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2020年10月15日 (木)

「はかなさ」と「さびしさ」 悪についてその7

悪についての小考察その8

――「はかなさ」と「さびしさ」ついて

 

はかなさ

「悪」であるかどうかは別にして、人間がであう重要な問題の中に、人生の「はかなさと「さびしさ」という問題があります。仏教の深い洞察は「人生の諸行無常」という真理でした。キリスト教ではその点は何でしょうか。聖アウグスチヌスが言っています。

「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。(注1)

「はかない」とはどういうことでしょうか。キリスト教では、人は神の被造物です。神によって造られ神によって導かれ神のもとに招かれ神に向かって旅をしている「旅人」であります。「旅人である被造物性」。これは「はかなさ」に通うものがあるにせよ、同じではないでしょう。むしら「偶有性」のほうが人間存在を言い表すには適しているかもしれません、「偶有性」については小考察その6の注1で触れています。偶有性はラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じて来ないもの」と定義されています。なんともはかない感じの存在です。存在することは必然ではないがあってもよい、そういう存在なのでしょうか。いわば偶然の存在です。

キリスト者にとって「偶然」ということをどう考えたらよいのでしょうか。「偶然」は信仰と深くかかわります。この世界の存在、そして自分という者の存在。これらは偶然でしょうか。無ければならないものではないがあってもよい、というものでしょうか。

信仰者にとって自分の存在は神の意思によるのです。自分はあってもなくてもよいものではない。神の御心に従ってこの世に生まれてきたのです。たとえ悲惨な状況の中に生まれてきたとしても、それは神の御手の中にあるのです。しかし、極端な話、強姦によって身籠って生を受けて者があったとして、そのような生は神の祝福のうちに置かれているのでしょうか。あるいはいったん受胎しても堕胎によって抹殺された胎児も神の御心によって受胎されたのでしょうか。まさか、強姦、あるいは堕胎は神の御心にかなっているとは言わないでしょう。強姦、あるいは堕胎は「偶然」の出来事であり、神のあずかり知らないことなのか。

エレミヤ書で言われています。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」(15)

また詩編作者は言います。

わたしはあなたに感謝をささげる。

わたしは恐ろしい力によって

驚くべきものに造り上げられている。

御業がどんなに驚くべきものか

わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ

深い地の底で織りなされた。

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。(13914-16

聖書においては誰一人「あってもなくてもよいもの」ではありません。誰にも替わってもらえない唯一の存在、かけがえのない存在、ユニークな価値のある存在です。

但し、哲学の考察によってこの真理を論証できるでしょうか。いうまでもなく哲学は啓示を援用できない、啓示を論拠にはできないのです。あくまでも人間理性の考察により結論でなければならないのです。かけがえのない価値の根拠に神を持ち出すことは哲学者の禁じ手ではないでしょうか。

 

偶然性

さて、この偶然性ということを哲学の重要な課題として取り上げた人が『いきの構造』の作者である九鬼周造でした。(『偶然性の問題』(1935年、岩波書店)。彼は偶然とは何か、について非常に緻密な考察を展開しています。彼は「偶然性」に、ラテン語のcontingentiaを当てています。つまり「偶然性」は「偶有性」であります。

それでは、九鬼周造による「偶然性」とはいかなる意味かを、九鬼周造研究者の説明に従って学んで行きます。

九鬼周造は本書の序説で次のように述べています。

偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。即ち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然(し)か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を持っていないことである。即ち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根差している状態、無が有を侵している形象である。(同書、13㌻。)

 

冒頭のことことばは本書のまとめであり結論でもあります。九鬼周造の研究者、田中文久氏は次のように言っています。

「九鬼周造によれば、人間は本質的に「偶然性」というものに貫かれた存在であるという。」そして、九鬼は「偶然性」の本質は「無」であるとしています。九鬼にとって「無」とは「同一性」の裂け目としての「無」において成立する、という。「同一性」の裂け目とは、分裂や対立を意味しています。(同書119-120㌻。)

九鬼周三の著書『偶然性の問題』は、人生とは如何に偶然性に満ちたものであるかを説きます。人間は自ら選び取れない状況の中で生まれ日々その中で生きて行かなければならない。人生で遭遇する出来事は不条理で無意味なものに満ちている。偶然性が人生の営みを無化する。九鬼周造は『偶然性の問題』の中で言っています。

「偶然は無概念的である。無関連的である。無法的、無秩序、無頓着、無関心である。偶然には目的がない。意図が無い。ゆかりが無い。偶然はあてにならない。」

このように「無い、無い尽くし」を並べており、田中文久『日本の「哲学」を読み解く』によれば、九鬼周造の哲学はまさに「無」の哲学であります。

さて、さらに筆者は、〈「個物」の抱える「偶然性」〉という見出しのもとで論議を展開しています。(同書134㌻以下。)

ライプニッツが言っているそうですが、宇宙には完全に同じものは存在しない。同じ雨粒はない。すべての事物は何らかの意味で孤立性や例外性を持っている、と言います。そしてこの孤立性や例外性を最も切実に自覚するのが人間である、と言います。

 

