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2020年10月15日 (木)

喜びなさい!

悪についての小考察その7

――「主において常に喜びなさい」と言われてもね・・・

 

カトリック教会の2020104日のミサの朗読は使徒パウロのフィリピへの手紙です。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 4:6-9

(皆さん、)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 

この時パウロは獄中におり、またフィリピの教会には深刻な抗争が進行中であったと推測されています。そのような困難な状況にあってもパウロは「主において常に喜びなさい」(フィリッピ44)と言っています。これは実に驚くべきことではないでしょうか。

人間的には心配しあるいは煩悶して当然です。しかしパウロは「主において喜びなさい」と言っているのです。喜びの動機と理由は主イエス・キリストにあります。十字架の苦しみに打ち勝ったキリストがパウロとともにて、パウロと言わば一致して生きているのです。キリスト教という宗教は十字架と復活という過ぎ越しの神秘を生きる宗教です。

 

ヒンドゥー教の偉大な聖者シャンカラの教えを学んでいます。

人は本来の自己、真の自己であるアートマンに出会い知り、自分がアートマンであることを悟るならばそこに無明からの解脱があり、吉祥(喜び)がある、という教えだと思われます。たとえ身体に苦痛があっても真の自己であるアートマンは命と光の喜びに満たされているのです。何か上述の使徒パウロの述べている喜びの体験に似ているような気がします。

パウロは言っています。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテア220)

 

さて、悪についての考察を行ってきました。アートマンによれば、「私」という意識が悪の根源であるとされています。「私」という意識が無明の所産であるとシャンカラは述べています。「これがわたしである。」「これがわたしのものである。」という思い込みが無明であり、輪廻、迷いの原因です。(『シャンカラ』島岩著、清水書院、113㌻より。)

この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。ズバリ結論を言えば、

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

ということと思われます。(『真理のことば ブッダ』佐々木閑著、NHK出版、76㌻より引用。)

人間とは色々な要素の集合体に過ぎない。ブッダの『真理の言葉』(ダンマパダ)で次のように言われています。

見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろなものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住しない。(147、ブッダの真理の言葉 感興のことば 中村 元訳、岩波文庫、30㌻より引用。)

以下にこの結論へ至る説明を要約して敷衍します。

この状態は車輪にたとえられます。車輪は回転して物を運ぶという独自の働きをしているが、種々の部品、外枠、スポーク、軸受けなどから構成されており、仮の存在として「車輪」と呼ばれているに過ぎません。もし部品の結合が解けてバラバラになってしまえば、もはや「車輪」は存在せず、回転して物を運ぶという機能も消滅します。人間も車輪と同じで、肉体をつくる種々の物質的要素と精神を担当する種々の心的要素が集まって「私」という仮の存在を形成しています。これらの構成要素が分解されるならば、「私」という存在は消滅し、私の世界も消え失せてしまいます。これが「私」の正体です。自分とは種々の要素が組み合わさって出来た「自己認識機能」「意思機能」であります。しかし人には「意思機能」があるので、自分の意思で輪廻の世界から脱出して涅槃に入る可能性は残されています。ブッダは輪廻思想を信じていたが、ブッダにとって輪廻とは、何か「絶対的な自己」というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり、死に変わりを繰り返すというものではありません。ブッダにとって「不滅の霊魂」は存在しません。すべては要素の集合体です。

「あらゆる生き物は要素の集合体として存在している」のであり、わたしという存在も要素の集合体であり、自分にとって愛しい人々も要素の集合体であります。そして私という集合体と他の人々の集合体とは因果の法則によって相互に影響し合っています。お互いに影響し合っているのです。それは人間同士に限らずあらゆる生き物に間に成り立つ関係です。ですから、たとえ「霊魂不滅」を信じていなくとも、人が亡くなった場合でも、その人が生きていた時に周りの人々に与えた影響はそのまま人々の集合要素の中に残ります。子を亡くした親は悲しみに心が引き裂かれる思いをします。

親は子がどこかに生き続けているのではないかと考えるのは親の情として当然ですが、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。このように考えれば、死んだ子は今の生きている、といえるでしょう。このように考えれば、亡くなった人の残す遺物や遺骨はさほど重要ではない、ということになります。

