のようになるだろうといわれたのです。イサクをささげるとは文字通り息子を殺す、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。でもアブラハムは黙々と神の命に従い、早速出発して、いけにえをささげるべき山へ向かいます。途中の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。13歳という説があります。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天の見使いのこえがしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」主はイサクの替わりにお羊を用意し、お羊をささげるように準備してくださったので、危うくイサクの命は助かったのでした。

それではわたしたちはこの話をどのように受け止めることができるでしょうか?
従順に父の従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験しタアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で惨殺されるに任せた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだに違いないのです。

父である神はご自分のもっとも大切な人イエスを犠牲にしました。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、』(ヨハネ316)

復活徹夜祭で行われる洗礼は、人々をイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導くための恵みを与える秘跡であります。(ローマ63-11参照)

 

「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」の犠牲のことです。息子を燔祭の犠牲にするということは、はっきり言えば、焼き殺しなさい、という意味です。神は本当にそう命じたのでしょうか。

かつて聖書の分かち合いにこの個所を取り上げて、この神の命令をどう思うかと訊ねたところ、「とんでもない、正気の沙汰ではない」という感想が返ってきました。そうです、正に、父親が罪もない子供を焼き殺すとは、あってはならない以上な出来事なのです。この時イサク何歳だったのか、はっきりしませんが、唯々諾々と父親がなすがままに任せていたのでしょうか。それても暴れて抵抗したのでしょうか。100歳を超えた高齢者のアブラハムと少年あるいは青年だったかもしれないイサクが肉体で争えば、イサクの方が勝つでしょう。これは本当にあった出来事でしょうか。何等かに似たような出来事がこのように内用が変えられたのでしょうか。当時は確かに子どもを犠牲として神に献げて神の怒りを宥めるという悪しき習慣が行われていたとも考えられます。聖書自体はこの創世記の記述をどう解釈しているかといえば、ヘブライ書がこの出来事を取り上げています。

 

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

   (ヘブライ1117-19)

ヘブライ書によれば、アブラハムは自分の子を殺すことに疑念を抱いていないようです。たとえイエスを殺しても神はイサクを生き返らせてくださると信じていたからでした。

使徒ヤコブもイサクの犠牲に言及して言っています。

神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

(ヤコブ221-24)

ヤコブによれば、アブラハムがイサクを屠った行為は何ら非難すべきことではなく、むしろ称賛されるべきことである、と言っているように見えます。

人間社会の法律・道徳から言えば犯罪であり非道な残虐行為ですが、神の目から言えば、称賛に値する従順な信仰の行為である、ということになり、ここに、倫理と信仰の対立という現象が生じるのです。(この点については、キエルケゴールの『おそれとおののき』を取り上げて一緒に論じることにします。(注1)

 

一体、わたしたちはこの創世記の記述をどう解釈したらいいのでしょうか。旧約聖書は新約聖書の光ももとに解釈しなければなりません。イエス・キリストの復活の光のもとにイサクのいけにえを読み直す必要があります。今日訳聖書の解釈については第二バチカン公会議の啓示憲章を見なければなりません。(2)

 

ここで考えてみるに、神は本当にアブラハムにイサクを殺すように命じたのか、という疑問があります。「イサクを神に献げなさい」という命令ならわかります。「献げる」=「殺す」と解釈されるところが問題です。「殺してはならない」と命じられた神がアブラハムには息子を殺すようにと命じられたのでしょうか。人間は神の命令に服するが、神自身はその義務はないということだろうか。法の制定者自身が法を遵守しなければその方は向こうではないだろうか。

アブラハムは「神が息子を燔祭にするように命じた」と理解しました。それは間違いないと思われます。しかしその理解は間違っていたと考えるべきです。

人間の啓示の理解は徐々に発展してきました。神は六日間にわたって天地を創造したと創世記一章が伝えていますが、六日間という時間は、人間の考える時間ではない、ということは、今日、多くの人が諒解しています。