しかしここで筆者(岡田)が理解しがたいと思うのは、どうして、人間の個物性(個人性)を自覚することがマイナスになるのか、ということです。これは、同じ人間でありながら、一人ひとりの人間が負わされている「偶然性」を否定的に解釈するが故の評価ではないでしょうか。人間には個人差があります。健康な人、病気の人、富んだ人、貧しい人、賢い人、愚かな人、頭のよい人、悪い人、美しい人、醜い人、明るい人、暗い人、敬虔な人、冒瀆的な人、親切な人、勝手な人…など(切りがありませんが)、この個人差は場合によっては個性と呼べるものであり、その人をその人たらしめている特徴であります。四葉のクローバーが例外であるように、人間にも例外がある、という論議でしょうか。障がい者の存在はこの例外に該当するのでしょうか。障がい者は人間の一般概念から漏れる「偶然性」をもった例外であるのでしょうか。第7章で紹介した「世界に一つだけの花」というSMAPのうたで言っている「ただ一つしかない存在」の価値を貶めることにはならないでしょうか。

「くせに」という言葉があります。「女のくせに」などという表現に使われ、差別を意味する言い方になっています。「くせ毛」などと言いますが、本来の有るべき毛があって、くせ毛はその基準に該当しなし毛であるという言い方ではないでしょうか。

「偶然性」という言葉の意味が「個別性」「例外性」と結びき、それが否定的差別的な意味に結び付くことに大きな懸念をおぼえます。

人間はそれぞれ個別な存在であり、これ以上分解できない個人であり、そこに不可譲かつ不代替の価値を認めるのです。

この問題を鋭く意識して論じている哲学者がいます。(注2) それは宮野真生子氏で、宮野氏は、「である」と「「がある」の違いと意味を通してこの問題を論じています。「である」は普遍性・一般概念を表わし、「がある」は「個別性・偶然性」を表していると宮野氏は分析します。人は誰でも「〇〇××さん」であり、「人」さんという人はいません。まず人間であって次に具体的に誰それという在り方を取るわけです。もし「わたしは教師である」として、教師である自分が、他の教師でもよい存在になってしまうということを感じることがあります。つまり「別にこれはわたしでなくともよいのではないか」という交換可能性の問題です。実際多くの職務は、たぶんすべて職務というべきでしょうか、交代が可能です。AさんのしていたことはAさんにしかできない、ということはありません。もしそうなら組織は継続しないし社会が成り立たなくなります。首相が辞任すれば後継者が任命されます。司教が辞めれば次の人が司教に任命されます。組織は何の支障なく存続します。大切なのは普遍性を維持しながら唯一性を尊重することです。これは個人の間でも団体の間でも国家の間でも適用される法則ではないでしょうか。

 

三つの偶然性

さて、九鬼周造は偶然の諸相として「定言的偶然」「仮説的偶然」「隣接的偶然」の三つの

様態に分けています。(以下、『偶然性の問題』の解説(小浜善信)によるところが多い。)

「定言的偶然」とは、定言的必然性の外に枠にある偶然の場合を言います。例えば「人間は理性的動物である」という命題のように、主語概念と述語概念との間に同一性の関係、必然的な関係があります。しかし、「人間は黄色である」という命題の場合、人間は必ずしも黄色であるわけではないので、黄色であるという属性は偶然であります。しかし皮膚の色の違いの場合、その違いを説明できる原因があって説明できる場合は皮膚の色の違いは偶然ではない、ということになります。

「仮現的偶然」とはどういう場合の偶然か。

「クローバーのなかには四葉がある。」「ある人々は黄色である。」と言った場合、クローバーにとって四葉であること、人類にとって黄色であることは、その概念から必然的ではありませんので、「四つ葉」「黄色」は偶然となります。しかし個物を、「この」という限定の言葉が着く「この四葉のクローバー」や「この黄色の人間」、つまり「具体的個物そのものとして見れば、個のクローバーにとって四葉であること、この人間にとって黄色であることは、無くても良いもの、切り離して考えられる属性ではなく、むしろそれらは不可分の関係を持って結びついています。論理的次元では偶然的な関係しか持たないと見做される属性も、具体的・経験的次元では不可分の関係を持って主体(個物)に属しているのです。これらの偶有が個物をその個物たらしめているのです。

それでは「隣接的偶然」とは何か。

隣接とは隣り合って存在すること。XYZ、・・・などが隣り合って存在している場合に,偶々Xとなっていて、Yでもなく、Zでもない場合に言われる偶然です。敷衍すれば、物事には原因と理由があると考えます。有限の存在である人間には分からないが、全能の存在が見れば、そのような結果が生じている原因あるいは理由が見通しであるとします。例えば、なぜこの「私」が地上に生を受けたか。それは父・母がいるからである。その父母はどのようにして知り合い結婚したのか。聞いてみればわかることでしょう。それではそれぞれの父母のそのまた父母はどうして結婚したのか。これもある程度わかるかもしれません。しかしそれ以前のそれぞれの両親のことになると事情を知ることは難しくなります。それはともかく、どんどん先祖に遡及していくとその最初はどうであったか、という問題に遭遇します。それは生命の始まりということになるのでしょうか。どのようにして生命が発生したのか。科学はその点を実証しようとしています。この議論は無限遡及に陥ります。九鬼周造はその、因果律の始まりを「原始偶然」となずけました。「はじめに原始遡及があった。」ということです。この原始遡及の主体は自らのうちにその存在の根拠を持つものでなければなりません。それは絶対者であり、自因性の存在であり不動の動者と言われる神であります。九鬼周造は「神」という言い方は避けています。原始偶然は因果律の届かない世界にいます。次のように言われています。