「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもありません。」

究極の自己という存在はない、というのがブッダの考えです。「すべてのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。すべてのものはその関係性において存在している」と考えます。この考え方を「諸法無我」といいます。)

さらにブッダは、世界で最も古いと言われているスッタニバータというお教で《空》という教えを説いています。すなわち、「自分というものがある」という思いを取り除きなさい、と言っています。つまり自分というものが永遠に存在するのではない、ということです。「私」はいろいろな要素の集合体に過ぎない。そこにある「私」は《空》であり、形はあっても実体のない仮の姿にすぎない、というのです。そのことを悟ってそのような自分に執著しなければ苦しみから解放される、と教えます。実にすべては諸行無常であり、「私」はたえず移り変わっています。人は記憶によって同じ自分が存続していると錯覚しているが、不変の自分は存在しないのです。本当の自分あり方を心が誤って認識しているにすぎません。

「すべてのものごとに永遠の実体はない」ことを教える「諸行無常」が永遠の真理であり、この真理を自分について当てはめれば、それは「諸法無我」であり、「私」という認識も幻に過ぎないと教えています。

 

いまわたしは、シャンカラからブッダに遡るという逆のコースを辿っています。

ブッダは紀元前500年頃に人(生・没年は不詳)です。イエスより500年も前に人です。ヒマラヤ山脈の南麓にあってカピラヴァットゥ国の王子として生まれ29歳で出家し、苦行の修行を経て只管の瞑想に入り、菩提樹のもとで涅槃の悟りを開いたと伝えられています。

ブッダをして現世を捨てさせ、修行に道に入らせるよう駆り立てた者は人生の苦悩でした。ブッダは、人生とは「一切皆苦」であると悟ります。「一切皆苦」は輪廻と結びついています。当時の人々は、人は生まれ変わり死に変わり「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」「阿修羅」の六つの世界を経めぐりながら果てしなく苦しまなければならないと信じていました。(既述のように、シャンカラは、輪廻は無明の結果であり、無明からの解放されるためにはアートマンを知ることが必要であると説きました。)

ブッダは、輪廻の世界からの脱出は人の心の悪、つまり煩悩を完全に断ち切ることであると考えたのです。一切皆苦は自分自身の煩悩が作り出している。煩悩を断ち切ることが真の幸福への道であるとブッダは悟ったのでした。

ブッダが悟ったこの真理の道を「四諦」と言います。(以下に、佐々木閑『真理のことば』32㌻以下によって説明します。)

苦諦:この世はひたすら苦しみの世である。

集諦:この苦しみの原因は心の中の煩悩である。

減諦:煩悩を消滅させれば苦悩が消える。

道諦:煩悩を消滅させるためには具体的に八つの道がある。 

 これは八正道(はちしょうどうしょうどう)と言います。八は以下の通り。

一 正見(しょうけん)  正しいものの見方

二 正思惟(しょうしゆいい) 正見にもとづいた正しい考えを持つ。

三 正語(しょうご)  正見にもとづいた正しい言葉を語る。

四 正業(しょうごう)  正見にもとづいた正しい行いをする。

五 正命(しょうみょう)  正見にもとづいた正しい生活を送る。

六 正精進(しょうしょうじん) 正見にもとづいた正しい努力をする。

七 正念(しょうねん)  正見にもとづいた正しい自覚をする。

八 正定(しょうじょう)  正見にもとづいた正しい瞑想をする。

『ダンマパダ』では、四諦八正道について次のように言っています。

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、

正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち、(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(しゅうめつ)におもむく八つの尊い道(八正道)とを見る。(以上の訳文は,『ブッダの真理の言葉 感興のことば』 中村 元訳、岩波文庫、36㌻より引用。)

「仏と法と僧」は仏教の三つの重要な要素であわせて「仏法僧」と呼び、聖徳太子が「十七条憲法」で、「厚く三宝を敬え」といっている、あの三宝をさしています。

 

このように、ブッダは八正道という修行を通して、自分の努力により、悟りに達する生き方を貫きました。(構成の大乗仏教はこのブッダの生き方とはかなり離れてきたそうです。) 

キリスト教徒仏教の違いはどこにあるかと言えば、イエスとブッダの違い,それも、そもそもの両者の現れ方の違いにあると言います。(以下、佐々木閑『真理のことば』39-41㌻参照。)