旧約聖書に出て来る記述で今日受け取りにくいことは他にも縷々あります。例えば「聖絶」(ヘレム)という問題です。

紀元前十三世紀、モーセに率いられたイスラエル群はエジプトからカナンの地に移住しましたがその際起こった理解しがたい現象が聖絶(ヘレム)と呼ばれる、カナン先住民殲滅事件でした。旧約聖書の専門家H・クルーゼ師によれば「神の裁きによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義されています。申命記によればこの死刑は神の意思に基づいて行われます。(4)

あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

   (申命記71-5)

この聖絶の思想は今に続くパレスチナ紛争の原因の一つになっています。この思想に「一神教」の危うさを指摘する者がいたとしたらそれは無理もないことだと思います。「聖絶」は形を変えて十字軍となり、さらにナチスの虐殺へとつながってきたと考えるのは行き過ぎでしょうか。

さて、神はアブラハムにイサクを殺すようにとへ命じなかったとして(仮説ですが)もう一つの問題があります。それは神がアブラハムを「試された」、ということです。

 

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

つまり、アグラハムが神に忠実であるか、神を真に信じているかを知るためにテストした、という意味です。この「試された」という動詞の名詞は、「試み」となりこれは「試練」とも訳されています。「試練」はヘブライ書が

 

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。」(1117)

 

でいうところに「試練」であります。そして「試練」のギリシャ語原文はペイラスモスpeirasumosρειρασμο(′)ςです。そしてpeirasumosは「主の祈り」出て来る「誘惑」なのです。おなじことばpeirasmosが「試練」となり「誘惑」となります。

日本語で試練と誘惑は明白に意味が違います。試練は人が人生で出会う、克服すべき困難。辞典によれば「心も強さや力の程度を試すために苦難」(新明解国語辞典)「信仰・決心など強さをきびしく試すこと。またその時に受ける苦難」(広辞林)となっています。どうも「試す」という要素が入っているようです。「誘惑」はどうかと言えば「相手を、その本来の意図に反する方向に(置かるべき状況とは異なった状況に)誘い込むこと。」

(新明解国語辞典)「人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと。相手の心をひきつけて、自分の思い通りにすること。」(広辞苑第七版)とあり、誘惑者が自分の求める方向に人の心を引き寄せることを言うようです。(注3

さて、「主の祈り」では、現在の口語訳では「わたしたちを誘惑におちいらせず悪からお救いください」となっていますが、かつての文語の文言では「われらを試みに引き給わざれ」となっていました。明らかに,peirasmosの解釈が「試み」から「誘惑」並行しています。

人は誘惑に遭います。誘惑に遭っても誘惑に負けて罪に陥らせないように助けてください、がこの祈りの意味であります。試みに遭わせないようにとは祈ってはいないのです。神は人を決して誘惑はしませんが試みには遭わせるわけです。「神は人を誘惑しない」ということは神の神性(神の本来の在り方)から行って必然であります。ヤコブは言います。

 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。(ヤコブ113

神が人を罪・悪に誘うなら、それは神ではないということになります。

それでは誘惑は何処から来るのか。ヤコブは、誘惑は人間の欲望から来ると言います。

  むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ114-15)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(一ペトロ5・7)

そして、誘惑は「悪いもの」つまり悪魔から来るのです。主の祈りの出典であるマタイによる福音で次のように祈っています。

わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。(マタイ6・13)

 

またペトロの手紙は言っています。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

(一ペトロ5・8-9)

(「悪魔」については稿をあらためて考察したい。)

そこで「ペイラスモス」である「誘惑」は、悪魔ないし人の欲望から来るということになります。それでは「ペイラスモス」である「試練」=「試み」は何処から来るのでしょうか。アブラハムの受けた試みは神からの直接のものでした。アブラハムは息子イサクを燔祭にすると解釈しましたが、果たしてそうなのか、という疑問を筆者は提出しています。使徒パウロの次の言葉は有名です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(一コリント1013)

人は試練に遭います。「試練に遭わせる」という言い方は何を意味しているのでしょうか。試練は神から来る、神の意向である、神が原因である、という意味でしょうか。

 使徒パウロの受けた試練は数えきれないものでした。その中に「とげ」があります。

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント127-10

「とげ」はパウロにとって非常に辛いものでした。それが何であったか明らかではありません。人間パウロの弱さ、疾病にかかわる重大な欠陥であったようです。

の弟子たちは必然的に「多くの苦しみを経なければならない」のです。師イエスが苦しみを受けたのなら、その弟子が同じく苦しみを受けるのは必然であります。弟子たちの受ける苦しみは、神から来るのではなく「世」から、神の支配を拒否するこの世の罪から来るのであります。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚なさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(ヨハネ1518-25)