「原始偶然は絶対者の中にある他在である。絶対的形而上的必然を心的実在と考え、原始偶然を世界の端初または墜落(Zufall=abfall)と考えることの可能性もここに起因している。絶対的必然は絶対者の静的側面であり、原始偶然は動的側面であると考えて差し支えない。(本書261262㌻より。)

 

わたしという存在は結局原始偶然に遡り、原始偶然は絶対者の動的側面であり、それは絶対者の働きであります。九鬼周造は晩年次のように述懐したと伝えられています。

「…やがて私の父も死に、母も死んだ。(中略) 思い出のすべては美しい。明かりも美しい。陰も美しい。誰も悪いのではない。すべてが死のように美しい。」(『偶然性の問題』の解説(小浜善信)441㌻よりの引用。)

 

「九鬼が言いたいのは、偶然した実存としてのわれわれと他者・世界との出会いの中で、無意味に過ぎ去るものは何一つないのだということだろう。・・・すべてが意味あるものとして立ち現れるか、それとも無意味なものとして過ぎ去るか、それはひとえに偶然した実存としての主体の意志に懸かっているということであろう。」(小浜善信、同書440㌻。)

 

ここで再確認したいことは、本原稿執筆の動機と目的です。それは日本における福福音を宣べ伝え証し実践するか、ということです。

 

「いき」とは

『「いき」の構造』の「いき」とは何か。『広辞苑』第七版によると次のようになります。

いき【粋】(「意気」から転じた語)①気持ちや身なりがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること。②人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること。また、遊里・遊興のこと。

他の辞典も大同小異の説明です。『「いき」の構造』は、この辞典の説明とは矛盾しないが、日本民族としての「いき」の理解をさらに哲学的に深く分析し、さらに「いき」に周辺にある関係の深い概念である上品と下品、派手と地味、甘味と渋味、意気と野暮などの分析を行っています。さらに言葉遣い、姿勢、身振り、表情、着付け、髪形、着物の色彩や模様、建物の造作等、人々の生活と文化全般に及ぶ課題として詳しい言及をしており、その薀蓄の深さに驚かされます。

九鬼は「いき」の三つの徴表として、「媚態」「意気地」「諦め」を挙げ、「いき」」とは「垢ぬけして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義しています。(『いき』の構造)講談社学術文庫、51㌻) この定義は分かりやすい説明です。九鬼はこの内容をさらに深く説明します。

三つの徴表のなかで「媚態」が原本的な存在を形成しています。これは要するに異性との関係にかかわる特徴です。色っぽさとは「なまめかしさ」「つやぽっさ「「色気」などの言葉と重なる内容であり、九鬼はこのことを哲学的に次のように表現しています。

「一元的な自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」(同書、39㌻)

この場合、「上品」とは両立しない。上品には敢えて異性に働きかける態度が欠落しているはずです。また一元的な自己が実現した時、つまり相手へのアプローチが功を征してお身を遂げた時には、この「媚態」は消滅する運命にあります。故に「媚態」とは異性間の二元的動的可能性が可能性のまま絶対的に維持されていなければならないのです。

次いで第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」です。「意気地」には江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている、と言います。(同書、41-42㌻。)「いき」には「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品気格が無ければならないと言います。「意気」の対極にあるのが「野暮」であり、江戸っ子が軽蔑して生き方でした。(同書、41-41㌻参照。)

第三の徴表が「諦め」。執着を離脱した、垢抜けして、あっさち、すっきる、瀟洒たる心持ちをいう。「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻) この「諦め」はおそらく仏教の人生観、無常と解脱の教えを背景にしているだろうと思われます。

「媚態」と「意気地」と「諦め」の三者のバランスの上に「いき」が成立しています。これは非常に危ういバランスです。「媚態」は異性を求めるといういわば本能的な欲求に基づいています。人は特定の異性を自分の方へ向かわせるために秘術を尽くす。その際、自分の自主性と誇りを忘れてはならない。自分を失うほど夢中になってはならないのです。さらに相手の自由を尊重しなければならないのです。人は他者を自由にはできないものです。「媚態」と言わずとも、他者を自分の思い通りにしたいという思いの集合が仏教のいうとことの煩悩であります。「諦め」は煩悩にストップをかけるストッパーの機能を果たします。

