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2020年10月26日 (月)

あなた罪人と言われてもね、何も悪いことしてないよ!

悪についてその11

――「罪」ということが分かり難いのではーー

 

キリスト教が受け入れ難いとしたらそれは何故かと言えば、いろいろあるでしょうが、「罪」という概念があげられるのではないでしょうか。「人は誰でも罪(つみ)人(びと)です。」などと言われると鼻白んで「自分は至らない欠点のある者だが罪人と言われたくはない。」と思う人のほうが多いと思います。「罪人(つみびと)」は「罪人(ざいにん)」とは違います。罪人(ざいにん)は犯罪者です。法律に違反したと裁判で判決された者が犯罪者です。犯罪者が「つみびと」とは限らないし罪人が「はんざいしゃ」とも限らない。両者は重なる部分があるが異なった範疇にあります。普通通常「罪人(つみびと)」とはどう解釈されるでしょうか。国語辞典を開くと次のように出ています。

デジタル大辞泉

1 道徳・法律などの社会規範に反する行為。「罪を犯す」

2 罰。1を犯したために受ける制裁。「罪に服する」「罪に問われる」

3 よくない結果に対する責任。「罪を他人にかぶせる」

4 宗教上の教義に背く行為。

        ㋐仏教で、仏法や戒律に背く行為。罪業 (ざいごう) 。

        ㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

       [形動]無慈悲なさま。残酷なさま。「罪なことをする」「罪な人」

 

新明解国語辞典

      道徳(宗教・法律)上してはならない行為。「-罪深い人間の子」

      道徳(宗教・法律)にそむいた不正行為に対する処罰

 

「デジタル大辞泉」の4 宗教上の教義に背く行為。――㋑キリスト教で、神の意志や愛に対する背反。

はキリスト教の立場から言えば妥当な定義だと言えるでしょう。

「罪」とはまず神に背くことです。

カトリック教会で権威のある教理書は次のように定義しています。

 

罪とは、「永遠の法に背くことばや行い、あるいは望み」です。神に対する侮辱です。キリストの従順とは反対に、不従順によって神に逆らい、高慢になることです。(『カトリック教会のカテキズム』557㌻)

 

「永遠の法」とは神の定めと考えられます。罪とは神に背くことです。ミサの開祭にあたり信者は『告白の祈り』をしますが、その中で言います。

「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。・・・・」

罪とは神に対する違反であります。そして同時に罪は神に対する侮辱であります。

 

紀元前1000年ころのイスラエルの英雄であるダビデは大きな罪を犯しました。それは姦通と殺人という重大な罪です。殺人はもちろん犯罪です。ダビデは預言者ナタンの叱責を受けて神への謝罪の祈りをささげました。その祈りが詩編51です。その中で彼は言っています。(1)

 

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し

御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく

あなたの裁きに誤りはありません。(詩編51・6)

 

ダビデは神である主に向かって「あなたに、あなたのみに罪を犯した」と言っているのです。この「あなたのみ」という言い方に注意したいです。

日本人の感覚から言えば、ダビデは、殺された姦通の相手の夫ウリヤの家族、親族、そして戦場の部下や兵士に対して謝罪すべきではないでしょうか。彼らは戦場で王の命令によって野宿しながら食うや食わずの悲惨な状態で、安心してやすむことのできない危険な日々を送っているのです。それなのに、当の命令を下した王の方はのんびりと昼寝をし、戦場の部下の妻を寝取り、さらに姦計を弄してその夫ある部下ウリヤをも殺害したのですから、到底許さるべき行為ではないのです。王は辞任どころが、殺人罪の刑罰を受けるべきです。しかしその王を裁く権威は神しかいないのが当時のイスラエルの社会の通念でした。あるいは場合によっては民が反乱を起こすことも在り得たでしょう。後にダビデの息子アブサロムが父王に謀反を起こしていますが、しかしその理由、原因はババト・シェバの事件には関係がないようです。

 