「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネ1633)

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録1421-22

主イエスも人間として誘惑を受けられました。その誘惑はもちろん神から来たのではなく、またイエスご自身の欲望か来たのでもなく、それは、悪霊から来たのであり、イエスは人間の有限性をもって、悪霊の誘惑をその身に受け、そして退けたのでした。神がイエスを試みに遭わせたとは思えません。イエスは自ら苦しみを見に受け、父である神はイエスが試みと誘惑に遭うのを忍び、ゆるし、そして一緒に戦ったのだと考えます。

 

「試みる」というとき、主語が神である場合と主語が民である場合があります。

Theoligical Dictioanry of the New Testament,peiraoなどの項を参照してください。)

神は人を心に合わせます。アブラハムの受けた「試み」ですが、神がアブラハムにイサクをいけにえにするように命じた、とは考え難いです。聖書解釈について(2)で説明していますように、寓意的解釈という方法があります。神がアブラハムに命じたのでは、イサクを文字通り燔祭の生贄にするようにという意味でなく、愛する息子であった執着せずに、神の計らいにゆだねるように、老い意味であると思われます。神はアブラハムが自分に従うかどうか、忠実であるかどうか知るために、イサクの生贄を命じたとは考え難いのです。神は人に試験をして、合格するどうか探り、合格したたらその人を祝福する、というような神でしょうか。そのようには思えません。神が人に試練をゆるすのは、おのれを捨て己が十字架を担うという人の生き方を教え導き助ける為であります。人をイエスの十字架の神父に与らせ過ぎ越しの神秘の恵みに与らせるためであります。決して、人の品定めをするという意地悪い意図をもって人を苦しめるわけではありません。

イサクはイエスの前表と考えられます。あらかじめイエスを指し示すしるしとしての役割を担いました。イサクの信仰も多いに評価されるべきです。旧約の生贄、血を流す動物の生贄はイエスの十字架によって廃止され、今は、パントぶどう酒による献げものがミサで献げられているのです。

ところで神が人を試練に遭わせることがあるとして、その逆、つまり、人が神を試みることは信仰者としてあってはならないことです。『教会の祈り』で毎日次のように唱えています。

  今日、神の声を聞くなら、

   メリバのあの日のように、

  マッサの荒れ野の時のように、

   神に心を閉じてはならない。

  「あのとき、あなたがたの先祖たちは、

  わたしのわざを見ていながら、

   わたしをためし、試みた。」

主なる神を試し試みる、とは、不信仰の態度であり、神の愛と力を疑い、神の命令に不従順中であることを示しています。旧約聖書はイスラルの民が荒れ野で神に不平を言った神の愛を疑ったことを告げています。(出173、明20132024,2714、申3251,338、詩818,958,10632

 

―――

(注1) 『おそれとおののき』はデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールが1943年発表した作品で、婚約者レギーネ・オルセンとの婚約破棄という劇的事件を背景にして、キルケゴールがその苦悩を綴った論文であります。婚約破棄は一方的にキルケゴールの方から行われ、その理由は誰にも説明されませんでした。等の相手のレギーネにとっても全く意外な納得の行かない出来事であったと思われます。この事件がイサクの犠牲の物語とどのような関係あるのか、必ずしも、読者には明確ではないのです。イサクの犠牲の話はイサクの信仰を主題にしています。婚約破棄の原因はキルケゴールの信仰の問題にあるようであります。「信仰」ということが重要な主題であり、「神を信じるとはどういうことか」が論じられているのが『おそれとおののき』であります。

アブラハムは愛する息子、たった一人の息子を燔祭の生贄とするように神から求められました。アブラハムは即座に応諾し、朝早く発ってモリヤの山に向かいました。その際、彼は当のイサク、そしてその母であり自分の妻であるサラに、神のお告げの説明は一切しないのです。父子の間には何の会話もなかったようですが、ただ一回の会話、つまり次のような言葉が記録されています。