人が異性を想うこと自体を否定しないどころかむしろ評価します。その際、「意気地」と「諦め」という付帯条件が付きます。

恋と媚態はその始まりにおいて異性を慕いもとめるという点において共通しています。ですから、「いき」はたやすく「恋」に転ぶことができます。「いき」の場所である吉原でさえ、遊女がひそかに恋人をつくり、心中に追いつめられるという事件が起きています。そのような危険をさけるための「意気地」と「諦め」でした。それは繰り返しになりますが、「『いき』のうちの『諦め』したがって「無関心」は、世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡(てんたん)無碍(むげ)の心である。」(同書、45㌻)のであります。しかし、宮野真生子氏が指摘していることですが、問題は残ります。それは、なかなか人はいったん心に入れた異性の相手を諦めきれないものであり、またそれでもなお人を想い求める心はなくなるものではないだろう、それは何故だろうか、という問題です。

なお、「いき」は遊里を背景にして発達した人間関係の在り方です。遊離は「苦界」と呼ばれます。だましたりだまされたりする世界で在り「傾城に誠なし」と言います。「遊女が客に誠意をもって接するはずがない。遊女の言うことを信頼できない。」という意味ですが、それではあまりに寂しい。人間の真実の美しさへのあこがれが人にはいつも残っています。この問題に関して参考になるかもしれない例話、苦界である吉原を舞台にした落語の例が残っていますので参考までに紹介します。落語のなかには遊里を背景にしたものがいくつかあり、醜い欲望の世界が垣間見られますが、そのなかに、いわば泥沼の蓮の花のような清々しい落語が伝えられています。(注3)

 

「エロース」について

カトリック教会では求める愛「エロース」についてどう考えているのでしょうか。ここでは優れた神学者であった先の教皇ベネディクト十六世の考え方の一端を紹介します。(以下、教皇ベネディクト十六世、回勅『神は愛』、8-40㌻による。)

「愛」ということばは様々な意味を持っています。愛国心、友への愛、両親と子ども愛、隣人愛、神への愛などと言いますが、一つの意味が際立って使われます。それは男女の間の愛です。

これらの愛は基本的には一つであって、それぞれの場面で様々な現れ方をしているのであり、愛は究極的にはただ一つであると言えないでしょうか。あるいはそれぞれ質的に根本的な相違をもっているのでしょうか。神の愛アガペーと男女に愛エロースはどんな関係にあるのでしょうか。

確かに新約聖書ではアガペーという言葉が使われており、エロースという言葉の使用は皆無です。キリスト教は「エロース」に対して否定的であると思われていました。フリードリヒ・ニーチェは厳しくキリスト教を批判し、キリスト教は「エロース」に毒を飲ませ、教会は掟と禁令を通して、人生におけるもっとも貴重な事柄を台無しにした、と言って今師。しかしキリスト教は本当に「エロース」を破壊したのでしょうか。ベネディクト十六世はそうではない、と言っています。

キリスト教以前の世界のギリシャにおいては、「エロース」は人間を有限な人生の現実から引き離し、陶酔状態に引き上げ、エクスタシーの幸福を与えてくれる神的な力であると考えられました。旧約聖書では、神殿娼婦などに見られた歪んだ破壊的な形の「エロース」には反対していますが、「エロース。」そのものを拒絶することはありませんでした。

「エロース」という愛は人を永遠で無限の幸福へ、現実を超えた光と喜びの世界へと招いています。ただし、その目的地に到達するためには自己抑制、自己放棄、浄めと成熟が必要です。それは「エロース」自体を否定することではありません。それは人間が身体と精神からなる存在であることに基づいています。人間が真の意味で自分自身となることが出来るのは、自分の身体と精神が緊密に一致しているときです。人間は、精神だけを愛するのでもないし、身体だけをあいするのでもありません。身体と精神の結合した被造物である人間、人格を愛するのです。身体と精神が本当に意味で一致した時人は初めて完全に自分自身となり、その時「エロース」は成熟し、真の意味で偉大なものとなります。そうなるために、「エロース」は上昇と自己放棄、浄めと癒しの道を必要としています。

そのための示唆を旧約聖書に雅歌に見出します。雅歌は本来恋愛の歌だったと考えられます。なぜ聖書の正典として認められているのでしょうか。

雅歌では「愛」をあらわすために二つのヘブライ語がつかわれています。一つは「ドディム」です。これは、まだ不確かな、はっきりしない状態で求める愛を意味します。つで「アハバー」ということばが用いられています。「アハバー」がギリシャ語に訳される時に「アガペー」となりました。「アハバー」は他者への関心と配慮を意味しています。自分の幸福に酔いしれるのではなく、自分が愛する者の善を求めています。愛は自己放棄となり犠牲を厭いません。この愛は特定の人を排他的に愛するとともに、神へと向かう永遠の愛を目指すようになります。愛は自己を献げることを通して真の自己の発見へ、神との出会いへと導かれます。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。(ルカ1733)(マタイ10391625、マルコ835、ルカ924、ヨハネ1225参照。) ここに十字架を経て復活に至る過ぎ越しの神秘が示されています。