イエスは神の国の福音を宣べ伝え人々を福音へ導くために登場しましたが、ブッダは自分の問題の解決のために修行したのであり、人を助けるためではありませんでした。ブッダは、よりどころはあくまでも自分であると遺言しています。

このブッダの生き方は従来のバラモンの教えに真っ向から背くことになったそうです。

シャンカラの教えでのべたように、ヒンドゥー教の教えでは、自己の本性はアートマンであり、そのアートマンはブラフマンに他ならないということを悟ることが幸福への道でありました。この梵我一如という伝統的なバラモン教の教えをブッダは取り上げなかったようです。

仏教はどのようにして成立したのか。ブッダはバラモン教とヒンドゥー教をどう考えていたのか。本当にアートマンの存在を否定したのか。

この難しい問題に正確に答えることは困難です。ここでは仏教学・インド学の日本での権威野中村 元博士の入門書「中村 元の仏教入門」(春秋社、2014年第一刷、2020年第7,59-70㌻より。)に基づいてささやかに考察をしてみたいと思います。(注1)をご覧ください。

 

さて、ここ、第8章でわたしたちは立ち止まり問題点の整理をする必要を感じます。

わたしたちは悪についての小考察を行ってきました。

善とは真の自己を知ること、から、ヒンドゥー教の有名な教師シャンカラの教え、――「私」という意識が悪の根源、「私」という意識が無明の所産であるので、本来の自己出るアートマン手の出会いにより無明を克服せよ――から原始仏教の教えに遡りました。この点について原始仏教はどのように教えているのでしょうか。釈迦の教えでは、「この世界に『これが私だ』といえるような究極の自己など、どこにもない。この世界も自己という存在も実在ではない、見えるのは仮の姿に過ぎない。」だったと理解します。

しかし他方、「人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている。」とも言っています。(注1参照)

アートマン=ブラフマンについての複雑な議論はここで棚上げにします。両者とも「私」を否定することが真の自己との出会いないし解脱であると言っているように理解しました。

 

「自分探し」という課題の設定は、その課題の措定そのものが問題であるのかもしれません。間違った問題の立て方をすれば、いくら頑張ってもその問題の解決には至らないのです。例えばカントが挙げている例ですが、

世界は空間・時間的に有限であるのか、無限であるのか

という問題はアンチノミーと呼ばれる二律背反の問題です。時間・空間という次元が有効な世界で初めて意味のある問題ですが、時間・空間という次元が無い世界では無意味な質問になるというのです。(『カント入門』石川文康、ちくま新書参照)

そもそも自分とは存在しないという世界では自分探しは意味がありません。あるいは、わたしたちが「自分」と考える自分は本当の自分ではないというなら、本当の自分と偽物の自分がいることになります。

話は振り出しに戻ったような気がします。

 

他の誰でもない自分、世界中に一人しかいない人間、かつていなかったしこれからも現れない人間である自分(あるいは太郎さん、花子さん)を如何に認識するのか、という問題です。この世の中では種々の機会に「自己証明」を要求されます。例えば本人限定郵便を受け取る場合、運転免許証などの自己証明の書類の提示が求められます。日本ではマイナバーという制度が導入され、国民は誰でもその人だけの番号が付けられます。このような自己証明は、もっぱら事務的・機械的に、行政的・経済的・金融的…な必要から、つまり管理的な意図をもって実行されているわけです。交通違反をして拘束された者が免許証の提示を求められるのは、その人固有の人格的な価値に関係なく行われることです。

人がその人として尊重されるということは何を意味しているでしょうか。人はそれぞれ違いを持っています。違うからこそ個性があり、人格の価値があります。もし能力が数量化されて評価され数値によって個別化が行われるとしたらその個人のかけがえのなさは何処で、何によって評価されるのでしょうか。もし人の価値が、「どれだけ社会で役に立つかどうか」によって決められるとしたら、役に立たないどころか負担をかける人は、存在の価値がないものとして抹殺されるということになりかねません。ナチスの優性思想は実際、障害者を抹殺する挙に走らせたのでした。