22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

真に涙なしには語れない物語です。アブラハムは息子をささげるようにと命令されたのですが、息子の方はそれを知りません。何か気付いていたかもしれませんが、あえて確かめる事態には至りませんでした。アブラハムの答えは、ヘブライ書にあるように、実際に息子を手にかけることは起こらないだろうという意味か、あるいは、たとえ燔祭にささげられても神はイサクを蘇らせてくれると信じていた、という意味か、判然とはしません。実際のところ、アブラハムは刃物を手にして息子を屠ろうとしたのです。ここで問題は、果たしてアブラハムの判断と行動は正しかったのかどうか、ということです。彼は神の命令にしたがったのですから、彼には何ら誤りはない、と言うべきでしょうか。神の命令は絶対です。地上のいかなる倫理・道徳も、法律も、神の命令の下に置かれているのですから、たとえ、道徳や法律に反しても、神の命令は絶対であり、神の命令で行ったことはすべて義とされるのです。「殺すなかれ」は神の十戒の一つですが、神が命令する場合はその限りではありません。実際、国家による死刑、あるいは戦争は「十戒の適用外」とされてきました。(やっと最近問題とされるに至ったのですが。) 愛するわが子、その子孫は空の星のように増えるという祝福を受けたイサクをわが手にかけなければならない父アブラハムの苦悩は如何ばかりであったでしょうか。問題は神の命令であれば神の掟に反する重罪を起こしてもよいのか、あるいは例外として、その責任は問われないのか、ということです。キルケゴールはその論点を詳細に論じています。信仰の世界、超自然の世界では、地上の論理、道徳は無効である、というのが彼の見解です。ここに信仰の逆説があります。「信仰の逆説は、(信仰者である)個別者が普遍的なものよりも高くあるということであり、いまではかなり稀になっている教義上の差別を思い起こしてもらえば、個別者が絶対的なもの()に対する彼の関係によって、普遍的なもの(例えば、殺す勿れという掟)に対する彼の関係を規定するということであって、普遍的なものに対する彼の関係によって、絶対的なものに対する彼の関係を規定するということではない。この逆接は、神に対する絶対的義務が存在する、というふうに言い表すことが出来る。なぜなら、この義務関係においては、個別者は個別者として、絶対者に対し絶対的に関係するからである。」(世界の大思想24、キエルケゴール、『おそれとおののき』、63㌻。カッコ内の説明は筆者の解釈による。)

アブラハムが神の命令を誰にも打ち明けなかったのも、アブラハムの沈黙は信仰者の行為として是認されるだけでなく、称賛に値します。誰かに話しての到底理解してもらえないだろう、いや説明すべき言葉を彼は持たなかったのだ、とキルケオールは言います。言葉にはならない信仰の世界の出来事なのです。またキルケゴールはイエスの言葉を引用してアブラハムを弁護し称賛します。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

貴方がたのうち、等を立てようとするとき、作り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

     (ルカ1425-33)

14章25節の「これを憎むmiseou」ですが、当時のデンマークではこの言葉を文字通りには受け取らないで、弱めて解釈し、「あまり愛さない」「ないがしろにする」「気にかけない」「無視する」などの意味にとっていたそうです。それは誤りだとキルケゴールは断言します。(しかし、アブラハムがイサクを憎むと言っても、燔祭にして殺すという意味だったかは、多いに問題です。)ともかく、イエスの従う者は一切を投げうって従わなければならない、同様に、主なる神の呼びかけには無条件に従わなければならないわけで、アブラハムはその模範であります。

 

 

(注2

啓示については第二バチカン公会議の『啓示憲章』に学ばなければなりません。(以下、『カトリック教会のカテキズム』34㌻―38㌻によって説明します。)

神は愛によってご自分を人類に掲示しました。啓示の源泉は聖伝と聖書です。聖書の作者は神です。何故なら聖書は神の霊感によって書かれたからです。神は人間である聖書記者に霊感を授けました。聖書記者は人間的な表現で神の言葉を伝えています。ですから聖書を正しく理解するためには、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時の人々のものの感じ方、話し方、物語の方法を考慮する必要があります。そして、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するために荷は次の三つの基準に従わなければなりません。