世俗的な愛である「エロース」と信仰による愛を表す「アガペー」はしばしば「求める愛」と「与える愛」というように対立的に考えられました。「エロース」を欲望の愛、非キリスト教的な愛であり、「アガペー」を与える愛、キリスト教的愛であるとして、この両者を極端に対立させると、キリスト教は人間の生活と現実に無縁なものに成りかねません。実際のところ、人はこの二つの愛を全く別な愛として分離することは出来ません。人は他者の幸福を求めるとき次第に自分自身を相手に与え、相手と共にいたいと望み、相手に自己のすべを献げたいと強く望みます。求める愛は与える愛に変えられます。しかし他方、相手に与えるためには、与えられなければ与える力が萎えてしまいます。求めることと与えることの間の境界は非常に流動的です。

人を愛する力は神から来ます。聖グレゴリオが言っているように、牧者たるものは人を愛するためには自分が愛されていることを知り確かめなければならないのです。それは観想の道であります。

イスラエルの民に自らをあらわした神は存在するもの全ても者の創造主であり唯一の神です。この神はイスラルに愛することを求める神です。この愛は「エロース」の愛でであります。しかし同時に「アガペー」の愛です。神はイスラエルの幸福を望み、真の意味で人として正しい道を歩むように導き、そのためにイスラエルに掟を与え、イスラエルと契約を結びます。この神とイスラエルとの関係は男女の愛の関係にたとえられます。しかしイスラエルはしばしば神との契約を破ります。それでも神はイスラエルを愛することをやめません。神は背信のイスラエルを愛し裏切りを赦します。神の愛「アガペ―」は赦す愛として示されます。預言者ホセアはこの神の愛をいわば絶叫のような表現で伝えているのです。

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

(ホセア118-9)

ここには激しく葛藤する神の心が如実に表現されています。神はギリシャ哲学では「不動の動者」と呼ばれており、神が人間の態度のゆえに心を動かし苦しみ葛藤することは、「絶対者」という概念の中には含まれてはいないのです。しかしここでは非常に人間的な神の姿が描かれています。神は悲しみ怒りますが赦します。神が人間の罪ゆえに心に痛みを抱くという啓示に基づいて日本人の神学者北森喜蔵は『神の痛みの神学』を創出したのでした。(注4)

 

神になかに「エロース」の愛と「アガペ―」の愛があり、両者は一つに融合しています。「エロース」と「アガペ―」は愛のそれぞれの面を示している、といえます。あるいは「アガペー」ということばのなかに「エロース」の面が含まれているといえないでしょうか。雅歌が聖書正典に加えられたのはこのような根拠があったからでした。愛は一致を目指します。神と人間は、それぞれ自分自身でありながら完全に一つとなる事ができると聖書は教えます。

神は人間を男と女に創造しました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記224) 男女が互いに惹かれ合い求めあうのは神の創造に結果であり、人間の本性に基づいています。そのような人間の本性は絶えずエゴイズムの危険に瀕しています。互いに求めあう愛は自らすすんで与える愛とならなければならないのです。本性上惹かれ合う相手にだけではなく、人間の偶有的属性を超え、自分を必要とするすべての人の隣人となるよう招かれています。その道は受肉した神の愛であるナザレのイエスが生涯をかけて自ら実行してその基準をしめしました。「アガペ―」の愛は、飢えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に拘束されている人に及びます。(マタイ福音2531-41参照) 飢え渇き裸であるなどの偶有的状態にある人々のなかにかけがえのなさという価値が隠されています。そのような人にしたのはイエス・キリストにしたのであり、しなかったのはイエス・キリストにしなかったことになるとイエスは言っているのです。一人ひとりの偶有性に絶対的な意味と価値を与えるのは、キリスト者にとって、受肉した愛であり神であるナザレのイエスにほかなりません。このに「エロース」と「アガペ―」の融合と一致をみることができるのではないでしょうか。

 

  1. 聖アウグスチヌスについては教皇ベネディクト十六世の126回目の一般謁見演説 聖アウグスチヌス(三)が非常に有益ですので以下に長い引用をします。

親愛なる友人の皆様。

 キリスト教一致祈祷週間の後、今日わたしたちは偉大な人物である聖アウグスチヌスに戻ります。わたしの敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世は、アウグスチヌスの回心1600周年である1986年に、使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』という、アウグスチヌスに関する長く詳細な文書を発布しました。教皇自身、この文書が「神への感謝」だと述べます。この感謝は「神がアウグスチヌスのすばらしい回心をもって、教会に向けてまた教会を通して、全人類に与えられた恵み」(使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』序文)のゆえにささげられます。わたしは回心というテーマに別の謁見で戻ります。回心は、アウグスチヌス個人の生涯にとってだけでなく、わたしたちの生涯にとっても根本的なテーマです。先日の主日の福音の中で、主ご自身がご自分の宣教を「悔い改めよ」(マタイ417)ということばでまとめました。わたしたちは聖アウグスチヌスの歩みをたどることによって、回心とはいかなることであるかを考察することができます。回心ははっきりとした決定的なことがらです。しかし、わたしたちはこの根本的な決断を成長させなければなりません。すなわち、わたしたちの生涯全体を通してそれを実現しなければなりません。