この世でまことに不完全ながら、一時的にせよ、そのようなかけがえのなさという価値が実感されるのは、親子の間、そして異性間の恋愛であります。(まことに脆弱な関係ではありますが、それでも人はそこに自他のかけがえのなさを感じます。) 人は「自部はこの瞬間のために生まれ生きてきたのだ」という体験をすることがあります。もちろん宗教の世界でそれは起こっています。いわゆる神秘家と呼ばれる人々の体験はそうしたものでしょう。(後日取り上げたい。) ヒンドゥー教の聖者(例えばシャンカラ)、仏教の徹底した信奉者(例えば妙己人たち)の中にそのような体験があるのだろうと思います。とはいえ、それは特別な場合であり、一般的ではありません。

わたくしはこの「善と悪の問題」を取り上げているのは福音宣教の視点からなのです。誰でも経験しうる体験の中に、神の愛への接点がないだろうか、と考えます。実際あるのですが、それが神体験と結びついて受け取られることは少ないのではないでしょうか。

 

ところで「恋愛」と言いますが、「恋」と「愛」とは違います。関係はあり、それもかなり深いものですが、恋は愛ではない。もちろん「恋」とは何か、「愛」とは何か、を論じればきりのない議論になります。キリスト教でも、アガペーとエロースとの比較が行われてきました。最近では教皇ベネディクト十六世が回勅『神は愛』を著わしています。これは両者を厳格に峻別する手法を取っていない点、大いに裨益されます。

(注2)

西田幾多郎と同時代のカトリック信徒で九鬼周造という有名な哲学者がいて、『いきの構造』という有名な論文で、人間の異性への欲求とその自制、この求める愛,エロスと神の愛、アガペーの関係を論じているように見えます。

この九鬼周三の思想を取り上げて学問的かつ詳細に、そして興味深く論じたのは、夭折した若き哲学者、宮野真生子氏でした。そこで次回、第8回は宮野真生子『なぜ、わたしたちは恋をして生きるのか』を軸に、『神は愛』を参照しつつ、恋と愛、エロースとアガペーという課題を見ていきたいと思います。

 

 

(注1) インド哲学では自己をアートマンと言います。もとは呼吸を意味する言葉で、ドイツ語のアートメンにあたります。もとは呼吸を意味し、息をしている人間は生きており、生きている人間にはその基本にアートマンという自己がいる、という素朴な考えに基づいているように思われます。

ところで仏教では次のように考えます。

「およそ自分の所有とみなされているものは常に滅するから、永久に自己に属しているものではない。またわれわれは何ものかをわれわれと考えてはならない。」

「われわれ人間を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己であると解することはできない。」

ウパニシャッド哲学では認識主体としてのアートマンというものがあり、それを霊魂であり実態であると考えています。しかし仏教では実体としてのアートマンを否定しました。無我説とはこういう意味でした。

人間には霊魂が宿っており、霊魂は不死であるなら、人間が殺されても霊魂は死なないわけだから、人を殺しても問題ない、と考えることができる。(そうなるべきではない。)だから霊魂という実体があって不死であるという考えは倫理上不都合である、と仏教は考えました。霊魂が存在しなければ、人間の生命ははかなく消滅する、だからこそ生命を大事にしなければならない、と考えたのです。

但し後代になると無我説は、人間はいかなる実体も持っていない、という意味であると解せられるようになりました。「我という実体はない」だから我欲、我執を捨てなさい、という方便としての勧めのために無我説が説かれたのでした。当時のバラモン教やジャイナ教は何らかの意味での普遍で恒久的な自我、あるいは実態である霊魂の存在を想定していました。その霊魂が輪廻によって六つの世界を生まれ変わり死に変わって廻ると信じていました。ところが仏教は実体としてのアートマンを認めませんでした。その代わりに、人間を「五蘊」という五つの構成要素で成り立っている集合体と考えました。五つ(五蘊)とは、

(しき)・受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき) です。

「色」とは感覚的・物質的なもの一般を意味します。

「受」とは意識のうちほぼ感覚と感情とを含めた作用

「想」とはこころの内部を構成する知覚や表象を含めた作用

「行」とは能動性または潜在的形成力

「識」とは対象それぞれを区別して認識する作用

であり、個人はこのこれらの五蘊から構成されていると考えます。この五つはわれわれの存在の特殊な在り方を示しており、それをダンマと呼びます。あれわれの存在はこれらの五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され成立しています。このすべてものものの集まりを世俗的に仮に「われ」「自己」と呼んでいるが、われわれに中心主体はそのいずれの法の領域のうちにも認めることが出来ない、と教えています。