① 聖書全体の内容と一体性に特別な注意を払うこと。受難の後の復活の光に照らして解釈すること。

② 教会全体の生きた伝承にしたがって聖書を読むこと。教父の教え方に従い、霊が教会に与えた霊的意味に従って聖書を霊的に解釈しなければなりません。

③ 信仰の類比に留意しなければなりません。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。

聖書の意味には文字通りの意味と霊的な意味との二つの意味があります。後者は寓意的な意味、道徳的な意味、天上的な意味とに分けられます。これらの四つの意味は根本的には一致し、聖書の解釈をより豊かにしてくれます。

霊的な意味。 

1)寓意的意味。寓意に託して表現される啓示の真理。例えば紅海を渡るのはキリストの勝利と洗礼を意味する。

 寓意とは、「他の物事に託して、それとなく真意をほのめかすこと。また、その裏に隠れた意味。(広辞林)。 「アレゴリー(英: Allegory)とは、抽象的なことがらを具体化する表現技法の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。」(ウイキペディア)

2) 道徳的意味。正しい行動に導くための表現

3) 天上的意味。永遠の意味を示す。例えば地上の境界は天上のエルサレムのしるしです。

 

(3) ちなみに英英辞典では次のように説明しています。

Temptation/tempting or being tempted tempt/(try to)persuade (sb)to do sth wrong or foolish/ Attract (sb) to have or do sth./(old use,biblical) test

Temptation とtestとの区別は必ずしも明確ではないような印象です。

 

(注4) 岡田武夫『現代の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、III-4、ねたむ神と聖絶、を参照。)ならびに『神言』H.クルーゼ、南窓社、16㌻、参照。

以下、「クリスチャントゥデイ」(2019214日付け)より引用。

羽生選手が引用した「試練は乗り越えられる者にしか与えられない」や、池江選手の「神様は乗り越えられない試練は与えない」は、新約聖書の言葉「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10章13節)に基づくものだとみられる。

(中略) 一方、ここで言われている「試練」という言葉は、日本語では「逆境」や「苦難」といったニュアンスで捉えられる場合が多いが、原語のギリシャ語「ペイラスモス」は「試み」や「誘惑」とも訳せる言葉だ。またこの箇所は、主に偶像礼拝に対する警告が書かれているところで、13節の後には「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」(14節)と続く。そのため、13節で触れられている「試練」は、一般的にイメージされる「逆境」や「苦難」よりも、偶像礼拝やみだらなこと、神を試みること、不平を言うこと(8〜10節)との戦いという、信仰上の「試練」と捉えた方がよいのかもしれない。ちなみに、イエス・キリストが荒野で40日間断食し、悪魔から誘惑を受けたとされる新約聖書の別の箇所(マタイ4章1〜11節)で、「誘惑」と訳されている言葉も、ペイラスモスの語源となる言葉だ。また「主の祈り」の「われらを試みに会わせず」の「試み」もペイラスモスが使われている。

 

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コメント

衝撃を受けたアブラハムとイサクの話について、いろいろな解釈や問題点をお話していただき、聖書の教えをいっそう広く学ぶことが出来たように思います。はじめはアブラハムの、神への信頼と信仰の強さと、それに応える神の力と御心を示す話だと思い、感動しながらもそれ以上に深く考えていませんでした。とても深い考察を拝読して、神を信じるとはどういうことかに関して多くのことを学ぶことが出来たように思います。「この話はイエスの復活の光のもとに読み直す必要がある、イサクはイエスの前表とと考えられ、イエスを指し示すしるしとしての役割を担っている」、とも教えていただきました。聖書がどのように書かれたかの詳しい説明もしていただき、神は人間である聖書記者に霊感を「授け、聖書記者は人間的な表現でで神のことばを伝えている、聖書を正しく理解するためには、当時の状況文化、「文学類型」、当時の人々のものの考え方、話し方、物語の方法を考慮する必要がある、とお教えいただいたことで疑問に思っていたことも明るくなりました。
「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された。人は行いによって義とされるのであり、信仰だけによるのではない」 と仰っているのは大切なお言葉だと思いました。倫理と信仰の対立ということも気になりました。

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