 しかし、今日の講話は信仰と理性というテーマを扱います。これは聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマの一つです。さらにいえば、これこそが聖アウグスチヌスの生涯を決定づけるテーマだといえます。アウグスチヌスは幼いときから母モニカからカトリック信仰を学びました。しかし彼は青年時代になるとこの信仰から離れました。彼はこの信仰を理性にかなったものと認めることができなかったからです。また彼は、自分にとって理性すなわち真理を表現していないと思われる宗教を望まなかったからです。アウグスチヌスの真理への渇望は徹底的なものでした。それゆえ、この渇望がアウグスチヌスをカトリック信仰から遠ざけることになりました。けれどもアウグスチヌスはその徹底的な性格により、真理そのものに到達しておらず、したがって神に到達していないさまざまな哲学を受け入れることもできませんでした。神は、たんなる宇宙の究極的な理念ではなく、真の神でなければなりません。いのちを与え、わたしたちの人生の中に入ってくる神でなければなりません。それゆえ聖アウグスチヌスの知的・霊的な歩みの全体は、現代にも通用する、信仰と理性の関係における模範となります。このテーマは信仰者のものだけでなく、真理を求めるすべての人のテーマです。それはすべての人の判断と運命にとって中心的なテーマなのです。わたしたちはこの信仰と理性という2つの領域を、分離させても、対立させてもいけません。むしろ両者を常に同時に歩ませなければなりません。回心の後にアウグスチヌス自身が述べているように、信仰と理性は「わたしたちを認識へと導く二つの強い力」(『アカデミア派駁論』:Contra Academicos III, 20, 43)です。そのためアウグスチヌスの有名な二つの定式(『説教集』:Sermones 43, 9)はこの信仰と理性の不可分の統合を表現します。すなわち、「理解するために信じなさい(crede ut intelligas)」――信仰は真理への扉を通る道を開くからです――。しかし同時に、これと切り離すことができないのがこれです。「信じるために理解しなさい(intellige ut credas)」。すなわち、神を見いだし、信じることができるようになるために真理を究めなさい。

 アウグスチヌスの二つのことばは、2つの問題の統合をきわめて直接に、またこの上なく深いしかたで表現しています。カトリック教会はこの統合のうちに自らの道を見いだしてきました。歴史的にいえば、このような統合は、すでにキリストの到来以前から、ヘレニズム化したユダヤ教におけるユダヤ教信仰とギリシア思想の出会いによって行われました。その後、歴史の中で、この統合は多くのキリスト教思想家によって受け入れられ、発展させられました。信仰と理性の一致は、何よりも神が遠くにおられるかたではないことを意味します。神はわたしたちの理性、わたしたちの生活から離れたところにいるかたではありません。神は人間の近くにおられます。わたしたちの心の近くにおられます。わたしたちの理性の近くにおられます。しかしそのためにわたしたちは真実に道を歩まなければなりません。

 アウグスチヌスは、まさにこのように神が人間の近くにおられるということをきわめて強烈に体験しました。神は深く神秘的なしかたで人間のうちにおられます。しかしわたしたちはこのことを自らの内面においてあらためて認識し、見いださなければなりません。回心者アウグスチヌスはいいます。「外に出て行くな。あなた自身の中に帰れ。真理は内的人間に住んでいる。そして、あなたの本性が可変的であることを見いだすなら、あなた自身をも超えなさい。しかし、記憶しなさい、あなたが超えてゆくときには理性的魂をもあなたが超えてゆくことを。それゆえ、理性の光そのものが点火されるそのところへと、向かって行きなさい」(『真の宗教』:De vera religione 39, 72〔茂泉昭男訳、『アウグスチヌス著作集2』教文館、1979年、359360頁〕)。アウグスチヌス自身、このことを『告白』冒頭の有名なことばで強調しています。『告白』は神への賛美のために書かれたアウグスチヌスの霊的自伝です。「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』:Confessiones I, 1, 1〔山田晶訳、『世界の名著14』中央公論社、1968年、59頁〕)。

 ですから、神から離れているとは、自分自身から離れていることにほかなりません。アウグスチヌスは直接神に向かっていいます(『告白』:Confessiones III, 6, 11)。「あなたは、わたしのもっとも内なるところよりももっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました(interior intimo meo et superior summo meo)」(前掲山田晶訳、116117頁)。別の箇所で、アウグスチヌスは回心前の時期を思い起こしながらさらにいいます。「たしかに御身はわたしの眼前にましました。しかるにわたしは、自分自身からはなれさり、自分を見いだしていなかった。まして御身を見いだすことなどは、思いもよらなかった・・・・」(『告白』:Confessiones V, 2, 2〔前掲山田晶訳、160頁〕)。アウグスチヌスは自らこの知的・霊的旅路を歩んだからこそ、自らの著作の中で、直接に、深く、知恵をもってそれを表現することができました。アウグスチヌスは『告白』の別の2つの有名な箇所で(『告白』:Confessiones IV, 4, 9; 14, 22)、人間が「大きな謎(magna quaestio)」(前掲山田晶訳、138頁)であり、「大きな深淵(grande profundum)」(同150頁)であることを認めます。すなわち人間は、キリストのみが照らし、救うことのできる謎であり、深淵です。このことは重要です。神から離れた人間は、自分自身からも離れ、自分自身から疎外されています。だから彼は、神と出会うことによって初めて自分を見いだすことができます。このようにして彼は自分自身に、すなわち真の自分、真の自分のあり方へと導かれます。