『カトリック教会のカテキズム』では、罪とは神に対する侮辱であると言っています。

そして神に対する侮辱が「冒瀆罪」と呼ばれます。イスラム教では特に厳しく罰せられている罪です。ところで、皮肉なことに神の御子、神に等しい方イエス自身が、冒瀆罪に問われて処刑されました。(マタイ2665、マルコ164、レビ2416参照) イエスの処刑の理由は冒瀆罪でした。

神に対する冒瀆罪という、この感覚をわたしたちは持っているだろうか。人間関係では、侮辱、その償い慰藉料、という感覚はあります。侮辱されると言う体験があり、また侮辱するということもしていることは理解します。ナザレのイエスは侮辱される受難に際して侮辱されると苦しみをつぶさに体験しています。しかし見えない神である父に向かってわたしたちは侮辱するという意識を持つことが難しいと言えましょう。ですから自分が神に加えた侮辱を償うという意識は持ちにくいわけです。聖アンセルムスの贖罪論の受け入れ難い理由もそのあたりにあると思います。(2)

 

わたしたちの罪責感は人と社会に対する意識です。それは人に対して「申し訳ない」とか「悪いことをした」という意識であるさらに「恥ずべきことをした」「するべきことをしなかった」という気持ちです。また世間に対して「お騒がしました」「ご心配をかけました」「迷惑をかけました」という意識であり、会社の責任者たちが記者会見でそろって頭を下げる場面がたびたび報道されています。日本の社会では、人からどう見られるかが問題であり、人に知られなければ話は別なのです。

 

2020年1025日、年間第30主日の福音朗読はマタイによる福音書(2234-40節)でした。

 

(そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

この福音は教えています。

目に見える兄弟を愛さない人がどうして目に見えない神を愛することができるか。神を愛するとは兄弟・隣人を愛するということであり、神の戒めを守ることであります。

 

旧約聖書には、神様が、イスラエルの民に与えた掟が記されております。神の掟は、いろいろな律法に、細かく分かれていました。

そこで律法の専門家がイエスに、「どの掟がもっとも大切か」という質問をしたところ、イエスはお答えになりました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。

さらにイエスは続けて言われました。

「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。

「神を愛すること」、そして、「隣人を愛すること」。このふたつには、切っても切れないつながりがあります。

そこで、わたくしの心に浮かんでくる、新約聖書の教えがあります。

「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。

「目に見える兄弟を愛さない、憎む者がいれば、それは、偽り者である」と、ヨハネの手紙が述べています。

「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、「兄弟を愛する」ということは、ひとつに結びついています。神様のお望み、それは、わたしたちが、互いに愛し合うということです。

主イエスは、弟子たちにお命じになりました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 

「愛」という言葉は、非常に多義的であり、その意味は曖昧ですがとりあえず、師とパウロの教えが想起されます。

それは、「愛の賛歌」と呼ばれています、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章、大変有名な教えです。「愛は忍耐強く」という言葉から始まっています。

数えてみると、15カ条が述べられています。

「愛」という言葉のギリシャ語のもとの言葉は「アガペー」という言葉です。この「アガペー」には15の項目が含まれていると、使徒パウロが教えています。この15のことを見てみますと、「忍耐」ということに関する教えが、非常に目立つ。最初に出てくる教えが、「愛は忍耐強く」という言葉です。

さらに、見ていきますと、「(愛は)いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてに耐える」とあります。

愛という言葉は、忍耐という言葉に深く関わっているようです。言い換えれば、恨んだり、怒ったり、憎んだりするという、人間の心の状態から解放されていることではないだろうか、と思います。

自分のことを振り返ってみますと、いろいろなことで、苛々したり、不快に感じたり、場合によっては、人を攻撃する、ということになります。あるいはそこまでは行かないまでも、陰で人の悪口を言う。そのようなわたしたちではないだろうか。