例えば、物質的な構成要素は色である。色は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我、われならざるものである。非我はわがものではない。これはわがアートマンではない。このように説明します。色色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)・(・)識(しき)のうちのどれ一つもアートマン、本当に自己であるとは言えない、となります。

さらに、六根、六境という説明もあります。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、と思考器官のために六つの器官があります。すなわち

(げん)・耳(じ)鼻(び)・(・)舌(ぜつ)・(・)身(しん)・(・)意(い)

の六つの場があります。この六つに対応している領域が六境で、次のようになります。

(しき)・声(しょう)香(こう)味(み)・(・)触(そく)法(ほう)

触は身体で触れられるもののこと、法は考えられるもの、思考器官で考えられるもの、思考器官の相手となるものです。

仏教はこれらの六根、六境のうちのどこにも真の自己は認められないとし、形而上学的原理としてのアートマンを否定しました。そのためこの思想的立場は無我説と呼ばれていますが、アートマンそのものを否定したわけではありません。もし自己を否定しただけなら「我がない」「自己がない」とそれだけを言えばよかったわけです。ところが説いていることは、客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない、自己ではない、と言っている。一方で「アートマンが実在するかどうか」という問いについては、仏教は沈黙しています。「むしろ仏教は人間の行為のよりどころとしてのアートマンである自己を承認していました。」ブッダの臨終の説法は「自己(アートマン)に頼れ、法に頼れ、自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」という者でした。「自己の頼るということがどういうことかというと、人間の真の自己というものは人間があるべき姿、法に従って、法を実現するように行動する中にあらわれている、自己の頼るということは法に頼ることとおなじであるということです。」(同書、中村、66㌻からの引用。)

中村 元師のこのような説明を聞くと混乱します。仏教はアートマンを否定したのか、しなかったのか。形而上学の実在としてのアートマンは認めなかったが、法としてのアートンを認めていた、という意味になります。では実在としてのアートマンと法としてのアートマンはどう違うのでしょうか。

「仏教では実体的な我、アートマンを想定することはありませんでしたが、ダンマというものは認めています。これは、法と訳されますが、われわれを現にかくのごとくあらしめている、現実に成り立たせて決まりとか規範のことです。」(同書、69㌻)

 

(注2) 回勅『神は愛』は「エロース」と「アガペー」の関係に言及しています。(特に9㌻以降。次回にとりあげたい。

個々の人間の唯一性という価値を述べている福音は数々あるが特にルカによる福音書が重要です。読者の労を省くためにも、煩を厭わず以下に本文を引用します。

◆「見失った羊」のたとえ

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

◆「無くした銀貨」のたとえ

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

◆「放蕩息子」のたとえ

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

三つのたとえ話のなかで、見失った羊のたとえ、と無くした銀貨のたとえは、なくてはならない固有の価値、代替の利かない価値ある存在について語ります。有名な「放蕩息子のたとえ」は、

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。…』

とあり、「我に返った」とあります。「本来の自分に帰った」という意味でしょうか。普通は「回心」という意味に解釈されています。本来いるべきところへ向かって生きる方向を転換する、という意味です。

「世界に一つだけの花」というSMAPのうたあります。その歌詞はいくらか、個の唯一性の価値を述べていると思います。

歌詞

No.1にならなくてもいい
もともと特別な only one

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?
そうさ 僕らは

世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

困ったように笑いながら
ずっと迷っている人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
そうさ 僕らも

世界に一つだけの花
一人一人違う種をもつ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1
にならなくてもいい
もともと特別な only one

ラララララ

提供元LyricFind

ソングライター: 敬之 槇原

世界に一つだけの花 歌詞 © O/B/O Jasrac

 

 

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コメント

ブッダのことを詳しく教えていただきました。シャンカラの説く、アートマンを知ることにより無明からの解放されるという考え、自分の努力で悟りに達しようとする生き方が東洋の考えであることなど、東洋のを宗教について多くのことを教えていただきました。
それに対し、「世界に一人しかいない人間として人が尊重される神の愛」、「神の愛への接点」、という言葉があたたかく心に刻まれました。掲載していただいた聖書からの三つのたとえ話、そして、「世界に一つだけの花」、の詞も心に残ります。

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