 アウグスチヌスが後に『神の国』(De civitate Dei XII, 28)の中で強調するように、人間は本性的に社会的な存在ですが、悪徳によって反社会的なものとなっています。人間を救うことができるのはキリストだけです。キリストは神と人類の間の唯一の仲介者であり、「自由と救いをもたらす普遍的な道」(『ヒッポのアウグスチヌス』21)です。わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が繰り返して述べたとおりです。同じ著作の中でアウグスチヌスはまたいいます。人類に与えられたこの普遍的な道を通ることなしに「誰も救われたことはなく、誰も救われることはなく、誰も救われるだろうこともないのである」(『神の国』:De civitate Dei X, 32, 2〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスチヌス著作集12』教文館、1982年、382頁〕)。救いのための唯一の仲介者であるキリストは、教会の頭(かしら)であり、教会と神秘的なしかたで結ばれています。だからアウグスチヌスはいいます。「わたしたちはキリストとなったのである。彼が頭であれば、わたしたちは肢体であり、彼とわたしたちとは『全き一人の人』なのである」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 21, 8〔泉治典・水落健治訳、『アウグスチヌス著作集23』教文館、1993年、381頁〕)。

 神の民は神の家です。それゆえ、アウグスチヌスの考えでは、教会は「キリストのからだ」という思想と密接に関連づけられます。この「キリストのからだ」という思想は、キリストの観点から見た旧約聖書の新たな読み方と、聖体を中心とした秘跡の生活に基づきます。主は聖体によってわたしたちにご自身のからだを与え、わたしたちをご自身のからだへと造り変えてくださるからです。ですから根本的なことはこれです。社会的な意味ではなくキリスト的な意味で神の民である教会は、まことにキリストと一つに結ばれています。アウグスチヌスがきわめて美しいことばで述べるように、「キリストはわたしたちのために祈り、わたしたちの内で祈っておられるとともに、わたしたちもわたしたちの神であるキリストに祈っている。キリストはわたしたちの祭司としてわたしたちのために祈り、わたしたちの頭としてわたしたちの内で祈り、わたしたちはわたしたちの神であるこのかたに祈っている。それゆえわたしたちはキリストの内にわたしたちの声を認め、わたしたちの内にキリストの声を認めるのである」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 85, 1)。

 使徒的書簡『ヒッポのアウグスチヌス』の終わりに、ヨハネ・パウロ二世は聖アウグスチヌスに対して、現代の人々に何を語っているかを尋ねます。そしてヨハネ・パウロ二世は、何よりもアウグスチヌスが回心の直後に書いた手紙の中で述べたことばでこたえます。「人間は真理を見いだすことへの希望へと導かれなければならないと、わたしは思います」(『書簡集』:Epistulae 1, 1)。この真理とは、まことの神であるキリスト自身です。『告白』のもっとも美しく、またもっとも有名な祈りの一つは(『告白』:Confessiones X, 27, 38)、このキリストにささげられます。

 「古くして新しき美よ、おそかりしかな、

 御身を愛することのあまりにもおそかりし。

 御身は内にありしにわれ外にあり、

 むなしく御身を外に追いもとめいたり。

 御身に造られしみめよきものにいざなわれ、

 堕(お)ちゆきつつわが姿醜くなれり。

 御身はわれとともにいたまいし、

 されどわれ、御身とともにいず。 

 御身によらざれば虚無なるものにとらえられ、

 わが心御身を遠くはなれたり。

 御身は呼ばわりさらに声高くさけびたまいて、

 わが聾(ろう)せし耳をつらぬけり。

 ほのかに光りさらにまぶしく輝きて、

 わが盲目の闇をはらいたり。

 御身のよき香りをすいたれば、

 わが心は御身をもとめてあえぐ。

 御身のよき味を味わいたれば、

 わが心は御身をもとめて飢え渇く。

 御身はわれにふれたまいたれば、

 御身の平和をもとめてわが心は燃ゆるなり」(前掲山田晶訳、365366頁)。

 ご覧のように、アウグスチヌスは神と出会い、その全生涯を通じてこの出会いを体験し続けました。こうしてこの現実――それは何よりもまずイエスという人格との出会いでした――はアウグスチヌスの人生を変えました。イエスと出会う恵みを与えられたあらゆる時代の人々の人生を変えたのと同じように。祈りたいと思います。主がこの恵みをわたしたちにも与え、そこから、わたしたちが主の平和を見いだすことができますように。

 

(注2) 宮野真生子氏は、『日常・間柄・偶然』(九鬼周造と和辻哲郎)、現代思想、『九鬼周造』(青土社)所載、でこの問題を詳細に論じており、非常に的確な分析を行っています。是非参照ください。以下にはこの論文からほんの一部を引用します。