生きるということは大変なことで、人生とは、困難なものであります。「ストレスが多い。」

仏教では「四苦八苦」と言います。4つの苦しみ、8つの苦しみ、非常に、生きるということは大変なことです。苦しみが伴う。現代の言葉で言えば、ストレスが多い。この「ストレス」に、どのように立ち向かうか、あるいは、どのように発散するか、が課題です。ストレスを発散するために、近くにいる人に矛先を向けて、自分の不満や怒りを向けてしまうということが、ありはしないだろうか。

みな、欠点のある人間です。こちらが望むように、相手がしてくれるわけではない。「こうして欲しい。こうであるはずだ」と思っても、ほとんどの場合、そうは行きません。

家族関係、あるいは、仕事関係、あるいは、われわれの教会の中でもそうです。お互いに、多少とも、傷つけてしまう。あるいは、相手のことがよく分からない。分からないから、その人を温かく、赦し、受け入れるということが、なかなかできない現実が、あるのではないでしょうか。

分からなくとも、自分が望むようなことをしてくれなくとも、その人を大切にするということが、聖書の教える「愛」、「アガペー」です。

「(愛は)すべてに耐える」。

 

隣人を愛するとは、社会的に弱い立場に置かれている人々、寡婦と孤児、寄留の外国人を大切にするということであり、年間第30主日の第一朗読、出エジプト記がそのことを明確に述べています。2220-26節です。(注3

 

ところでわたしたちは神の愛に応えるためには神の愛を経験しなければなりません。このことについて、非常に心に響いて、良い言葉だと思う聖書の言葉はたくさんありますが、その中のひとつが、旧約聖書の続編にある、「知恵の書」にあります。

 

「あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し

あなたが呼び出されないのに存在するものが

果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

あなたはすべてをいとおしまれる」。(知恵1124-26

 

「わたしがこの世に存在するのは、神様のお望みによるのである。自分が、人と比べて、どんなに劣っていても、どんなに問題があっても、神様は、このわたしという存在を、愛おしく思ってくださる」。この信仰が大切ではないでしょうか。

 

日本は、非常に自殺者の多い国です。カトリック教会では、最近、自死という言葉を使っておりますが、自死する人が多い。毎年、年間3万人を超える人が自殺していましたが、最近、3万人を下回った。政府も一生懸命対策を立てて、努力した結果、自殺者は減っている。

しかし、青年の自殺は、相変わらず多い。若い世代の人の死因の第1位は自殺です。

(注4

 

自分の存在の意味が見いだせない、あるいは、よく分からない。現実の困難の中で、生きていくための動機が、非常に弱くなってしまう。そのような現実があるのではないでしょうか。

 

神は、あなたを大切な存在として造り、そして、いまも恵みをくださっています。それは、人間関係の中で培われます。まずは、家庭で、そして、友達の中で、大切であるということを、お互いに教え合い、そして、そのように行動することによって、人は、自分が大切な存在であると実感することができる。

「愛する」ということは、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」、そして、「自分を大切にすること」と結びついていないといけない。世界中に独りしかいない、このわたしを、神様は造ってくださった。そして、わたしに使命を与えてくださっている。失敗したり、嫌なことがあったりしても、自分自身をもう一度見て、そして、自分は大切な存在なのだという信仰を、新たにしたいものです。

そのためにも「神の愛」の再解釈と文化の福音化が必須です。前回第10回の「イサクの犠牲」の再解釈はそのために非常に大切であります。

 

日本の社会の無言の圧力と通念があります。人はその基準に合わないと感じると生きづらいと感じるのではないでしょうか。圧力とは世間の目のようなものです。無言で人を追い詰める全体主義支配・管理の力です。人はその圧力の中で自分の場を見いだせないと感じるのではないかと思う。その思いが自殺に通じる。自分自身に自信を持つこと、自分の価値信じることです。

 

あなたの価値を保証するものはあなたをこの世に送った存在です。

 

 