九鬼によれば、「実存の意味を明確にするためには、一方に普遍的抽象を対し、他方に生命に対して、実存の限界を立てることが肝要」である。普遍的抽象とは、「人間とは理性的存在「である」というような一般化を指す。これにたいし、実存は、意志を持って「わたしは~である」と行為することで、「私がある」ことの意味を作り出したところに成立する。いわば九鬼の考える実存は、「がある」を起点として、その手前には人間を一般化する抽象的な「である」があり、その先には、人間の行為を規定する和辻的な間柄の「である」が控える所で可能となるものである。(宮野真生子『日常・間柄・偶然』、97㌻より引用。)

(注3)

「紺屋高尾」という落語があります。YouTubeで鑑賞可能です。あらすじは以下の通り。

神田にある紺屋に勤めている染物職人、久蔵の物語です。11歳の子どものときから奉公して、遊び一つ知らず、まじめ一途に働く。何時の元気なその久蔵が、なぜか患って寝込んでしまっている。心配になった親方が竹内蘭石という医師に診てもらったところ、「恋患い」であることが判明した。いやいやながら吉原に行った時高尾太夫の「花魁道中」を初めて目にして以来、高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、何も手が使い病人になり、高尾太夫の錦絵を布団の下に敷いて寝込んでいました。そこで親方は久蔵が何とかして高尾太夫に会えるようにしてあげようと考える。高尾を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金の三年分でも足りない。不足分は自分が足してやるから三年間しっかり働いていためるようにと励ます。三年たったところで九両がたまった。親方は自分が一両足してあげて、医師の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てる。いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれない。そこで、久蔵さんを流山のお大尽に仕立てて、医師はその取り巻きということで一芝居打ちましょうということになる。竹内医師は「下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『あいよ、あいよ』で通してください」と久蔵さんを指導。帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出るとなんと偶然その日に限って予約がキャンセル、高尾に空きができた。

やがて夢のようなご対面が実現した。高尾太夫が煙管で煙草を一服つけると「お大尽、一服のみなんし」と言ってくれる。花魁が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。

「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度といったらまた三年後。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。

大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。純真な久蔵に高尾は多いに感動して言った。

「源・平・藤・橘の四姓の人と、お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人だろう。自分は来年の二月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますか」言われ、久蔵、感激のあまり泣きだした。

金をそっくり返され、夢うつつのまま神田に帰ってきた久蔵は、それから前にも増して物凄いペースで働き出した。

「来年の二月十五日…あの高尾がお嫁さんにやってくる」、それだけを信じて。

「花魁の言葉なんか信じるな」なんていう仲間の苦言も何のその、執念で働き通していよいよ二月十五日が到来。お籠に載った高尾がやってきたのでした。親方が仲人になって久蔵と高尾太夫は夫婦となったという物語です。

 

(注4) 北森喜蔵師は有名な著書『神の痛みの神学』を著しました。神が痛みを覚えたり、悲しんだりということはギリシャ人の考える神では考えられません。神にはありえないことです。神は完全な存在であり、悲しんだり、怒ったりするというのは、足りない点とか、満たされないことがあるからそうなるので、神はいつも満たされておりますので、怒ったり、悲しんだりするはずないと考えるわけですが、聖書の神はそうではない。わたしたちのために、怒ったり、悲しんだりする、心に強い、激しい痛みを覚える、そういう神様であるということをわたしたちに告げております。カトリックの聖心の信心は、そのような聖書の神理解を更に具体化したものであると言えましょう。一時、大変多くの人に受け入れられ、聖心という名前を付けた修道会や学校などが多数造られたのであります。

 

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コメント

多くのことをお教えいただいてい、ることに感謝しながら拝読いたしました。哲学者、九鬼周造の偶然性についての研究は、日本人の心の奥深くに潜んでいるものを突き止めようとしてたのだろうと思いました。人間は本質的に偶然性に貫かれた存在であり、自己の内に存在の根拠を持たない。人間の存在は本質的には「無」であると考え、さらに遡って生命の始まりを実証しようとすると、原始偶然は絶対者の中にある他者であると考えるに至ったとあります。これは神という存在を認めたことだと思われます。そして、この偉大な哲学者の晩年の述懐のことばが印象に残りました。 
日本人が自分という存在を突き詰めるとどうしても「無」に行き着いてしまう気がしますが、聖書とキリスト教では、信仰者には、自分の存在は神の意思によるかけがえのない唯一の存在で、決して偶然のものではないと考えることができる、と導いていただいています。今回もとても詳しく分かりやすくお話していただいていますので、これまで学んだことも思い出すことができました。
さらに、エロースとアガペーについて、 あらたに、神は愛、神の中に「エロース」の愛と「アガペー」の愛があり一つに融合している、と教えていただきました。心に沁みる文を繰り返し拝読いたしました。「ああ、エフライムよ。。。」で始まる神の嘆きと愛に満ちたことばにいつも感動します。
九鬼周造の、「いき」の構造、をとりあげていただき、日本の文化の中の愛について生き生き面白く分析されていることに感銘を受けました。
また、聖アウグスティヌスについての教皇ベネディクト16世の演説を載せていただき、ありがとうございます。アウグスティヌスについての生涯を繰り返し拝読しました。「理解するために信じなさい、信じるために理解しなさい」 は大切な言葉です。            

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