(注1) 詩編51

51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】

51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。

51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。

51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。

51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。

51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。

51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。

51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。

51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。

51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。

51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。

51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。

51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。

51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。

51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

サムエル記下

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。

12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。

12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。

12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」

12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。

12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」

12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、

12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。

12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。

12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。

12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」

12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。

12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。

12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。

12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

12:18 七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」

12:19 ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」

12:20 ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。

12:21 家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」

12:22 彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。

12:23 だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

 

(注2) 『神はなぜ人間になられたか」で以下のように彼は説明している。

アンセルムスの前には次のように説明されていた。

人間は罪を犯した結果、魂を悪魔に売り渡したことになった。神は御子キリストの命を賠償として支払うことによって人間を神から買い戻した。これを悪魔の権利説という。

アンセルムスはこの説を否定した。この説によれば、神と悪魔との関係は対等になるので神の絶対性に反する。そこで以下のように説明する。罪は神に対する無限の侮辱、栄誉の侵害である。神は慈愛によって一方的に人間を赦すことはできない。なぜならそれでは正義が回復しない。他方人間には負債を神に返す義務があるが有限の人間には無限の負債を神に返済することができない。そこで無限の神が人となって有限な人間となり、人間として無限の侮辱の罪を償うことにしたのである。無限の負債は無限の神であり同時に人間であるイエス・キリストによってしか償うことができない。人類の罪を償いために神は人となったのである。

『新カトリック大事典、アンセルムスの項より。』

 

(注3

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

(主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。

寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。

もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

 

(注4)以下の記事等が参考になります。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66433

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コメント

「『神を愛すること』そして『隣人を愛すること』。このふたつは切っても切れないつながりがあります。ひとつに結びついています」

「神はあなたを大切な存在として造り、今も恵みをくださっています。」

自分が大切な存在だと実感することができれば人は生きていけます。

神は目には見えません。
でも、日々の暮らしの中の、偶然の出会い、他者とのふとした触れ合いの中に、自分を支えてくれる何らかの力を感じることができる時、信じることができる時、人は生きる希望を持ち続けることができるのではないでしょうか。

逆に言えば、自分を支えてくれている存在が何も見えなくなってしまう時、支えてくれる力があることを信じられなくなる時、人は生きる希望を失ってしまうのではないでしょうか。

今の社会で、希望を失ってしまい、先の見えない苦しい状況に陥ってしまう可能性は誰にでもあります。
自分がこうして存在する事が、よしとされている、応援されている、と感じられるかどうか。信じられる、信じてみようと思えるかどうか。

私たちは、そこに神の存在を見るわけですが、それは、信仰があるとかないとか、関係なく、どんな小さな出会い、瞬間でも、大切なきっかけになりえるのではないでしょうか。

最近、あらためて、心に響いて繰り返し読んでいます。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ嗔ラズ
イツモシヅカニワラッテイル・・・

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニイレズニ
ヨクミキキシテワカリ
ソシテワスレズ・・・

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ・・・

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ・・・・

「福音宣教」とか「神から与えられた使命」といった気負いは
私にとっての躓きです。

そういうものに、わたしはなりたい。

「罪」というのは、神に背くこと。詩篇に残されている、神だけに必死にゆるしを求めたダビデのことばと神への強い信仰に心を動かされます。イエスは、「心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい」、さらに続けて、「隣人を自分のように愛しなさい」、と語りましたが、これは神の愛とも深くつながっている。わたしたちを「かけがえのない大切な存在」と考えてくださる「神の愛」に結びつくことがわかりました。「知恵の書」ではどんなに神がわたしたちを愛してくださっているかが語られていて感動します。
「神はあなたを大切な存在として造り、そして今も恵みをくださっています。それは人間関係の中で培われます。まずは家庭で、そして友達の中で、大切であるということをお互い教え合い、そしてそのように行動することによって人は、自分が大切な存在であると実感することができる。」、と導いていただき、躓きそうなときや、自信を失った時に、いつでも思い出すことのできる大切なお教えとして心に留めたいと思いました。
「愛は忍耐強い」という言葉は、パウロが繰り返し述べていると分かり、パウロの生涯とも結びついて心に残りました。

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